79.『フェルド・バーカイン』
――シェイドを弟に持つと言うことは。
それは、鬱蒼と茂る森林の中にあって、何処から来るかも分からない獣に――それも飢えた野生の獣に、追われ続けているという事と同義だ。フェルド・バーカインはそう思う。
一瞬でも立ち止まり、その獣が追い付いてきてはいないという束の間の安心を得ようとすれば、その瞬間に安堵は打ち砕かれ、その爪牙が骨にまで突き立てられる。獣の飢餓は純粋なまでに獲物の臓物を全て抉り出し、喰らい尽くし、逆に自らの血肉に変えるに違いない。
ただ、只管に逃げる。それ以外に獣を避ける手段はない。
なにも見ずに、自分が何から逃げているのか、何を目指しているのか、何もかもを知らずに、知ろうともせずに。ただ走るしか、フェルド・バーカインには許されていなかった。
◇◆◇◆◇
――弟の誕生というのは。
はじめ、フェルドにとってのその出来事は酷く衝撃的だった。まだ子供、としか言えないような年齢に過ぎなかった彼にとって、早くも自分と近しい存在が生まれる――それも、両親や使用人とは異なって相対的に年の近い子供が、というのは驚き、同時に浮足立つ感覚を齎すものだった。
剣術や魔術、そして一般教養から帝王学。様々な学問を学ばされる中、その合間合間を縫って、フェルドは母の部屋を訪れ、その腹に耳を押し付けて毎日を過ごした。それだけ、彼にとって弟が生まれるというのは楽しみなことだった。
日月が進み、フェルドに課せられる授業は帝王学が増えた。剣術の授業は少しになり、代わりに魔術の授業は増えた。先生によれば、フェルドは剣術よりも魔術の才に長けているらしい。父も喜び、将来は宮廷魔術師だ、と持て囃してくれた。
更に日月が進んだ。母は部屋から簡単には出られなくなり、いつでも動ける医師が最低でも一人、邸宅に常在するようになった。屋敷全体がピリピリと緊張感を孕んでいることを、まだ成人には遠いフェルドも悟った。
「お母様、あと何日? 何日?」
「そうねぇ。あと……一か月もあれば、かしら」
「一か月? 三十日? 三十一日?」
「うぅん……三十日、かしら? お医者様がそう言っていたから、たぶん、ね」
「三十日かぁ……あと何回寝たら?」
「えぇっ、と……いっぱい寝たら、ね」
あと一回、二回、三回……と数えて、途中で止めた母が首を傾げながら開き直って微笑む。曖昧な母の返事だったが、しかしフェルドは無邪気に「いっぱいかぁ!」と笑った。そして、静かにそして優し気に、母の大きくなったお腹に自分の耳を押し当てる。目を瞑って、中にいる弟を感じて――、
そして、更に日月が進んだ。
「ほら――フェルド。弟よ」
掲げるように自分に向けられた弟。今先程、シェイドと名付けられたその赤子を見て。フェルドは静かに手を伸ばした。木刀でできた擦り傷やインクの染みがついている手のひらも、今日だけは丁寧に洗われ、生まれたばかりのシェイドと同じく色白で柔らかい。
伸ばした手の、小指をシェイドが掴む。その予想以上の強さに引っ張られるような錯覚を覚えながら、フェルドは二つのことを感じ取っていた。
――これが、弟なのだと。自分の血縁であり、恐らく自分が最も愛す家族なのだと。
――そして、彼は後追いでありながら、自分よりも前を征くであろうと。
少なくない彼の才が、シェイドの才能を見抜いた。そしてそれ以上に、兄弟という浅くない繋がりが彼に覚らせたのかもしれない。言語化できるような、そんな単純な感覚ではない。何となくのそれは勘のようなものでしかない。だというのに、フェルドには強く訴えかけてくるような気さえした。
――恐れ、だ。畏れかもしれないし、惧れなのかもしれない。
そんな感情が、自分を覆い隠して襲っていることに、フェルドは不可解を覚えるばかりだった。ずっと楽しみにしていた、弟の誕生。確かに、目の前の無垢で邪気の一切ない、その子は愛しい。それは明確な感情として自分の中にあるのに、相反する情動が同時に相容れないはずの場所で相在している。
自分には心が二つあるのかもしれない。そんなことを、真面目に考えてしまう。
「――――」
「――ぅぁっ」
「――っ」
