9.改められた誓い
メイフェアス伯爵家は今朝から騒々しかった。
侍従たちがせかせかと動き回り、調度品を整え、邸宅内のすべての汚れを駆逐せんとばかりに掃除に勤しんでいる。朝早くに目を覚ましたフェナリも、いつもより慌てた様子で身支度をされた。
「これは――どうしたの? 皆大忙しのようだけれど」
「お嬢様、ご当主様からお聞きになっていませんか? 本日中に第二王子殿下が訪問される、と王城から通達があったのですよ!」
「えっ……それって、どのようなご用件、なのかしら」
「はっきりとは書かれていなかったらしく、何ともお答えいたしかねますが……恐らくは婚約者であるお嬢様についてかと」
侍従長の言葉を聞いて、フェナリは内心で冷や汗をかく。
まさか、三日前の……と思い出したくもないあの記憶が蘇ってくる。王子に対して不遜な言葉をかけ、全てを忘れてくれ、何もなかったことにしてくれと懇願して逃げ帰った、あの日のことを。
やはり、自分なんかが全てを忘れろ、何もなかったことに……などと宣ったところで何も変わらなかったのかもしれない。いや、逆にそんなことを王子相手に要求したこと自体が不遜ととられたという可能性も――
(もしもの時は、逃げよう)
はっきりとそんなことを心に決めて、フェナリは覚悟を決めた。
王子が訪問してくる、しかも目的は自分である可能性が濃厚である、というのに自分が姿を隠す訳にもいくまい。前世では数多の怪物を相手に大立ち回りを見せたのだ。今更、人間一人を相手に何を恐れることがあるというのだろうか。
そうだ、自分には妖術もあるのだし、と思ってからふと気づく。相手にも魔術があるのだった。王子一人を相手にするというのならばフェナリ一人の妖術でどうにかなる。しかし、王子が護衛もなにも連れずに一人で来るとは、正直考えられなかった。
(多勢に無勢……魂魄刀ではどうしようも……)
そう考えながら、他の妖術にあてを求めるフェナリだったが、部屋の外から侍従長が朝食を運んできてくれたのが分かってふと思考を止める。
ここ数日は様々な考えをまとめ、記憶をはっきりとフェナリのものへと入れ替えるためにも体調がすぐれない、という言い訳を以て朝食を部屋でとらせてもらっていた。実際、三日前には倒れ伏したのだし、侍従たちもそのことがあるからか、何の疑いもなく部屋に朝食を運んできてくれる。
「いただきます――」
スプーンやらフォークやら、と寂華の国にはなかった食事道具を扱うのも慣れたものだ。初めからフェナリの記憶もあり、特に困ることはなく扱うことは出来ていたが、見慣れない道具であることには変わらず、少し不思議な気分だった。しかし、三日も使い続ければ否応なく慣れるというものだろう。
「――お嬢様、失礼いたします。王城から再度通達があり、子爵家訪問は本日午後とのことです。そして、フェナリお嬢様も同席するように、と王子殿下から……」
「……ぅ、分かったわ」
やはり、と言えばやはり。しかしまぁ、もしかすれば万一にでも、いや億が一にでも自分以外の用事かもしれない、と思っていたフェナリだった。それでも、現実というのは斯くも残酷であるらしい。
どうしても、の場合は妖術を使って王子殿下の護衛を押し倒してでも逃げねば。そう決意して、フェナリは食事の最後の一口を頬張った。
◇
「第二王子殿下、お待ちしておりました。緊急の御訪問故、歓迎が質素になり申し訳ない」
「メイフェアス伯爵、突然の訪問という無礼を詫びよう。そして、歓迎感謝する」
