3.縁遠い御仁
「――では、結界を解こう」
そう言って烏が翼を羽搏かせれば、フェナリを包んでいた世界が割れる音がした。
空間が破砕する。同時に、周りの光景が鮮明に表れた。
「今日の夜だ。侍従が部屋から出たら、もう一度全ての話をしよう。それまで、フェナリとしての所作を身につけておくと良い。寂華とは作法から礼法まで、全てが異なるようだからな」
「分かった。忘れるでないぞ」
少女と烏が会話できたのも、そこまでだ。
先程もフェナリを起こすために部屋に入っていた侍従長の女性が部屋に入ってきたからである。
「お嬢様、お気づきになられましたか」
「――ええ、大丈夫。心配をかけてごめんなさい。さっきは少し大きく動きすぎて、眩暈がしただけだから」
そう言って侍従長に事の次第を適当に繕いながら、フェナリは自らの口から出てきた言葉に心中驚いていた。烏からは確かに適応する力が高い、とは評されたが、何の困惑もなしにギルストでの立ち振る舞い、言葉が出てくるとは、全く思っていなかった。
自分は既に花樹ではなく、フェナリなのだと思えば、少し寂しいような気分になる。しかし、つい先ほどに自らに誓ったことだ。涙は流すまいと表情筋に力を入れる。
なぜ、ふとそんな誓いを口走ったかの。
フェナリとしても、全く意識していないことだった。それは、涙を流さない、という誓いを口走ったことだけではなく、そもそも涙が少しでも流れたこと自体、フェナリの意識するところではなかった。
全く知らない感情、寂しいような悔しいような、筆舌に尽くしがたい感情を前にして、瞳が濡れただけだ。そして、その流れで不可解な誓いを立ててしまっただけ。
それでも、フェナリは、そして花樹は自らの名のもとに誓ったことを反故にするつもりは毛頭なかった。
自らにとっての『望み』が何たるか。その不可解な謎を解き明かすまでは、絶対に泣けないのだ。
「――お嬢様、お体には不調がなさそうですが、念のためお食事はここにお運びしますね。それから、本日の予定ですが……体調が芳しくないということであれば、せめて延期ということでご当主様から話を通していただくことは出来るかと」
侍従長にそう言われ、ふと今日の用事というのは何だったか想起する。
フェナリの記憶としては新しく重要なものだったのか、すぐにも思い出すことが出来た。そして、フェナリの、というよりは花樹の顔が引き攣る。
――王子殿下とのお茶会
なんでそんなものが自分の予定に入っているのかと懐疑的に思った瞬間に、自分がその王子の婚約者であった、というとどめを刺すかのような記憶を取り戻した。
目の前に侍従長がいる。変に怪しまれてはいけない。そんな懸念が無ければ、フェナリはこの場で一瞬にして膝から崩れ落ちていたに違いない。それほど、王子というのは前世の彼女にとって縁遠いものだった。
確かに、寂華の国にも王子という存在はいたが、底辺であり末端である花樹との関係があったわけもない。
人里からも隔離され、周りとの関りは全て烏を介したもの。そんな状況にあった彼女と王子が関りを持っていたなどというのも、それこそおかしな話なのだ。
「いえ、大丈夫……王子殿下とのお茶会のお約束を反故にするわけにもいかないもの」
(出来るなら断ってしまいたいがな!?)
そう、フェナリは心中で叫ぶ。しかし、そんなことが可能であるわけもない、ということを彼女は本能的に理解していた。花樹であったころは王子という存在をはっきりと認識したこともなかったが、改めてフェナリの記憶も併せて考えてみれば、王子というのは絶対的ともいえるような存在なのだと分かった。
フェナリの記憶によれば、自分だって伯爵令嬢というある程度は高位な存在であるらしいのだが、それでも王子と比べてしまえば劣る。侍従長の言う当主というのも伯爵なわけで、王族と比べれば弱い立場だ。その自分が、王子との約束を反故に出来るわけもない。
半分諦めるようにしながら、フェナリは侍従長に予定の変更は必要ない、と伝えた。
心の中では全く納得できていないが!!
◇
「――本当に、何が起こってしまったのかしら」
侍従長が朝食を運んでくる、と言って部屋を出ていったのを確認して、フェナリはふと呟いた。
侍従長が部屋に入ってくるタイミングで、既に烏はどこかへ消えている。今、どこに行ってしまったのかについて、フェナリは何も知らなかった。
そもそも、転生というのも意味が分からないし、この場所についてだってなにも分からないし、本当に意味の分からないことばかりだ。鵜呑みにしてしまえば楽。だけれど、そうやって鵜呑みにし続けてきた末路が、前世のような無慈悲な死に様だったのだ。今世がいつまで続くのか分からないが、せめて前世よりはましな死に様を用意して欲しい。
そのためにも、全てが全て鵜呑みではいけないのではないかと、フェナリは思った。
『望み』というものを見つけるのだって、そうだ。
すべてを鵜呑みにしていた前世で見つからないものを、同じように全てを鵜呑みにして生きた今世で手に入れられるとは到底思えない。
「お嬢様、お食事を持ってまいりました」
烏の言葉は、少女にとっての指針であり、希望そのものだ。
だからこそ、一旦は烏の言う通り、『望み』というものを……モグモグ……見つけなければならないのであって、そのためにもモグモグ……食わねば戦えぬというし……モグモグ
今更になって、少女は自分が腹を減らしていたのだと気づいた。
侍従長が部屋の隅に控えながら自分の食べっぷりに少しばかり驚いているのが分かる。しかし、食事を口に運ぶ手が緩むことはなかった。そう言えば、と思い出してみれば、花樹としての任務を行っていた間、自分は食事を与えられていなかったのだから何も食べていなかったのだ。そして、洞窟の中で死に絶えた。それから今まで、実に一日に近い時間だけ何も食べていなかった。
妖術にも気力を要するし、任務には体力を使う。それだけ腹も減るというもので。こうして恐ろしいほど食事が進むのも、至って普通のことに違いない。
「お嬢様……もう少し、食事を持ってまいりましょうか……?」
「――ええ、お願い」
最終的にはしっかりとおかわりまで平らげ、フェナリは体力を整えた。
なんたって、今日は今から王子殿下とお茶会だというではないか。そんな気力を使い果たしてしまいそうな予定があっては体力を整えざるを得ないというものだ。
しかしまぁ、何とも前世と比べれば縁遠いほどの豪奢な生活だ。
フェナリは先程の食事を思い出しながら思う。食事だけに留まるものでもない。今自分が座っているソファというものだったり、部屋の中身は素人目に見ても貴族然とした高級品ばかりだった。外では風が吹いているだろうに、部屋の中では風を感じることもない。雨が降ったって、この部屋には入ってこないだろうし、外が寒ければここが暖炉代わりになり、周りが灼熱ならここが氷の城になるのだろう。
花樹は、経験することもなかった。
こんな生活を、想像したことすらなかった。そして、その生活に甘んじていた。
まだ、一切実感は湧かないが、やはり自分はこの生活を送っていたフェナリという少女になったのだ。この生活は、自分が送っているもので、自分が――
そう考えを進めてから、フェナリは思考を放棄した。
もう、何を考えていても実感がわかないような気がしてくる。自分には勿体ないような生活と、周りからの待遇。何もかもが、自分にとって相応しくないような気がした。そして、同時に――何もかもを周りから与えられている自分が、何もしていないという事実が恐ろしくなった。
「私は、どうすればいいのか――教えてくれ、雅羅……」
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