そんな、フェルドの中で渦巻く二色の対極的な感情。その一切をかなぐり捨ててしまえばいいのだと、彼に教えたのはシェイドのはにかみだった。何を考えてか、いや赤子が何かを考えたわけでもあるまい。本当に、何の考えがあったわけでも、打算があったわけでも、邪気も何もなく、ただ微笑んで、はにかんで――、その笑みに、フェルドは覚悟を決めさせられた。
自分が、兄なのだと。その自覚を、持つ覚悟を。そして、弟であるシェイドを愛す覚悟を。
◇
それからのシェイドの成長は、常にフェルドの思考の端にあった。初めこそ、シェイドの出来ることが一つ二つと増えていくにつれ、彼の焦燥は強まっていた。いつか、シェイドは自分の能力を上回るのではないか、その時、自分は両親からも見放されるのではなかろうか。
そう考える黒い人格があったことを、フェルドは決して否定できない。しかし、それを周囲の人間が責めることもまた、決してできないだろうが。
「シェイド! もう帝王学の一章が終わったのか!!」
「シェイド! 次の講義は難しかった記憶がある。心してかかれよ!!」
「シェイド! 庭の端から端までかけっこを……いや、すまない! 兄はこちらで用事があった!!」
大きな声を出して、自分が兄だと誇示するような口調になったのはいつからだったか。一人っ子であったころはもっと純朴な少年然とした声音と話し方だった記憶があるが、もうその頃の話口調を思い出せない。初めこそ、シェイドだけに向けていたその口調だが、何時しかそれが自分の口調として定着し、凝り固まったそれは仮面とすら呼べない。最早、地肌だ。
もっと、声を大きく。自分を大きく見せて、兄は自分だ、兄とは偉大だ、兄であることが、先に生まれたという事実こそが、自分に最後まで残る威厳だ、と証明しろ。誇示しろ、顕示しろ。もっと、口調は威厳のある様に、もっとシェイドを慈しんで愛おしく思って、もっと愛して、もっと大事にして、愛でて。恐れなどその一端すらも見せるな。
――もっと、シェイドの前で、『兄』を演じろ。
心の中に渦巻く感情は、どんどんと黒くなる。同時に、白い光もまた強まり、眩くて目を開けていられないほどになる。相反する二つが同時に高まっていく。日月が進んで、日月が進んで、フェルドは目の前にいるシェイドが何者なのか、分からなくなる。
自分は誰で、何者で、何を演じていて、何のために、それは何を目的として?
「――分から、ない」
ただ、分からない。不明だ。未知だ。理解できないし、知ることは出来ない。
その知らないという状況が、知りたいという欲望が、しかし教えてはくれない世界が、フェルドの生きる世界を構成している。それが何よりもまた、不安で仕方がない。自分の生きる意味すらも、分からなくなってしまいそうで、怖い。
毎日毎日、シェイドと顔を合わせて、段々と成長し、その能力の片鱗を見せ始める彼と相対して。その順風満帆な人生が、その航路が、自らのものと重なり、そして自分の乗った小さな船を轢き潰していく――そんな未来を幻視する。そんな毎日が、恐ろしい。
シェイドが、追い縋ってくる。兄である自分を憧れの対象として見ていることは、毎日のように顔を合わせていれば依然と知れてくる。自分に追いつこうとして、シェイドは毎日の勉学と修練に勤しんでいる。それは、今でこそ「追いつく」ための努力だ。しかしいずれそれは、フェルドを「追い越す」にまで至るだろう。
それを怖がり、不安に思うがゆえに、フェルドもまた努力を重ねた。シェイドの能力が自らのそれを超越するその日が、いつか来ると分かっていても。それでも、その日を限りなく遠くできるようにと、只管に努力を重ねる。血反吐を吐こうとも、足りない。筆頭魔術師だとか、宮廷魔術師だとか、そんなものでは足りない。シェイドに追いつかれないためには、まだまだ足りない。
――シェイドは、飢餓に苦しみ続ける獣だ。
自らの強さを、能力の高さを追い求め、貪るように鍛錬をこなし続ける。強者の、そして覇者の見る世界を追い求め、その圧倒的なまでの強さに、飢えている。
追われているのだ。毎日毎日、追われ続けているのだ。逃げるためには努力し続け、つまりは走り続けなければならない。疲れたからと言って、立ち止まることなど許されない。立ち止まったその瞬間、後ろを振り返る暇もなしにその首は胴とお別れだ。
――逃げろ、逃げろ、逃げろ。世界の端まで。シェイドが、追って来ないところまで。
……そんな場所が、本当にあるのか?
