85.失うしかなかったもの
「――提案……?」
話の流れが変わったことを悟り、フェルドが静かに眉を寄せた。単語を反芻して確かめてきた彼に、シェイドが頷いて返す。
「――兄上も、王都に来ませんか。私たちは、幼いころからずっと離れ離れで……お互いのことも、現状なんて殆ど知らない。それも、お互いの距離があるからこそです。なので、兄上も――」
王都への移住。それは、フェルドにとって予想していなかった提案だった。思考の外から襲来したその可能性に、フェルドの脳が急速に回転する。王都に移住するというのは、一つフェルドにとって願ったり叶ったりな提案であることは確かだ。魔術師として大成するために、王都という中心地に居を構えられるのは一つのアドバンテージになりうる。そして何より――、
「――シェイドの寝顔を何年も見ていないのだから!!」
「やっぱりこの話止めにしますか」
「なんでだ!?!」
普段の調子に戻ってきたフェルドに、シェイドの冷たい声が刺さる。コホン、と一つ咳払いをしてから、フェルドは背筋を伸ばした。あまりに突然の提案で、しかも望んで叶っての我得しかないような話だったせいで、驚くと同時にふざけてしまったが、流石に真剣に考えなければならない。
「その口調も……なんだか久しぶりに思いますね。大して、時間は経っていないのに」
「この口調だって、全てが嘘と言うわけじゃないからな! まあ、初めは嘘から始まったが……嘘から出た実というやつだ」
「それも含め、兄上は兄上ですから」
「なんだ、離れ離れだった数年分のデレが今急に?!!」
「全部白紙にしましょうか、やっぱり」
色々なことがあって、シェイドもフェルドも長く会えずにいた寂寥には蓋をしてきた。そのせいもあって、ふと気を抜くと過剰な反応が出てしまうのだろう。特にフェルドは。
それに対して、シェイドからは当然のように全てを覆す提案が飛んでいく。幼いころとはまた違う、お互いが殆ど対等であるかのように話せる感覚。先程までの雰囲気とは一転して、和やかな空気で進む軽口の応酬に、フェルドは安堵していた。しかし、ふとシェイドの表情が真面目に引き締められる。
「そう言えば、兄上――私は騎士団の寮に住んでいるので、兄上と同じ家に住むことは不可能ですよ。あと、寮には騎士団員以外の立ち入りが原則禁じられています」
「え――」
世界が、凍り付いた。精神的な死を迎えようとするとき、人は物質的なそれに近づく時と同じくして走馬灯を見るらしい。フェルドは消えゆく意識の中で、人生の大部分の記憶に浸る。その中に、シェイドとの記憶は大して多くは存在しないという事実に改めて愕然として――、
「よ、し……発狂は避けた。よくやった、俺……!!」
「何を言ってるんですか……ひとまず、兄上が王都に来られるというのなら騎士団寮の近くで良い家を探しましょう。いや、バーカイン家の嫡子である兄上であれば、貴族街に邸宅を構えたほうがいいですかね」
「貴族街……騎士団寮とは、近いのか?」
「王都の中で言うなら、王城を挟んで真逆ですね。貴族街はどちらかと言うと魔術師団との繋がりが強いので」
「じゃあいい。貴族街なんて面倒だろう。騎士団寮に住む――のは無理らしいから可能な限り近くに邸宅を構える! ……それに、バーカイン家次期当主として住むのならば城塞都市テレセフのほかに良い土地はない」
フェルドの断言に、シェイドは一瞬だけ呆気にとられたように固まって、しかし確かに、と納得した。幼いころをテレセフで過ごしただけのシェイドですら、この土地には愛着があり、ここを故郷だと認めている。それならば当然、より長い時間をこの場所で過ごし続けてきたフェルドの抱く感慨はそれ以上の者であろう。
バーカイン家当主、という立場を見据えたフェルドの発言に、シェイドは改めて彼に憧憬の念を抱いた。
シェイドは、フェルドの告白を聞いてなお、彼に対する憧れだとか、尊敬の念と言ったものを一切薄らげていなかった。幼少の時分から、変わらない。フェルドがシェイドの成長から逃げるようにして苦しい努力を続けたのに対して、シェイドは敬愛する兄に追いつかんとして、その能力を遺憾なく発揮してきたのだ。
フェルドは、シェイドの能力を才能だと評価した。ずっと、そう思ってきた。しかし、それも違うのだと彼とアーミルとの戦い――シェイドが暴走したその瞬間に、気づいたのだ。
「――シェイドにも、誰かに追いつきたいという情念があるんだな」
「兄上?」
「いや、あの『悪魔の娘』と戦っているシェイドが暴走しようとしたとき、俺は気づいたんだ。ずっと、シェイドには才能があって、それがお前を強くしているのだと思っていたが、それは違ったのだと。――お前は、ずっと努力してきた。誰かに追いつこうとして、誰かを越えようとして……考えれば、当然のことだ。高い能力を持つ人間が一切努力をしてこなかったなんて、そんなことはあり得ない。なのに、俺はそれを理解しなかった。理解したくなかった、のかもしれないな」
