第101話 水の族長の屋敷のペットのケガ
「美雨、お帰り」
「光主!」
部屋に入って来た光主を見て美雨は少し安堵した。
氷室から焼き菓子を食べさせて欲しいと言われとても恥ずかしかったが美雨はそれに応えた。
氷室の「男の涙を見た責任を取れ」という言葉には納得できなかったものの美雨の中に氷室に対する好意があるのは事実だからだ。
好きな男性からのお願いに弱い自分のことは光主と両想いになってから美雨が自覚したことのひとつ。
隙あらば美雨を甘やかそうとしてくる光主に屹然とした態度でいなければといつも美雨は思っている。
けれどやはり好意を持った相手に自分は甘い。甘い声でおねだりされると断らなければという思いよりも断ったら相手が傷つくのではと思ってしまうのだ。
特に氷室の心の傷のことを聞いてからは氷室に寄り添いたい気持ちが強くなった。
氷室がこれ以上傷つく姿を見たくない。その一心で氷室からのお願いを聞いて羞恥心に苛まれながらも自分は焼き菓子を氷室に食べさせたのだ。
それなのに今度は「美雨の味がしておいしい」などというとんでもない爆弾を氷室が投下してきた。
この氷の麗人にそんなことを言われたら美雨の心臓がもたない。氷室から投下された爆弾は美雨の心臓を爆発させるに十分な威力だ。
自分がここで心臓が爆発して死んだら間違いなくその原因は氷室だ。
これ以上二人で一緒にいたら自分はおかしくなるのではと考えていたところに現れてくれた光主が美雨には救世主に見えた。
いや、光主と二人きりでも美雨の胸は痛くなるほど鼓動が速くなるのだからこの場合は氷室とも光主とも二人きりになるのを避けられれば一番いいはずだ。三人で一緒にいれば問題ないに違いない。
「氷室とお茶を飲んでいたのか。それなら俺もお茶を飲もう。野乃、お茶を淹れてくれ」
「かしこまりました」
野乃に命令した光主は美雨の隣りにドカッと座る。
美雨が座っているソファは大きなソファだが既に美雨と氷室が座っていて光主は氷室と美雨を挟んだ形で反対側を陣取ったのだ。
さすがに大人が三人も一緒に座るには窮屈なので美雨は遠慮がちに光主に声をかける。
「あ、あの、光主。向かいのソファに座った方がいいのではないですか? そこだと窮屈では?」
「俺は美雨のそばがいいんだ。美雨は俺のそばにいたくないのか?」
「い、いえ! そんなことはありません! で、でも……」
「単にその男が常識知らずということでしょう。美雨に窮屈な思いをさせて困らせるなど王配として配慮に欠けています」
「……っ! ひ、氷室……」
美雨と光主の会話に氷室が加わり光主の態度を貶す。
先程まで自分に焼き菓子を食べさせて欲しいと甘い声で囁いていた人物と同一人物とは思えないくらいにその声は低く冷たい。
(え? え? 氷室様ってこんな低くて冷たい声を出すの? もしかして氷室様は光主様のことが気に入らないのかしら。出かける時も喧嘩しそうな雰囲気があったし……)
二人に同じように好意を持つ美雨は二人が争いを始めるのではと焦り出す。
そんな美雨の心を知ってか知らずか光主は美雨越しに氷室に視線を向けた。
光主の眼差しも鋭いものに変化している。
「ほお、美雨のことをもう敬称なしで呼んでいるのか。外出前に比べてずいぶんと美雨と仲が良くなったな」
「おかげさまで。美雨とは二人だけの秘密を持つ仲になりましたので敬称は不要な仲になったのです」
意味あり気な笑みを浮かべる氷室に光主の眉がピクリと動く。
「その秘密とは何だ?」
「美雨と二人だけの秘密をなぜ貴方に話さなければならないのですか? 美雨は私との秘密を絶対に他の者に話さないと約束してくださいました。だから生涯あのことは美雨との二人だけの秘密です。そうですよね? 美雨」
「……っ!」
会話の矛先を向けられた美雨の脳裏に浮かんだのは「氷室が泣いたことは誰にも言いません」と言った己の言葉だ。
(氷室様の言ってる秘密ってきっとそのことよね……? 確かに誰にも話さないって言ったけど……こ、このままだと、光主様が変に誤解するんじゃ……)
「美雨。まさか氷室に手を出されたんじゃないだろうな。もしそうなら俺に正直に言ってくれ。美雨を女王にするために俺がこの場でその元凶を処分して証拠を隠滅してやるから」
美雨を真剣な表情で見つめる光主の黄金の瞳には剣呑な光が宿っていた。
本気で美雨の純潔が氷室に汚されていたらこの場に血の雨を降らせると言っているのだ。原因を作った氷室を亡き者にすれば美雨が純潔を失った証拠はなくなるということだろう。
美雨が懸念したとおり光主は完全に誤解している。
(ちょ、ちょっと、待って! 光主様、誤解です! 氷室様もなんで光主様が誤解するような言い方するんですかぁーっ!)