◇
「――シェイドが、騎士に……か?」
「はい、兄様。本当は兄様と同じ魔術師がよかったのですけど……僕には魔術の才能がないらしくて」
「そう、だったのか……いや、騎士だって素晴らしい道だ! 逆に兄は剣術はめっぽう苦手だった!!」
フェルドが解放されたのは、シェイドからある報告を受けた時だった。
フェルドも、思い出せば似たようなことを父から言われていた。バーカイン家における一つの慣例なのだ。魔術か剣術、そのどちらに才を重く持つか。それによって今後の鍛錬の比重を変える、というのは。
早くもこのとき、シェイドのゆく道、将来進む航路は定まった。騎士だ。騎士なのだ。それはつまり、魔術師ではないということだ。
――シェイドとフェルドの、航路は重ならない。
フェルドは、魔術師としての道を進む。そして、シェイドは騎士としての道を進む。その道は、決して交わらないとは言えずとも、真っ向から重なり合い、お互いを潰し合うようなことにはなるまい。
詰まる所、シェイドの報告は――、フェルドを追い回していた獣が、別の獲物を見つけたという事実に他ならなかった。
逃げ続けなければならない、と。その使命感のような義務感のような、はたまた焦燥感であったかのような差し迫る危機的感情の渦はようやっと、フェルドを解放した。
彼はこのときに初めて、純粋な愛情を以てシェイドを見ることができたのだと思う。兄だ弟だと、狩るもの狩られるものだと、そんな肩書の一切を捨てて家族になれたのはこの瞬間だと、のちのフェルドは思い返す。
――だからこそ、だろうか。
フェルドは当時、シェイドに対する恐れのような感情の複合体を一気に捨てきったのだとばかり、思っていた。そのはずだと、半ば自らを納得させ続けていたのかもしれない。
それが仮初の安息でしかなかったのだと、本物の安息の訪れが教えてくれた。否、不躾にも、無粋にも、そして無慈悲にも、勝手にそんなことを宣っていったのだ。
シェイドは騎士の道を征く。それは、本人の口からも聞かされた既定路線だった。それはフェルドもまた、理解していた。しかし、それが本当の意味で確定したのは、この日だったのかもしれない。
――シェイドが、テレセフを発つ日。王都へと移住し、騎士としての道を更に進み出す日だ。
晴れ晴れしい、祝いと門出の日。特にフェルドは、その決定が話し合われていた頃からシェイドとの別れを惜しみ、大声で喚き散らしていたほどだ。
そんな、華々しくめでたい日において、しかしフェルドはその身を絶望の冷たい炎で焼き尽くされていた。
この日、フェルドを襲った絶望は正しく、彼の生涯で最も大きなものであったに違いない。
その絶望は、愛する弟が遠くに行ってしまうが故か? ――否だ。
であればその絶望は、シェイドが騎士となり、いわば危険と隣り合わせとなる世界に足を踏み出すが故か? ――これも、否だ。
どちらの理由も、大声で喚き散らして時間稼ぎをしようとする理由にはなっても、彼を襲った絶望の理由にはならない。
この日彼を襲った絶望は、もっと根源的で、忘れがたく、幼少の黒い思い出を想起させるようなもの。
――シェイドがいざ出立する、となったとき。フェルドは、安堵したのだ。
これで、自分の近くにシェイドがいなくなる。その成長を間近で見せつけられることもなくなり、両親の目に映る成長は、直接的なものに限れば自分のものだけだ。
シェイドがいなくなれば、自分は本当の意味で逃走の日々から解放される。もう、焦燥に身を苛まれることも、恐れと愛情に挟まれることも、心中渦巻く白黒の感情を意識し続けることも、なくなる。
――シェイドが、いなくなるから。
◇◆◇◆◇
既に、解放されたと思っていた。自分の中に蠢く黒い感情とは別離を果たし、シェイドを純粋な愛情だけを介して接せていると、思っていた。
シェイドとの別れが近づくにつれて、嘆いた自分は何だったのか。その永遠かもしれない別れを、これでもかと妨害しようとしていたフェルド・バーカインの存在は、何だったのか。