「そう、ですね。私は、ずっと努力してきました。幼少の頃から、兄上の背中を追いかけ、騎士団に入ってからはグラルド隊長の強さに憧れ続けた。どうしても、追いつきたかった。まだその隣を駆けることの出来ない自分を恥じていました。――けれど、そのせいで暴走、していたんでしょうね」
シェイドには、自分が暴走していたという明確な記憶はない。そう言った状況にあるのだと、そう自己分析できるような状態ではなかった。そのことから、当時は決して冷静ではなかったのだという事は分かる。そして、あのまま戦い続けていれば、自分は今以上に酷い傷を負っていたであろうことも。
「兄上が魔術で私を吹き飛ばさなければ、今の私は満足に話せていたか……」
「対症療法だった。荒療治だったな。もう少しシェイドを傷つけないように我を取り戻させられていれば……!!」
「あれで負った傷に関しては、完全に治ったでしょうから。いいんですよ」
「……そう、だな」
「――――」
静寂が訪れる。フェルドが気まずそうに一瞬だけ、シェイドから視線を逸らした。その異変に、シェイドが気付かないわけもなかった。覚悟していたことではある。ずっと、自分では確かめられなかったことだ。話の流れからして、ずっとどこで切り出そうかとお互いに思っていたことだろう。
いつまでも、先延ばしに出来る話ではない。どこかでしなければならない話だ。今、してしまったほうがいい。
「……やっぱり、そうなんですよね」
「――シェイド」
「何となく、分かっていました。兄上の魔術で負った傷『は』完全に治ったんですよね」
シェイドは、アーミル討伐のために何をしたか。水魔術を可能な限り被り、火焔と連爆の飛び交う地獄へと、その身を投じたのだ。アーミルはそんな彼が自らの首に剣を宛がった時、「死ぬまで時間の問題だ」と見た。その予想は、完全に油断から来たものではない。八割方、その推測は正しかった。シェイドはあの瞬間、死の際まで行った。
それだけの傷を負って、治癒魔術をかければ完全治癒で無傷、だなんて――そんなに、世界は易しく出来ていない。当然の、話だ。
「ホカリナの魔術師であるミドリス殿が、治癒魔術をかけてくださった。俺も一端の魔術師だ。その技術が極上のものであることは当然わかった。俺も、苦手ながら尽力した。した、が――そうだ。お前の体に、一切の傷が残らなかったわけではない」
心の底から悔しさを溢れさせ、フェルドは表情をこれでもかと歪める。俯いて、握り拳に力を入れる彼の姿は、痛ましい。しかし、フェルドはその心中の激情を如何にか押し込めて、シェイドへと視線をやった。今一番苦しむ資格があるのは、自分ではないと思ってのことだ。
「兄上……教えてください。私に残った傷は、どこにありますか? ――まだ、戦えますか? 騎士として、在れますか?」
「――上半身を中心に、至る所に薄い火傷跡が。そして、一番はっきりと残っているのは、左頬だ。広く火傷の跡があって、その中心を縦断するように裂傷の跡がある。……折角の、顔に傷が――っ」
「そう、ですか。――騎士として戦うための腕が、民を守るために駆ける足が、どちらも欠けなかったのは僥倖です。あれだけのことをして、それだけの傷で済んだなら」
気丈なシェイドの言葉に、かえってフェルドの心が締め付けられるような気がした。
ここで、「それは騎士としての勲章だ」などと言えれば、良かったのかもしれない。『騎士』という立場に対しての矜持を人一倍強く持つシェイドに対しては、その言葉こそが一番の慰めに、なったのかも知れない。
しかし――フェルドは、そこまで戦いに生きる人間として在れなかった。
「――っ」
内唇を強く噛んで、悔しさを紛らわす。掛けるべき言葉も、今の自分では掛けられない。それが何より、ひたすらに、悔しかった。
ただ、言葉を掛けるだけだ。恐らくの最適解は頭の中にある。それを、口から言葉として吐き出してしまえばいいだけ。しかし、それが何より難しい。それは決して本心でない以上、フェルドの口から突いて出ようものなら、その時彼は完全な嘘吐きになってしまうのだ。
「――誰もが、お前を讃えている。それだけは、決して覆らない、決して揺らがない、厳然たる事実。それを、忘れないで欲しい」
「はい、兄上。これからの誇りとして、此度のことは身に刻んでおきます」
「俺も、お前の兄として、バーカイン家の人間として、そして――『シェイド・バーカイン』として、お前の功績を讃えたい。本当に、よくやった。誇りに思うぞ、シェイド」
「――っ、ありがとうございます。その言葉が頂けただけで、今回のことには意味がありました」
失ったものが一切ないわけでは決してない。戦いと言うのは、犠牲なしに成り立たない。それを人よりは理解しているシェイドだからこそ、このように静かな熱を孕んだ終幕にも、納得することが出来た。
まだ、終わりじゃない。それでも、一つの大きな分岐点に際して、確実に正しい道を進めているのだと、シェイドは確信していた。
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