第93話 氷室の無自覚な恋心
氷室がジッと美雨を見つめているとソファから立ち上がった美雨が近付いて来る。
美雨が目の前に立つと彼女の深い海のような瞳が優しい光を宿して氷室の瞳を覗き込む。
(深い海のような瞳……なんて美しく温かく優しい瞳なのでしょうか……)
水族では海のことを「母なる海」とも表現する。
事実、水族は海から産まれたと言い伝えられているぐらいだ。
海は怖い面も持つが水族にとっては自分たちに恵みを与えてくれる大切な存在だ。
母親が自分の子供に必要な物を与えるように海は水族の生活に必要な全てのモノをくれる。
氷室は子供の頃に海で泳いだことを思い出した。
海に入ってぷかぷかと浮いていると母親の胸に抱かれているような安心感を覚えたのを記憶している。
その時自分は思ったのだ。
「海」と共に生き「海」と共に死にたいと。
美雨の瞳を見ているとなぜかその時の想いと同じ感覚になる。
(この瞳と共に生きこの瞳と共に死ねたら……最高に幸せでしょうね……)
「氷室様? どうかされましたか?」
「……っ!」
美雨の声で氷室はハッと我を取り戻す。
(私は今、何を考えていたのですか! 美雨様と生きて死ねたら最高なんて……どうかしてます!)
自分は水の王配になるつもりはないのにこれではまるで美雨の水の王配になって生涯を共にしたいと願ってることと同じではないか。
氷室は軽く頭を振り自分の思考を打ち消す。
「いえ、何でもありません。父上から美雨様を海芳丸にご案内するようにと言われたのでお迎えに上がりました。美雨様の準備はできていらっしゃいますか?」
氷室が笑みを浮かべて美雨に答えると美雨の頬が朱に染まる。
自分の笑顔が女性の心を掴むことを知っている氷室はそんな美雨の様子に満足感を覚えた。
(光主とやらもそれなりに美形の部類に入るかもしれませんが私の相手にはなりませんね。美雨様は私の顔の方がお気に召したようですから)
優越感に浸りながらチラリと光主に視線を向けると光主は鋭い視線を氷室に向けながらもどこか余裕のある態度だ。
その態度が氷室の気に障るがここでまた氷室はハッと気付く。
別に美雨の王配として光主と美雨の愛情を取り合っているわけではないのだから光主と張り合うこと自体がおかしな話だ。
自分はさっきから何を考えているのかと氷室は内心戸惑いを隠せない。
「はい。外出の準備はできているのでいつでも出かけられますわ、氷室様」
動揺する自分の心を制御して氷室は美雨との会話に集中することにした。
今はとにかく美雨を海芳丸に案内するのが氷室の仕事である。
「では出かけましょうか。港までは歩いて行ける距離なので歩きでかまいませんか?」
「ええ、それでいいですよ」
王女というから馬車でも用意しろと言われるかと思ったが美雨は快く歩きでの移動を承諾してくれる。
自分を特権階級の人間だと意識しない美雨の態度に氷室も好感を抱く。
(美雨様は女王候補の有力者だけありますね。もし私が水の王配になることを望む者だったらきっと美雨様の水の王配を選んだかもしれません)
神官になることを目指す氷室が水の王配になることを望むことはないがそれでもそんな想いが氷室の心に浮かぶ。
「護衛の方を連れて行きますか?」
先程、扉の前にいた護衛の男のことを思い出し氷室はそう美雨に尋ねる。
すると光主の笑い声が部屋に響いた。
「ハハハ! 笑わせるなよ、氷室。王配は女王を護る役目もあるんだぞ。氷室はひとりで美雨を護る自信がないのか? その腰にある半月刀はお飾りなのかよ!」
その瞬間、半月刀で光主に襲いかからなかった自分を氷室は褒めてやりたい。
いや、本当は自分の手が無意識に半月刀に伸びたのは事実だ。
だがそれを鞘から抜くことができなかった。
なぜなら彼女の凛とした声が氷室の動きを止めたからだ。
「光主! 今の発言は氷室様に失礼ですよ! 氷室様に謝ってください!」
美雨が発した声は聴く者を従わせることができる力の溢れる威厳すら感じるものだった。
華奢な身体の彼女の姿が何倍も大きく見えたのは氷室の見間違いではないだろう。
「怒らないでくれ、美雨。俺が悪かった。すまない、氷室」
光主はソファから立ち上がり氷室に頭を下げる。
氷室も光主の正体が分からない状態でやり合うのは得策ではないし美雨に人を斬るところを見せたくはない。
謝罪されればここはそれを受け入れるべきだと判断した。
「いえ、気にしていませんので大丈夫です。それに光主の言う通り王配は女王を護る役目がありますし美雨様の身は私が護ります」
冷静になるように心がけて氷室はそう答えた。
「氷室様。私の光の王配が失礼な発言をしたことを私からもお詫びいたします」
「美雨様は何も悪くはありませんよ。どうかお気になさらないでください」
美雨に謝罪された氷室は心の中がもやもやとする。
それは美雨が光主のことを「私の光の王配」という言葉で呼んだからだ。
その言葉から光主が美雨にとって「特別な存在」であることが伺える。
今現在の自分と光主が美雨の中で明らかに差があるのだと実感してしまう。
(この男に負けるなんて悔しいですね。でもなぜこんなにも悔しいのでしょうか……?)
自分の心がうまく制御できないことに氷室は戸惑いと苛立ちを感じる。
こんなことは今までそうはなかったことだ。
「ありがとうございます、氷室様。それでは出かけましょうか。光主は待っていてくださいね」
「ああ、気を付けてな。これは虫よけの印だ」
光主は美雨の身体を抱き寄せてその額に軽く口づけをする。
それを目の当たりにした氷室は再び無意識に半月刀に手が伸びたがすぐに我を取り戻し己の行動に制御をかけたので半月刀を抜かずに済んだ。
「もう! 氷室様の前ではやめてください、光主!」
羞恥心に襲われた美雨が光主に文句を言うのが聞こえるが氷室はジッと光主を睨みつけていた。
光主も氷室に自分の優位を見せつけるかのように不敵な笑みを氷室に向ける。
(私のことを虫扱いするなんて上等です。その虫に美雨様が奪われた時の貴方の顔を見るのが楽しみですよ)
氷室も口元に冷たい笑みを浮かべて光主に宣戦布告をする。
この時はまだなぜ光主に対してこれほどまで自分が敵愾心を抱くのかその理由に氷室は気付いていない。
後で振り返って考えるとこの時点で既に自分が美雨に恋心を抱いていたのだと自覚したのだがそれはまだ先の未来の出来事だった。