――シェイドの兄である、フェルド・バーカインというのは、こんなにも醜い存在だったのか。
幼少の時分には、その幼い心と精神的脆弱性が自分を正当化してくれた。両親の寵愛を奪われるかもしれないという懸念が、自分を錯乱させていたのだと。
それが、お互いの将来の道を違えるという契機において、なくなったものだと思っていたのだ。
心の底で、しかし残っていた黒い感情は、隠されていただけだった。覆われて、表面上では見えなくなっていた、ただそれだけだった。
まだ、残っていたのだ。醜く悍ましい考え、その自分でないかのような人格は、まだ自分の中に居座り続けていた。
――フェルド・バーカインは『兄』でありながら、兄ではないのかもしれなかった。
◇
『折角シェイドとも再会したのだから!! 兄弟で共闘するというのも一興だろう!!!』
――思い掛けない再会の機を得て。
始めに顔を出したのが『兄』としての考えで良かったと、フェルドは心底安心している。当時はそんな事も考えていなかったが、今思い返せばこそだ。
自分の中の黒い情動をこれでもかと隠してきた過去が、こんな形で――また、シェイドに本心を隠す形で、役立つなど皮肉のよく効いた話だ。
こうしてまた、フェルドはシェイドに自らの考えを話すという機会を先送りにした。
それから、フェルドは治療を受けるために本陣へと戻され、シェイドとはまた別れた。その後だって、シェイドと相対するタイミングは与えられなかった。
報告をするような内容を持ち、戦場から舞い戻った期待の星であるシェイドと、石礫の中にあって唯生きていただけの男であるフェルドでは、会議での重要性も雲泥の差だ。
――シェイドと、話さなければならない。
――しかし、何を? どうやって。
――何にせよ、話さなければならない。
――だけれど、いつ? 何だって……
――何がなんだろうと何であろうと! シェイドと話さなければならない。贖罪にもならない、自分語りをしなければならない。
そんな状況でのことだった。突然、悪魔襲来の報が叫ばれた。フェルドは、その叫び声の主がシェイドであることに一瞬で気がついた。
周りの騎士たちが騒然とし、シェイドの叫びに従って防御のための行動を取る。フェルドも魔術に才を得た者として、可能な限りの大きさの防御魔術を構築。そして――それを術式としてその場に固定し、天幕を走り出た。
「っ?! フェルド殿、今外に出ては――」
「フェルド様! 戻って下さい!!」
騎士と衛兵、それぞれが引き止めるためにフェルドの背中に向かって叫ぶ。それを振り切って、フェルドは駆けた。騎士や衛兵が、本気でフェルドを止めようとしたら、足力の差によってその目的はすぐに果たされるだろう。
しかし、そうはならなかった。今、迂闊に動くのは危険だと全員がわかっているからだ。だからこそ、フェルドはこの機に乗じて外に出た。
「――シェイドは……っ」
走れば、一瞬で息が切れる。常日頃から魔術にばかり頼り切っている弊害だ。昔から、魔術を介した戦闘力には秀でていたが、こと身体の扱い、という点でフェルドはあまり良い成績を出せなかった。剣術も苦手だったし、走るのも得意ではない。長く動き続けるなど、考えただけでしんどくなる。
そのせいで、シェイドと並んでかけっこ、などということも、一度だってしたことがなかった。
「――シェイド……っ」
足がもつれて転けそうだ。せっかく治癒術師になおしてもらった傷が開いてしまうかもしれない。それでも、今のフェルドに立ち止まるなんて選択肢はなかった。
久しく、感じていなかった焦燥だ。何かに追われるように走り続ける、この疲労感と使命感。ずっと、シェイドという獣から逃れるためにやっていたことを、今は彼に追い縋るためにやっている。
「シェイド、シェイド、シェイド……っ!」
走っている途中で、いろんな気配が体の芯を揺らしていった。中には魔力の反応もあった。既に戦闘が始まっているのだと分かる。その事実が、さらにフェルドの足を急かす。
天幕の立ち並ぶところを抜けて、平原に出た。