王子の来訪――それを伯爵が迎え、フェナリは伯爵の少し後ろで小さくカーテシーをしながら限りなく存在感を消していた。
(王子殿下と言えど、緊急の訪問……護衛は少なめ。これなら……)
存在感こそ消していたが、その心中では物騒な思考が巡らされていた。
護衛の数は見たところ少なめだ。王子の護衛というならば、もう少し数がいてもいいのかもしれない、と思いながらも、今回ばかりはその少数さに救われる。と言っても、少数精鋭であるのには変わりなさそうだった。
全員、強者の雰囲気を纏っている。それが、同じく強者であるフェナリには感じ取れた。
「では、王子殿下。立ち話もなんですからな。応接間へとご案内しよう」
フェナリが王子の護衛を相手にどう立ち回れば勝てるのか、と脳内で試行錯誤している間にも、話は進んでいたようで、王子が邸宅内へと入り始めていた。フェナリも焦らず、伯爵令嬢としての立ち居振る舞いを崩さないようにしながら、邸宅内へと戻っていく。と言っても、心拍は恐ろしいほどに早い鼓動を鳴らしていた。
「――それで、本日はどのようなご用件ですかな? 王子殿下」
応接間にローテーブルを挟んで伯爵とフェナリ、王子とカルデンがそれぞれ座り、王子側の背後に少数精鋭の護衛が、伯爵の背後には侍従が並んだ。
そして、口火を切ったのは伯爵である。
「二度目の書状にある通り、フェナリ嬢にも同席頂いた。詰まる所はお察しいただけるだろうかと」
「成程、当家のフェナリが何か粗相を?」
「いや、そうではない。これも無礼なこととは重々承知だが……以降の話は私とフェナリ嬢の二人のみ知る内密ゆえ、ここでは話すことが出来ないのだ」
王子は、そこで言葉を切る。しかし、「つまり、分かるな?」という発されなかった言葉を、王子の瞳は雄弁に述べていた。伯爵も、すぐに王子の意図を汲み取る。端的に言うところ、さっさと出ていけ、というのだ。そして、人払いをしろ、とも。
そのことを暗に示すかのように、王子が一つ手を叩くと、後ろに控えていた護衛が全員部屋を退室する。
王子が、何を考えているのか――。
伯爵はそれを理解することが出来なかったが、ここで王子に楯突くのは今後の貴族人生を棒に振るようなものだ、と聡く悟って、自らも侍従たちを下がらせる。
「改めて、申し訳ない。代わりと言っては何だが――」
そう言って、王子が隣に座って無言を貫いていたカルデンに視線を向ける。その視線を受けて、カルデンは静かに立ち上がり、初めて口を開いた。
「メイフェアス伯爵、こちらの無礼をお許しいただくべく、詫びの品を用意しております。そのお話のためにも、場所を変えさせていただいても?」
その誘いを装った要求に、伯爵は乗った。
カルデンをもう一つの応接間へと通すよう、侍従に指示を出し、自らも王子に退室を告げてそちらの応接間へと移動していった。
伯爵は〝そういうもの〟の香りには敏感な男なのだ。王子の述べる「詫びの品」というものに怪しさが多少あれども、必ず食いつく。王子はそのことを知っていた。
「――では、人払いも済んだところで……早速本題に入ろう」
「……はい」
二人っきりになってしまった応接間で、フェナリは断罪の時がいつなのか、ひいては逃亡するべきはいつなのかと時機を見計らっていた。
そして、王子の一挙手一投足、口周りを含めた表情筋の動きにまで気を配る。そうすれば、王子が口を開こうとしているのが分かった。同時に、王子が立ち上がる。今か? 今なのか?
