戸惑いとときめき
一筋の光というものは、突然差し込んでくる。
私が彼女に抱いた第一印象は、そんなポジティブなものだった。
第1話
「一条夏海といいます。よろしくお願いします!」
教室に響き渡る、さえずる小鳥のような澄み切った少女の声。元気よく頭を下げた彼女の姿に、私は思わず見とれてしまった。
ぱっちりとした大きな瞳に、ほんのりと赤みを帯びた唇。肩にかかる黒髪は、太陽の光を浴びて輝いている。
どこか幼さを残す可愛らしい顔立ちに、私、樫本彩葉は自分の心臓の鼓動が早まるのを感じた。
今は2年生の5月。
この時期に遠方から転校してきたらしいから、何か理由があるのかもしれないが…。
「えっと、席はー…。」
担任の先生が、黒板に貼られた座席表を見ながら、なにやら考えていた。
「一条さん、あそこの席でいい?」
「え、はい!」
一条さんの明るい声が、教室中に響き渡る。
先生が指示した席は、私の隣だった。
それは、つい最近まで仲が良かったクラスメイトの席。
彼女が転校して以来、誰も座ることなく空いていたその席に、今日から新しい友人が…。
「樫本は成績優秀でとてもしっかりしてるから、何かあったら遠慮なく聞いていいからね。」
担任の言葉に、私は小さくため息をついた。
優等生などという肩書きのせいで、いつも誰かのサポート役を任されてしまう。
傍から見たら羨ましいのかもしれないこの肩書きは、どこか重く、私を縛り付けているような気がする。
「困ったことがあったら聞いてね。」
なんて、心の底からそう思ているわけではなかったけど、とりあえず笑顔を作って見せた。
初対面なのに、少し失礼だったかなと思ったけれど、一条さんは安堵したような表情で私を見つめ、「ありがとう!」と微笑んだ。
それを見た私は、ああ、この子ならきっとすぐにクラスに馴染めるだろうと、私は確信した。
明るい性格で誰とでも仲良くなれるような、そんな雰囲気を持っていると思ったからだ。
一方の私はというと、いつもクラスの片隅で静かに本を読んでいることが多く、穏やかに日々を過ごすタイプの人間。
だけど一条さんとの出会いが、私の平凡な日常に少しずつ変化をもたらし始める。
一時限目は、国語の読書感想文の授業。
図書室へと続く廊下の柔らかな光の中で、私は後ろからついてくる一条さんの姿に視線を向けた。
先程の一条さんの笑顔は、冬の寒空に咲く一輪のひまわりみたいに眩しかった。
だけど今は、少しだけ緊張しているようにも見える。
転校してきたばかりだから、緊張するなと言うほうが無理があるだろう。
「緊張するよね。」
私が声をかけると、一条さんは少し驚いたような表情を見せた後、すぐに笑顔になった。
「うん。でも彩葉さんがいるから、安心だよ。」
その言葉に、私は頬がほんのりと染まるのを感じた。
授業中の図書室は、昼へと移り変わる陽だまりに照らされて、暖かくも静かで、心地よい時間が流れている。
私は足早に、魔法の冒険物語が並ぶ、お気に入りのコーナーへと足を運んだ。
「どれにしようかな…」
書棚をじっくりと見ながら、心に響く一冊を探す私。
その時、後ろの棚の方からかすかな声が聞こえた。
「この本、読みたい、んだけど…。」
なんだろうと思って振り返ると、一条さんが高い書棚の前に立っていた。
背伸びをしてなんとか目的の本を取ろうとしているが、背が足りずに届かないようだ。
「大丈夫?」
「あのね、この本が面白そうなんだけど、手が届かなくて…。」
一条さんは、少しだけ恥ずかしそうに目を伏せた。
「ちょっと待ってね。」
身長が170センチある私は、ひょいっとその本を手に取って一条さんに手渡した。
「ありがとう。」
人というのは不思議なもので、何気ない行動に対してお礼を言われると、なんだか恥ずかしくなってしまう。
「こ、こういう本好きなのって、変かな?」
「え?そんなことはないと思うけど…。」
一条さんが選んだ本は、海外の有名な童話の絵本だった。
「むしろ素敵な本だと思う。」
「や、やっぱり別の本に…。」