「――シェイド……」
――そこで見たのは、『獣』に間違いなかった。
◇◆◇◆◇
紫に膨張するナニカと、シェイドの騎士剣が重なり合い、お互いに蹂躙せんとその火花を散らしている。その様子は最早、戦絵巻の一場面かのようで、フェルドは一瞬、光景に見惚れて立ち竦んだ。
戦うシェイドの身体には傷は見当たらない。それでも、双眸には溢れるほどの血がこびりつき、既にその視界は普通のものとは異なっているだろうことが容易に想像できた。
意識的か、または無意識にか、シェイドの口からは哄笑が漏れ、その口角は狂気的な高揚で歪んでいる。
一目見れば分かる。シェイドは、限界に近い。
「……ッ」
現状、シェイドと悪魔の戦いは拮抗している。しかし、シェイドが今のまま限界を超え、戦い続ければ、趨勢はシェイドに傾くだろう。但し、その代償はシェイドそのものだろうが。
フェルドは立ち尽くす。
この場で、自分ができることは何かと考えを巡らせ、しかし堂々巡りの思考はまとまらない。何度も何度も、眼の前の状況が思考を阻害し、その視線を固定しようとしてくる。
ずっと、自分にはその姿を見る暇もない、と自分を説得し、目を逸らし続けた存在がそこにはいる。自分を追っていた獣、そして、今ではまた別の獲物を見つけたらしいその獣は、ひたすらに飢えていた。
飢えて、飢えて、飢餓に揺蕩い、餓死の瀬戸際で這い回っている。
力に、強さに。――覇者が見る世界の、その先に恋い焦がれている。
飢えのために自らの血肉を削ぎ落とし、食らってまで、頂に登らんとする気概だけは決して失わない。その姿は、フェルドには眩しかった。同時に、その必死さは――、
――シェイドも、黒いのか。
すとんと、フェルドの中で一つの納得があった。シェイドの姿は、見たことがある。
見たことがあって、経験があるからこそ、フェルドはその情動に駆られるまま戦うシェイドを、止めるのに躊躇った。
「――立ち止まる理由は、どこにも無いじゃろうが」
「――っ」
思考は、シェイドを止めないという方向に舵を切っていた。それを理性も許容していた。その一切合切を、ふと横を通り過ぎた声が取っ払っていく。吹き飛ばして覆して、何もなかった更地へと変えて。
瞬間、フェルドは今の自分の思考がとてつもなく恐ろしくなった。思考はシェイドを見捨てる判断を下し、理性までもがそれを止めるどころか黙認した。それによって至る結末に、シェイドがいないかもしれないのに、だ。
横を通り過ぎた声の、その主に視線を向ける。
なんてことはない、何の特徴もなく、平凡な人物で、フェルドの記憶には無かった。その人物を確定づける明確な要素を強いてあげるなら、その首に付けられたチョーカー程度のもの。それ以外には騎士の隊服を着ているから騎士であろう、というくらいの推測しかできない。否、それ以外の推測が許されていないかのようだった。
――しかし、フェルドはその背中を理由に、前を向く。
なんてことはないのだ。その背中は、圧倒的な気迫を見せているわけでも、絶大な力を覇気として周囲に振りまいているわけでもない。何も感じない。その背中からは、何も感じない。ただ、その背中の凛々しさ以外は、何も――。
しかし、フェルドにとってはそれで十分だった。小さな、ごくごく小さな一つのきっかけさえあればよかったのだ。これが契機だと、そう思えるものがあれば。
「――風吹け」
チョーカーの騎士が、シェイドの戦場に乱入していく。それと入れ替わる様に、フェルドの魔術がシェイドに迫った。可能な限り、必要最低限の威力以外を削ぎ落し、シェイドには負傷を残さないように。気遣いながらの最大出力。フェルドの掌から生まれた風が、シェイドを軽々しく吹き飛ばす。
シェイドは、これまでだってずっと、人間だった。そのことを、フェルドはこの時やっとのことで知る。
「立て――!! シェイド!!!」
お前がいなくなれば、兄が悲しむから。
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