心の中で絶叫する美雨だがここで自分が取り乱したら光主はますます美雨が氷室に汚されたと疑いを強めるだろう。
だからといって氷室との約束を破るわけにもいかない。美雨を見つめる空色の瞳からは自分のことを美雨が裏切るはずがないという圧を感じる。
「こ、光主。誤解しないでください。氷室には何もされていませんから。氷室とは水の王配選びのことで話し合っただけです。その話の中でお互いに敬称をつけずに呼び合うことにしただけですから。氷室との秘密のことも水の王配選びに関することなので内容は氷室の言う通り光主にも言えないのです。申し訳ありません」
(お願い! 光主様! これで納得してください!)
神に祈る気持ちで美雨が光主の瞳を見つめるとその瞳が僅かに揺れる。
光主の黄金の瞳が揺れるのは美雨への愛情が溢れる時だと美雨は知っていた。
「……分かった。美雨を信じる」
僅かな無言のあとに光主がそう言ってくれたので美雨はホッと胸を撫で下ろした。
しかし今度は光主が氷室に向けて言い放つ。
「俺が水の王配選びに口を出すことはできないからな。氷室と美雨の二人の秘密についてはこれ以上詮索しない。話は変わるがさっき屋敷を歩いていて思ったんだがこの水の族長の屋敷のペットはちゃんと躾をしておいた方がいいぞ、氷室」
「……ペットですか? いったい何の話です……?」
「なに、さっきツンとした毛並みの躾のなってないこの屋敷で飼われているペットに出会って俺に牙を剥いてきたから躾けてやっただけの話だ。少し手荒に躾けてしまったからもしかしたら傷のひとつでもついてしまったかもしれん。もしそのペットがケガをしていたら悪いから一応謝っておく」
水連のことを光主はそう表し自分が排除したということを氷室に匂わす。
すると氷室の表情が厳しいものに変化する。どうやら氷室は光主が言った言葉の意味を的確に理解したようだ。
「……牙を剥いたというならば私からも謝りますが……ケガをさせるのはやり過ぎでは?」
「そうよ、光主。動物には基本的に優しくしないといけないわ」
ひとり意味の分かっていない美雨は本当にペットの動物に光主がケガをさせたと思ったらしく光主に注意してくる。
そんな美雨に光主は優しい瞳を向けた。
「大丈夫だよ、美雨。ちゃんと手加減したからケガをしていてもかすり傷程度のはずさ」
「それでも動物虐待はいけないことですよ、光主」
「悪かったよ。今後はもっと優しく追い払うことにするから許してくれ」
「約束ですよ、光主。氷室、すみません。ペットにケガをさせたかもしれないなんて私からも謝ります」
「……いえ、大丈夫です。牙を剥いたペットの方が悪いのでしょうから。ただ、もしケガをしていたら困るので私はペットの様子を見て来ますね」
「それなら私も一緒に……」
「それには及びません。私だけの方がペットも怖がりませんから。それでは今日はこのまま失礼致します、美雨」
氷室は最後に美雨の手を取りその手にチュッと唇を落とすと優雅にソファから立ち上がり部屋を出て行った。
(ペットがケガしてないといいけれど……もう、光主様は時々行動が乱暴だから私が注意してみてないといけないわね。これも女王として必要なことだわ)
王配の暴走を止めるのは女王の役目。
これからはもっと自分の王配の行動に気を配らなければならない。
そう決意する美雨の姿を光主が黄金の瞳を僅かに細め苦笑いを浮かべていたことを美雨が気付くことはなかった。