恥ずかしそうに慌てて本を戻そうとする一条さんを見て、私は思わず「ちょ、ちょっと!」と、大きな声を出して腕をつかんでしまった。
「あ、彩葉さん?」
「あ、えっ…えっと。」
しまった、と思った。
こんな静かな空間で大声を出してしまって何も起きないはずがなく、「なんだなんだ?」「大丈夫?」などと、クラスメイトたちからの視線を一手に浴びることになってしまった。
「樫本さん、大丈夫?」
「あはは…。すみません大丈夫です。」
そう言いながらも、動揺している私は一条さんの腕をしっかりと握りしめたままで…。
「びっくりしたけど…。あなたたち、なかなかお似合いだと思うわよ。」
「…え?」
そう言って、国語の先生はにっこりと笑っていた。
それはクラスメイトも思っていたらしく、「意外と積極的なんだね。」とか「王子様とお姫様みたい」とか「まさかのカップリング!」などと、言われたい放題になってしまった。
無論そんなことを言われたことがなかった私は、まともに返事をすることができなかった。
「一条さん、よかったわね。」
「はい!」
とどめの一撃を、先生から受けてしまった。
これは何というか…、とっても恥ずかしい。
何とか潜り抜けたいと思い、考えを巡らせた私は、「よ、よかったら、一緒に感想文書かない?」という、なんとも苦し紛れなことを口に出してしまった。
それでも…。
こんな私を見た一条さんは、とても嬉しそうだった。
「うん!ありがとう、彩葉さん!」
こうして私たちは、一条さんが選んだ本を広げ、一緒にページをめくり始めた。
「やっぱりこういうお話好きだなあ。」
「このキャラクター、ちょっと私に似てるかも…。」
隣り合って座りながら、本の内容について一緒に一緒に語り合った。
私は、読書感想文の書き方のコツを一条さんに教えながら、自分も改めて本の内容を深く理解していく。
静かな空間の中で本の空想に没頭する時間は、私たちにとってかけがえのないものとなった。
昼休み。
「一条さん、お昼ご飯はどうする?」
「お弁当持ってきたんだけど…。」
それを聞いた私は、心の中で安どの息を吐いた。
私も毎日お弁当を持ってきていて、入学してから学食や購買を利用したことがなく、案内することができないからだ。
「彩葉さん、どんなお弁当?」
キラキラした一条さんの瞳が、私のお弁当箱に釘付けになっている。
私は「あはは…。」と、少しだけ苦笑いを浮かべながら、お弁当箱を開けた。
「え、あ…ええ!?」
そこには、海苔で可愛く顔を描いたおにぎりと、ふわふわとした卵焼きが、お弁当箱の中にちょこんと座っていた。
「わぁ、カワイイ!」
それを見た一条さんは、まるで子どものようだった。
いつも質素なお弁当なのに、今日に限って張り切ってしまったのだろうか…。
「い、一条さんのお弁当は?」
そう言って、苦し紛れに話を逸らした私。
一条さんは、トートバッグからパンダの形をした可愛いお弁当箱を取り出した。
「パンダさんじゃん!」
「うわっ!」
何事かと思いびっくりして振り返ると、クラスメイトの佐伯奏が立っていた。
「も、もう…。」
「ごめーんよ。」
佐伯奏。
私の数少ない友人の一人で、この高校の生徒会長を務めている。
「一条さん、さっきぶりだねー。」
「は、はい。今朝はいろいろ教えていただきありがとうございました。」
そういえばそうだ。
生徒会や先生が、学校の説明は一通り済ませていることになぜ気が付かなかったのだろう。
「私も一緒に食べたーい。」
そう言って返答も聞かずに椅子を持ってきた。
「まあいっか…。」
こうして奏も加わって、お弁当の見せ合いっこが始まった。
私のお弁当と違って、奏のお弁当はいつもバランスが良くて健康的なのだ。
「相変わらず凄いお弁当だね。」
「あはは、そうかな?あーちゃんと一条さんの可愛すぎるお弁当と比べたら、うちのって味気ないよ。」
そんなことはない、栄養があってこそのご飯というものだ。
「いつも優しいね。」
「何も言ってないじゃない。」
