裏切りの夜-10
7/28 16:30 メキシコ側・アメリカとの国境付近。
一人の日本人女性がタクシーでアメリカから国境を正規に通過して、シウダー・フアレスの地に足を踏み入れた。
世界一治安の悪いこの街を、威風堂々と闊歩する女。
むしろ威嚇の気概を発している。
刹那のオーラ。戦慄の眼光。
緋色の目が月明かりに共鳴して妖艶に輝いている。
草場 雫。
草場流剣術の22代目の娘に生まれ、15才で暗殺業に従事し始めた。
18才で現当主23代草場雷蔵(本名・斎藤 英二)と結婚し一男一女を授かり、暗殺者としての人生を捨て、母として生きる道を選んだ。
妹想いの兄・八雲は、泣き虫な妹・霞を守り慰め励ましていた。
仲のいい兄妹。
雫はささやかながらも穏やかで幸せな日々を送っていた。
八雲が13才になるまでは…。
この家に生まれた宿命。緋眼の一族の後継者である八雲は家業の暗殺者としての人生を歩き始めた。
もちろん雫も覚悟はしていたし、決定路線であったことは事実として受け入れていた。
だが母としての感情もわいてくる。
任務に出るたびに心配で眠れない日々の中で息子の帰りを祈り待つという辛い現実と戦っていた。
そんな雫の心の支えが霞であった。
まるで姉妹のような仲良し親子。
一緒に八雲の帰りを待つことで深まる親子の絆。
しかしそんな雫の気持ちとは別に、めきめきと頭角を現し、一流の暗殺者に育っていく八雲。
18才にして草場流剣術の筆頭にまで上り詰めた。
そして5年前。
もうすぐ二十歳を迎えようとしていた八雲はバトルフィールドに召喚される。
平静を保ち「いってらっしゃい」と声をかける雫に、
「じゃあ、いってくるよ。」
とリュックひとつを持って笑顔で玄関を出た。
八雲は【神速】などという通り名までつけられた超一流の暗殺者である。
きっと帰ってくると信じて待つ雫に絶望が訪れる。
アンドロメダから豪華な棺が自宅に運ばれ、その中には顔の半分が欠損し、左手が切断された八雲の亡骸であった。
こうなることは覚悟していた。そういう仕事である。
ただ感情に嘘はつけない。
人生で一番の絶望を味わい、一生分の涙を流した。
そして残された娘を再び失おうとしている。
助けに行きたいが、開催地が極秘でわからない。
また八雲の時のような絶望が待っているのかと思うと泣き叫びたくなる。
そんな荒れた感情の雫のスマホが何も表示されないディスプレイを光らせて着信音を鳴り響かせた。
恐る恐る電話に出ると、相手はフェイ・リンと名乗る女であった。
たとえ現場を離れていても情報は耳に入る。
この女が雫の知るフェイ・リンならば、東アジアでは有名な中国のテロリストの親玉である。
通信環境が悪いのか、聞き取りづらい会話ではあったが、雫は一言も聞き逃さないように鼓膜を集中させ、とっさにチラシの裏にメモをとる。
シウダー・フアレス。
メキシコ北部のアメリカとの国境沿いの町。
自身もプレイヤーとして参加させられていると話したうえで、開催地を教えてくれた。
フェイ・リンの言葉では、逃走の計画を謀っており、霞も仲間に加わったとのことだった。
その退路の確保を草場流剣術にお願いしたいとリンは言う。
全てを鵜呑みにできるような話ではないが、目の前に現れた一本の蜘蛛の糸を掴むしかなかった。
それを夫である雷蔵に知らせると、数分後には家を飛び出していった。
雫はフアレスの町はずれのホテルにチェックインして、スマホを開き電話をかける。
「もしもし。恭介。そっちはどう?」
電話の相手は草場流剣術の筆頭である山本恭介。
「ああ、女将さん。
全員各所に散らばって師匠を探してるよ。」
と恭介はぶっきらぼうに答える。
「恭介…。あんたたちまで来ることなかったのよ。
これで一生追われる身よ。」
雫が申し訳なさそうに言う。
「なあ、女将さんよ。
本当なら今回は俺の番だったんだ。
でもカスミが俺の身代わりになっちまった。
それなのに日本で安穏と過ごせるわけねえだろ。
それに八雲の事もある。アカネの親父さんもその前のコレで死んじまった。
もううんざりだ。めちゃくちゃにしてやる、こんなクソみたいな戯れ事をな。」
少し感情をいれつつ淡々と話す恭介。
それを雫が諫める。
「いい恭介。
私がゴーサインを出すまで動かないで。
カスミの体には爆弾が埋められているの。
それを除去するまでは、見かけても絶対に接触しないで。
ちゃんとみんなに伝えてあるはずよ。
知らないのはうちの人だけ。
とにかく迅速に捕獲して。あのバカ亭主を。
そして手筈通りに武器のピックアップをして。」
そう念を押す。
「刀はすでに全員が手に入れている。
さすがだな、師匠は。日本大使館にノーチェックで武器を送ってんだから。
長いこと国に仕えてた人脈は見事だ。
で?女将さんはどうするんだ?」
恭介の問いに、
「フェイ・リンと接触する。
手段は打ち合わせ済み。また連絡するわ。」
そう答えて電話を切った。
(カスミ…。お母さんが必ず助けるから…‼)
もうこれ以上、大切な子供を失いたくない。
雫の母という偉大な力を発動させようとしていた。