「フェナリ嬢……」
息を殺しながら臨戦態勢をとるフェナリに気づくわけでもなく、王子は小さく立ち上がって口を開いた。紡がれる自分の名前。冷や汗が垂れてくる感覚を抑えて、王子の次の言葉を待つ。
「――改めて、先日は本当に申し訳なかった……!!」
そして、王子の口から述べられた謝罪の言葉に、フェナリは一瞬フリーズした。本当に、脳が動かなくなった。全く、何も考えられなくなって、その数瞬後に状況が分かってきて、王子の言葉を咀嚼し終わって――フェナリは状況が分からなくなった。
「っ、顔を上げてください!! 何で、そんなっ」
咄嗟にフェナリの口から飛び出たのはそんな言葉だった。フェナリにとっては、王子が自分に謝罪の言葉を述べ、頭を下げるような理由が全く思い浮かばない。逆に、自分が王子に対してそうする理由ならいくらでも思いつくのに。
「いや――私の力不足が先日のフェナリ嬢を危険に晒したのだ。無事でよかった、が……もしもフェナリ嬢に何かあれば、私は何も償う術を持たなかっただろう」
王子の言葉は、やはりフェナリにとっては意味の理解できない不可解な言葉だった。しかし、それでも王子の真剣さ、切実さははっきりと伝わり、それだけ自分が大事に思われている、というのが不思議な気分だった。
これまで、自分が大切にされたことなど、殆どないのが少女の人生だ。それこそ、いつでも傍にいた『雅羅』だけは自分を大切にしてくれていたが、それだけで……同じ人間から大切にされた記憶はなかった。
「いえ……私こそ、王子殿下に不遜な言葉を――」
「そんなことは些事に過ぎまい。フェナリ嬢は、私の命を救ったも同然なのだから」
王子はそう言うが、フェナリにとっては現れた怪物がいたから、当然仕留めただけのことで、それ以上の事実はなかった。今まで、当然のように怪物を斃すことを求められてきたのだから、それが普通なのだろう、とそう信じて生きてきたのだ。今更、それに感謝されることなど、あるとは思っていなかった。
「いや、申し訳ない。あの日のことは『無かったことにする』のであったな。これからは、もう一度話題にあげることは避けよう」
「はい……そうしていただけると、助かります」
「しかし……あの日を何もなかったことにする、ということは――婚約破棄の件も、という認識でよいのだろうか」
「?――っ、あ……」
一瞬王子の言葉が何を意味しているのかを理解できなかったフェナリは、その意味に気づいてはっとする。王子への不遜な態度を無かったことに出来れば、という一心で口走ったことが、まさか婚約破棄すらも無かったことにしてしまうとは、思ってもいなかった。
と言っても、ここで「婚約破棄の件はそのままで」などと言うのは不遜な話だろう。それは王子との婚約そのものを拒否していると取られたっておかしくない話なのだから。しかし同時に、ここで王子の意図が分かり切っていない今、肯定の返事を返して良いものか、と言うのは悩ましい。王子が婚約破棄を望んでいる、というのならここで肯定の返事を返すことは王子としては困るのでないか。
そんな思考が生まれてしまえば、フェナリは何も言えなくなった。押し黙っているのも無礼だ、とどうにか言葉を探そうとするが、上手く言葉が見つからない。
(こういうのは得意では……頭脳は『雅羅』に頼りっきりであったからな……)
思案顔で言葉を探すフェナリの表情を見て、王子は笑みをこぼす。
自分の言葉で困惑し、迷って悩んでいるというのに、それがあの時の少女と同じなのだと思えば、どこか可愛らしくも思えてきて、ふんわりとした笑みが漏れてしまう。
「悪かった、フェナリ嬢。答えに困る問いであったな。そもそも、こんなことを聞く方が悪い」
「ぁいえ、そんなことは……」
「だから、フェナリ嬢は思い悩むことをせずともよい」
「……何、を――?」
立ち上がっていた王子が、フェナリの横へと歩みを進める。
静かに足を運んで、フェナリの横でさっと体を低めた。さながら騎士が主従を誓うかの如き辞儀の姿勢をとる。フェナリは、王子の行動に困惑しながらも、咄嗟に受け入れ態勢をとった。
「我々の婚約は、勝手ながら『保留』という形をとらせてもらった。だから、今は私にとっての猶予期間だ」
そうして、王子は体を低めたままに言葉を続ける。
「だから、少しだけ待っていて欲しい。私がフェナリ嬢に、改めて婚約を申し込む、その時まで――」
下げていた頭を、上げて。黄金色の髪が、小麦の穂を揺らすように靡いた。
王子は確かな決意を告げ、改めて誓いを立てる。
「アロン・ギルスト・インフェルト――第二王子たる我が名に誓って、貴女に婚約を受け入れさせて見せる」
そう言って、王子は確かに誓いを立てた。
全ては、矜持がため――ではなく、初めて心を奪われたフェナリの――彼女の心を、奪い返すため。
第二王子アロンの、一歩だった。
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