そう言ってニコニコしている奏は、お嬢様のような気品を持ちながら、話すとその口調は天真爛漫でとても気さくで、誰とでも仲良くなれるから羨ましい。
「あーちゃんは頼れるお姉さんだよ。」
「か、勘弁してよ…。」
そういうことを面と向かって言われると、なんとも言えない感情がこみ上げてくる。
特に奏とは幼少期からの付き合いだから、尚更だ。
「ねぇねぇ、あーちゃん。今度みんなで一緒にご飯食べに行こうよ!」
奏の明るい声が、教室に響き渡った。
「一条さんも!どこに行きたい?」
「え、ええっと…。」
だめだ、完全に奏の勢いに押されてしまっている。
それに、一条さんが遠方から来て間もないのは、奏だってわかっているはず…。
「無難にパフェかクレープでいいんじゃない?」
一応助け船のようなつもりで、私が好きなスイーツを提案してみた。
「いいね!きーまり!」
…即決だった。
奏の天真爛漫な性格は、周囲の人を笑顔にする不思議な力がある。
それは一条さんも感じているみたいで、すぐに打ち解けて楽しそうに食事をしていた。
奏と一緒にいると、いつも穏やかな春の風を感じているような、そんな気持ちになれた。
「佐伯会長、素敵な人だね。」
隣で授業の準備をしている一条さんにそんなことを言われ、奏の本当の性格を知っている私は少しだけ苦笑いをした。
お調子者な性格だから、ガッカリしないといいけど…。
それでも、一条さんが楽しくすごせるのは私も嬉しいから、深く考えないようにした。
新しいクラスメイトとの出会いは、一条さんの毎日を、きっとカラフルなものにしてくれるから。
「今日は本当にありがとう!」
一条さんの明るい声が、夕焼けに染まる街に響いた。
「そんな…、私のほうこそありがとうだよ。」
偶然なことに、一条さんと私は自宅の最寄り駅が同じだった。
(こういうことって本当にあるんだ。)
そんなことを考えて、一条さんと目が合うたびに、私の心臓はまるで逃げ出した小鳥のように、胸の中でバタバタと騒ぎ始めた。
転校してきて初日の人と一緒に下校した経験なんて、今まで一度もなかったから、少しだけ緊張しているのはここだけの内緒にしてほしい。
ちなみに学校近くの駅は、一日の利用者が国内でもトップに君臨するほどで、いつの時間も混雑している。
改札では、絶え間なくやってくる電車のアナウンスや、帰宅を急ぐ人たちの雑踏で、八方からノイズが耳に刺さってくる。
そんな光景を目の当たりにして、一条さんは目を丸くしていた。
「すごい人…。」
「あはは…。毎日こんな感じだよ。」
私はそう答えた後、ふと気が付いた。
いつの間にか、一条さんの手を握っていたことに。
きっと、人ごみの中で迷子にならないように、という無意識の行動だったのだろう。
「ご、ごめん!」
そう言って私はすぐに手を離そうとしたけれど、その手を一条さんはギュッと握り返してきた。
「…このままがいい。」
その言葉に、私は頬を赤らめずにいられなかった。
「ねえ、彩葉さん。明日も一緒に帰ってもいい?」
「もちろんだよ。私で良ければ。」
今の私に、彼女のことを否定する理由なんてこれっぽっちもなかった。
不思議なことに、誰かと一緒に下校をすると、時間が進むスピードがとても早く感じる気がする。
まあ、電車に乗っているときは、いつも見たくもない参考書を見つめていたから、そう思うのも自然なことだろうけども。
私たちが通っている高校の名前は、都立高ノ宮高等学校。
周囲を賑やかなビルや人に囲まれた、国内でも有数の繁華街にほど近い学校だ。
校則が穏便なことで知られていて、近隣の高校の生徒から羨ましがられることがある。
しかし新宮高校は有名大学に毎年たくさんの生徒が進学している、いわば進学校だから、内申点に響くようなことを自らする生徒は、ほぼいないといっていい。
さて、最寄り駅につくと、「また明日です!」と言って一条さんは一人で帰ろうとしていた。
出口も同じだから自宅まで送ると言ったけど、「ご迷惑かけちゃうから。」と言って足早に帰ってしまった。
「どうしたんだろう。」
なんて呟きながら、少しだけ駅の出口で立ち止まっていた。
