メンズ・ラビリンス
少女は夢見がちだった。
現実に外で行われている戦争から目を背けて夢ばかり見ていた。
「ねぇ、セアト。私、ニホンのラーメンというものが食べてみたいわ!」
ラーメンどんぶりのぬいぐるみを抱きしめながらうっとりと笑う少女に、メイドのセアトは不憫なものを見る笑顔で答えた。
「セリカ様……。早く戦争が終わって平和になって、好きなものがお召し上がりになれるようになるといいですね」
来る日も来る日も石のように固いパンと野菜スープばかりで、少女は多少気が狂っていた。
母は玉の輿に乗った。
靴屋だった主人と死に別れ、陸軍のアルファード大佐に見初められ、街の小さなアパートから林の中の豪邸に移り住んだ。
「我が国にはいずれ若き指導者が必要となる」
部下や支持者を集めた夕食会で、大佐は母の身体を抱き寄せ、言った。
「男の子を産んでくれ、カペラ。頼んだぞ」
少女は新しい父親のことが嫌いだった。
もしも母が女の子を産んでしまったら、きっとこの男は母を踏みつけにして詰るだろう。産まれた妹を殺してしまうかもしれない。そんな予感を抱かせる大佐に懐くわけもなかった。
大佐も少女のことはどうでもよかったので、少女は自由に外へ遊びに行けた。林の中を探検していると、地下へ降りて行く不思議な階段を見つけた。
降りてみると、その途中で誰かの声が聞こえてきた。
「お待ちしておりました、セリカ様」
「……誰?」
どうして自分の名前を知っているのかと訝りながら、少女は聞いた。
すると暗闇の中から怪物が姿を現した。羊の角と脚をもった、チリチリのドレッドヘアーの大男だ。
怪物は名乗った。ハァハァと荒い息を吐きながら──
「私の名は、牧羊神メン」
「パンじゃなくて?」
「メンでございます。セリカ様の好きな、麺」
言われてみれば確かに、暗殺者のパスタみたいな、ゴワゴワした髪をしている。少女は麺が大好きで、固いパンには飽き飽きしていたので、メンに好感を抱いた。
「セリカ様はほんとうは、地下王国の姫でございます。理由あって地上で靴屋の娘に産まれてしまいましたが、王様は是非とも姫を王国に連れ戻したがっておりますゆえに、私がお迎えにあがりました」
「わあっ! 私が……お姫様? ねぇ、地下の王国にラーメンはあるかしら?」
「ございますとも」
「行く! 私、王国に帰るわ! で、どうすればいいの?」
「森の木の洞に巨大ガエルがおります。その腹の中から鍵をまず取って来てください」
「取って来たわ」
「早!」
「これは何の鍵なの? 王国への扉を開ける鍵?」
「残念ながら、そうではありません」
メンはぐふふ、と笑いながら、教えた。
「これは姫の王国へ帰る資格を問う試練でございます。姫の寝室の天井裏に、両目のない老人が住んでおります。その老人のところへ行って、傍らに置いてある剣を取って来てください」
「剣? かっこいい!」
「これは試練ですぞ? そこにいる老人は恐ろしい怪物です。ただ、両目がないので見えませんので、まぁ、危険はないでしょう」
「危険がないならいいじゃん」
「そこには豪華絢爛な料理がありますが、けっしてそれに口をつけてはなりません。いいですね?」
「わかったわ」
約束すると、少女は自分の寝室へ帰っていった。
夜、母が寝静まってから、鍵を使って少女は天井裏へ入った。
そこはあかるく、白い廊下がずっと奥まで続いている空間だった。
歩いていくと、いい匂いがしてきた。
メンが言ったとおり、テーブルに両目のない老人が着いている。その前にはこれも聞いていたとおり、豪華絢爛な料理が並んでいた。やきそば、パスタ、和蕎麦、うどん、ベトナムフォー、韓国冷麺、そして──
『ら……、ラーメンだ!』
一蘭のとんこつラーメンが赤いタレを浮かべて、ホカホカと湯気を立てていた。
少女は老人にもその傍らの剣にも目もくれず、ラーメン丼を手に取ると、豪快に音を立てて啜った。啜った。夢にまで見たラーメンを。それは夢よりも夢みたいな味がして、少女は夢中になった。
老人が、動いた。
フェレットのように長く尖った爪をワラワラと動かし、どこからか眼球を二つ取り出すと、爪の先に刺した。それを使って辺りを見回し、遂には一心不乱にラーメンを啜っている少女の姿を捉えた。
老人の怪物が少女を襲う。
ラーメンを食べている少女に、長く鋭いその爪を──
「子供がまだ食べてるでしょーがっ!」
少女の裏拳が火を噴き、老人は後ろへ吹っ飛んだ。
やがて母は無事、男の子を産んだ。
大佐はそれを境に優しくなり、ランボルギーニと名付けた息子を溺愛し、よく面倒を見てくれる姉のセリカのことも愛するようになった。
屋根裏で食べた一杯のラーメンは、少女を満足させた。もっと食べたいという気持ちはあったが、王国へ帰りたいという希望を吹っ飛ばすほど、それは絶望的現実から少女を救いあげていた。
「私、現実に生きるわ! だって現実って楽しいんですもの!」
牧羊神メンなんて、いなかったのだ。
少女の妄想癖は完治していた。