鉛筆削りと麦茶
「砂埃に喉元を裂かれた夏のそよ風が、人影を映したカーテンを靡かせる頃、僕は雨粒の模様が刻まれたベランダで浅い深呼吸をした。麦茶の香りがほんのりと風に乗せられて、僕はそっちの方へと手を伸ばす。鉛筆削りって何だろうね? 夕日が落ちていくように、僕らは僕らだけの地平線を見つめるんだ。」
「『何をしているんだい?』なんて訊くのはナンセンスかな?」
「ああ、カタツムリに英単語の意味を尋ねるくらいナンセンスだね。」
「あれ? 君はカタツムリと意思疎通ができないタチだったかい? それは残念だな。」
「そうか、君は遂にカタツムリと話せるようになったのか。やっぱり君には敵わないね。」
僕の皮肉に対して万遍の笑みを浮かべる君への拒絶反応なのか、僕の涙は目の奥の方へと隠れてしまった。君は本当に馬鹿だ。解っているのに分かっていないフリをするんだ。いつもそうだ。いつも、いつも。
「今日は言い訳を醸造しないんだね。いつもなら「気のせいだよ。頭だけじゃなくて、目も馬鹿になっちまったか?」と言うのに。」
悪意たっぷりのモノマネをする君に反応して、「今すぐ飛び降りてやってもいいんだぞ。」という的外れな脅しが僕の脳裏を横切った。死ぬほど強く握ったフェンスの汚れは僕の指先にべっとりとついていた。
「君は心底来てほしくないタイミングで毎回現れて、こうやって狂ったように茶化してくる。ホント迷惑な奴だな。何で僕がこうしているって分かるんだ?」
君は水筒に詰めた麦茶を飲みほして答える。
「それは君が僕を欲しているからだよ。簡単なことさ。僕だって僕の時間が欲しい。毎回こんな場所にわざわざ顔を出したくはない。だけど君が求めるから遠路遙遙来ているんだよ。」
「僕が君を? そんな馬鹿な。来たくないなら来なくていいのに。」
僕の呟きにはグローブさえ伸ばさず、むしろ荒野のど真ん中へと蹴り飛ばすような、そんな顔を君は作る。
「ビスケットが畑を耕してしまうよ。君は天才だ。何でもこなせるし、弱点なんか見当たらないよ。ソシャゲのガチャならSSRってとこか? それに比べて僕は高く見積もってもアンコモンだな。僕も君の様に才能を持っていれば、君を求めたりはしないよ。」
長い溜息の後、君は答える。
「君にだけはそんな歌詞を吐いて欲しく無かったな。僕が君に強要するのも野暮だけど。」
君は初めて僕にそんな顔を見せた。秋の朝の匂いの様に儚く、熟れた葡萄のような顔。僕は君になぜそう思うのか訊こうとした。でも君は、
「さてと、僕にはこの後、麦茶のおともにふさわしい概念ランキングを作る予定があるんだ。僕は『就職』と『一次関数』が一位の座を奪い合うんじゃないかと予想しているよ。よかったら君も試して見ないかい? 一人だとどうしても意見が偏ってしまう。評価者は多いほうがいいと思うんだ。君がこのまま飛び降りるって言うなら、それはそれでいいけど。まぁ君が好きな方を選んでくれよ。」
と言って誤魔化した。
「河原で小石を積むよりは面白そうだ。」
「君ならそう言ってくれると信じてたよ。世間なんて鉛筆削りみたいなものさ!」
「それはどんな意味だい?」
「身を削らせてまで使える形にさせてくるって意味だよ。」
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それから何日か経った黄昏時、僕が廊下を通っていると、窓辺から這い出る麦茶の匂いと、それに沿って限りなく伸び続ける一次関数の影に気が付いた。
僕は君を求めていたのに、君は僕を求めてくれないんだね
覗き込む僕の手から零れ落ちた水筒は砕け散り、そこから麦茶が零れた。君は大好きな麦茶を飲まなかった。フェンスは一か所だけヤケに綺麗だった。