まあ…、無理もないよね。
そう思って一人で歩き始めた道中、私は何度もため息をついていることに気が付いた。
今日は楽しかったけれど、少しだけ疲れた。
一条さんは、太陽のような明るい笑顔が魅力的な子で、まるで、どこからともなく現れた春の息吹のような、そんな暖かい光を放っている。
だから…。
こんな私と一緒にいてくれるのは嬉しいけれど、きっと時間の問題だと思う。
そんなネガティブなことを考えていたら、いつの間にか自分の家に着いた。
少しだけ大きなタワーマンションに住んでいる私と両親だけど、警察の仕事をしている父と母はいつも帰りが遅い。
だから実質一人でここに住んでいるようなもので、少しでも嫌なことがあると、すぐに虚無感に襲われてしまう。
案の定玄関の明かりをつけると、そこにはいつもの私だけの空間が広がっていた。
「どうせ今日も遅いんだろうな…。」
そんな独り言を呟きながらベッドに倒れ込み、今日のことを改めて思い出してみた。
一条さんの笑顔、図書室での一幕、お昼休み、そして…。
明日も何かが起こる。
私はそう確信しながら、意図せず眠ってしまった。
「ん、んん…?」
真夜中の星空に響く、救急車のサイレンの音で目が覚めた。
「あー、やっちゃった…。」
そう呟きながら時計を確認すると、時刻は午前2時を過ぎたころ。食事を含め何も支度をしないまま眠ってしまったことを後悔し、仕方なく近所のコンビニに向かった。
ちなみにこの時間になっても、両親は家にいなかった。
「あと少しの辛抱だからって…。いつまでそんなこと言うんだろ。毎晩毎晩遅くに帰ってきて、私が起きる前に出勤するんだから。」
誰に聞いてもらう事も叶わない、固まった氷のような愚痴。
気分を変えたい。
そう思って足早に到着したコンビニは、入店した瞬間から心地の良い冷気が漂っていた。
そんな空間で何を買うか悩んでいると、後方から怒号が聞こえた。
何だろうと振り返ると、店員に向かって怒鳴り散らす男の姿があった。
乱れた髪と、赤ら顔。
…見慣れない顔だった。
「ご迷惑をおかけして申し訳ございません。ただいま品物について問い合わせをしておりますので、少々お待ちいただけますでしょうか?」
若い男性店員が丁寧に対応しているが、男の怒気は収まらない。
「なんだその態度は!客に偉そうに!」
男の言葉に、私はゾッとした。
気のせいだと思うけど、どこかで聞いたことがある気がしたからだ。
とりあえず急いで選んだ菓子パンをレジに持っていくと、先ほどの男が私の後ろに並んでいた。
怖くなった私は、レジ袋に入ったパンを握りしめ店を飛び出した。
家に戻ってもさっきの男の顔が頭に浮かぶ。
あの人は誰?
なぜあんなに怒っていたの?
何か嫌なことがあった?
そんなことを考えながら、細々と菓子パンを食べていた。
「ん、あれ?」
スマホに誰かからメッセージが届いていた。
「誰…、ああなんだ、奏か。」
しかし、時間が時間だから何かあったのかと思い、「どうしたの?」と送信すると、間髪入れずに返信が来た。
「明日の朝、ちょっとだけ早く来てくれない、かな?」
…こういう誘いは必ず生徒会がらみで、奏が何かしらのミスをしてしまった時のヘルプの隠語のようなもの。
そんな奏を気にかけるのも、私の学校での役割だったりするのだ。
それでも…、たとえこんな理由であっても、早くから学校に行く理由ができるから、心の内では嬉しかったりする。
「別に家にいたいとも思わないしね。」
そんなことを呟きながら「了解。」と送信をして、ベッドに横になった。
「一条さん、可愛らしい人だったな。」
学校に行くことが楽しみになったのは、何時ぶりだろう。
初めましての人に対して、こんなにも心を惹かれたのも…。
きっとこれは…。
そこまで考えたところで、自分の思考力を抑えようとした。
しかし彼女と一緒にいると、いつも穏やかな春の風を感じているような、そんな感じたことがない心地よさがあった。
「明日も楽しい一日になりますように。」
そう呟きながら、私は眠りについた。