第88話 封印された氷室の笑顔
「氷室兄貴。神官になりたいって言ってたのに気が変わったの?」
美雨と海羽が部屋を出て行くとすっかり今までの態度を崩した水連がおもしろくなさそうな顔で氷室に尋ねてきた。
「何のことです? 水連」
対する氷室は無表情のまま自分の弟に問い返す。
美雨を相手にしていた時は笑みを浮かべていた氷室だが弟相手に笑みを見せる必要はない。
「だ・か・ら! いつも氷のように凍てついた表情しか女に見せないのに何で美雨様に笑顔見せてるんだよ。もしかして美雨様の水の王配になりたくなったの?」
水連が疑う気持ちもよく分かる。
氷室は昔から女に対して冷たい態度を取ってきたからだ。
それには氷室が類まれな美貌であることが原因だった。
成人する前の少年時代から女たちは氷室の美しさに吸い寄せられるように群がってきた。
最初は氷室も族長の息子という立場から寄ってくる女たちにも愛想笑いを浮かべていた過去がある。
別に女にモテたいなど微塵も思ったことはないのだが族長の息子が民に冷たく接することはいけないことだとその時は思っていたのだ。
自分に言い寄る女も水族の民のひとり。
氷室はそういう認識でいた。
だが成長するにつれてそれが大きな間違いであることに氷室は気付く。
ある時いつものように言い寄ってきた女に対して笑顔で接していたら相手の女が勝手に氷室も自分に好意を持っていると勘違いを起こした。
そしてその勘違いを起こした女は氷室が別の女と会話していたのを見て嫉妬しその女に刃物を向ける事件が起こってしまった。
その場は氷室が襲いかかった勘違い女を取り押さえたのでケガ人は出なかったが取り押さえられた女は最後まで「氷室様が私に微笑んだのは私を愛しているからよ」と牢屋で叫び続けていた。
この事件があってから氷室は女に対して笑みを向けることをしなくなったし同時に自分の外見が人の心を惑わすほどの美貌だと自覚した。
自分の笑顔はいらぬ争いを生むとして氷室は笑顔を封印したのだ。
だから水連が今回美雨に対して氷室が笑顔を見せたことを不審に思うのは当たり前だ。
(美雨様に近付くために笑顔を見せたと説明したところで水連に私の真意は伝わらないでしょうし。そもそも我が弟ながらこの男がそれを理解できる頭を持っているとは思えませんからここは誤魔化しておきましょうか)
氷室が美雨に近付きたい理由は美雨の光の王配の中に潜むモノの正体を調べるためだ。
だがそのことを水連に話せば光主を水族から追い出すべきだという声が上がるだろう。
もちろん氷室だって水族の民に危険を及ぼす可能性のある男などすぐに排除したい。
しかし氷室たちが光主に水族から出て行けと言った場合に光主がどのような行動を取るかがまだ読めない。
少なくともあの時自分が感じた光主の中に存在するモノは強大過ぎる力を持っていた。
あの力を光主が氷室たちに向けた場合、ハッキリ言って氷室たちが防げるかどうか分からない。
アレの正体が分かれば氷室たちもアレに対抗する策を講じられる。
それまではこのことを他の者にいたずらに広めない方がいいはずだ。
「私が神官を希望していることは変わっていませんよ。ただ美雨様はこの国の王女であり女王候補者です。水の王配候補者のひとりとしてそれ相応の対応をしたまでです」
「本当に? なんか疑わしいなあ。自分を見る女の視線だけでいつもは不機嫌になる氷室兄貴なのに……」
水連は納得いかない表情だ。
だが水連の言葉で氷室もある事実に気付いた。
(そういえばいつもは私を見つめる女の視線を不快に思っていましたが美雨様の視線は不快だとは思いませんでしたね……なぜでしょうか)
氷室を見つめる深い海のような色をした美雨の瞳は不快どころかいつまでも見つめていて欲しいと思えるようなモノだった。
女の視線にそのような感情を今まで氷室は抱いたことがない。
「氷室の態度は王配候補者として当たり前だ。それより水連。お前こそもう少し礼儀正しくできないのか? 美雨様の前で他の女の話をするなんて非常識だぞ」
氷室が美雨の視線を不快に思わなかった理由を考えていると海人が口を挟んできた。
「十分礼儀正しくしてたじゃん、俺。敬語使ったしさ。それに女王って六人の王配を持つんだから色恋ごとにうるさくちゃ務まらないんじゃねえの?」
「どういう意味ですか、水連」
聞き捨てならぬことを聞いたような気がした氷室の声が鋭くなる。
その声に一瞬、ビクッと身体を震わせた水連だったがすぐに開き直った態度を取った。
「ひとりの女を他の男と分け合うなんてそこに真実の愛情なんてないってことだよ。だってそうだろ。自分の好きな女が他の男とイチャついてる姿見てられる?」
氷室の脳裏に美雨と光主が二人でイチャつく様子が浮かぶ。
(確かにそれは不愉快ですね……)
反射的にそう思った自分の心に氷室はハッとした。
(私は何を考えているのですか。別に美雨様とあの男が仲良くしていたところで私には関係ないじゃありませんか)
動揺する自分を氷室は落ち着かせるために小さく深呼吸をする。
だがそんな氷室の様子に気付かない水連の言葉は続く。
「普通はそんなの我慢できないじゃん。女王と王配の間に愛情なんてないんだよ。だから俺が思うに表に出てないだけで王配たちには愛人がいるんじゃないかな」
この国の王配たちに愛人がいる話は聞いたことがない。
しかし絶対に愛人がいないとも言い切れない。
女王も王配も王宮から外に出ることは稀なことであり氷室だって王宮の中での生活がどんなものなのか知る術はないのだ。
秘密裏に女王も王配も愛人がいたとしてもその噂が水族の都まで届くとは思えない。
もしかしたら族長の海羽に聞けば真実が分かるかもしれないがわざわざ水連の戯言のために海羽に尋ねるのもどうかしている。
それに今の女王や王配たちに愛人がいたとしてもそれが美雨と関係あるわけではない。
もし美雨が女王になるのなら彼女は自分の王配たちだけを愛するのではないだろうか。
あんな瞳を持った彼女が自分の王配たちに不実な行為をするわけがない。
そんな確信のようなものが氷室の心に湧き上がる。
氷室は水連に美雨が汚された気分になり無意識に水連を睨みつけた。
「それで自分の父親たちに愛人がいるのを見て育った美雨様だから王配候補者に他の女性がいても許容していただけると思っているのですか?」
自分で思ったよりも冷たい声が出たことに氷室も内心驚く。
どうやら自分は水連に対して相当怒りを感じているようだ。
「そ、そうだけどさ、そんな怖い声で怒らないでよ、氷室兄貴。これはあくまで俺の個人の考えだからさ。あ、そうだ。さっそく美雨様と行くお店を選ばないと。それじゃ、お先に」
氷室の声と冷たい視線に怯えた水連はそそくさと部屋を出て行った。
すると海人がポンと氷室の肩を軽く叩く。
「まあまあ、そんなに怒るなよ、氷室。水連が悪いのは確かだがさすがに弟に対してその殺意を感じる視線はないと思うぞ」
「……殺意なんて抱いていませんよ。ただ少し……不愉快だっただけです」
海人に注意された氷室は小さく息を吐き出す。
なぜこんなにも不愉快な気分になるのかは氷室自身にも理解できない。
(とりあえず美雨様に近付く次の手を考えますか……)
理解できない自分の感情のことは後回しにすることに氷室は決めた。




