白糸を雪ぐ
国が三つに別れて戦った時代。魏という国があり、呉という国があり、そして蜀という国があった。
後世の人々が熱狂し、今も色褪せない物語として語り継がれている。数々の英雄たちの中に埋もれ、その功績を正しく評価されない者もいた。
愚か者、能なしという意味で使われる「阿斗」という幼名をもつ、劉禅もその一人だろう。
歴史の濁流に飲まれ、粉々に砕け散った多くの言葉たち。もしその中に、誰にも知られることのない言葉が記されていたとしたら……。
満月の夜、一人で白湯を飲みながら昔の出来事を思い出していた。気まぐれに墨を摺り、筆を握ってみよう。どうせ誰も見ないのだから、なにを書いてもいい。
あれは、いつのことだったか。確か……降伏して間もない頃だったように思う。
蜀の音楽を聞いて懐かしいかと聞かれ、懐かしくないと答えた。笑っていたのは、もう聞けないと思っていた音楽を聞けたから。臣下が懐かしさに泣いているのを見れたから。
馬鹿だと思わせたかった。盲目的な忠誠心は危険だと親を見て思っていたから。
丸い月、薄い雲と瞬く星。風はなく、人の気配もない。あるのはただ、静かな暗闇だけ。
やっと肩の力を抜ける。湯呑みを半分ほど満たす白湯を口に含み、ほっと息を吐いた。降り積もる疲労が心を蝕み、体の動きを鈍くしているように思えて仕方がなかった。
億劫だ、何もかもが。疲れている、なのに眠りは浅く、体も心も癒えるより早く次の疲労がやってくる。
あとどのくらい、何日、何年、こんな生活が続くのだろうか。目蓋を閉じれば浮かぶ景色がある、思い出す人たちがいる。もういない人と、今も共にある人の顔が浮かんでは消え、浮かんでは消え、耐えきれず目蓋を開け水面に映る己の顔を見た。
手の中で揺れる水面は映った顔を歪ませ、情けない表情を隠してくれる。白湯をもう一口飲み、大きく息を吐く。
見上げた空で星は輝き、月は明るく暗闇を照らす。地上に降る青白い光を浴び、手を伸ばして掴もうとした子どもの頃を思い出した。
激動の時代。戦いと死が、希望や生と背中合わせだった。命は火花を散らし、激しく燃えては尽きていく。
振り返らない父の背中は遥か彼方にあり、追い掛ける背中たちも前へ前へと進むのみだった。
一つ年を重ねる度、期待という荷物が増えた。
形のない未来が肩にのし掛かる、求める眼差しが心臓に突き刺さる、約束だという声が足に絡みつき、動けなくなった。
義とは素晴らしいものだ、仁とは理想の世界を作る武器だ。誰もが幸せになれるように、誰も見捨てないように、そのために多くの命が消えていくのを見た。
父を背に庇い崩れ落ちる人がいた、自分を庇い積み重なる人たちの体があった。流れた血の多さ、流した涙の量は計り知れず。
義、仁の世のために大地は紅く染まり、もう動かない夥しい人たちを踏み越え、涙の河を渡った先に玉座がある。しかしそれは、血塗れの玉座に思えてならなかった。
この戦乱の世、誰かが玉座に座らなければ終わりはないだろう。躊躇ってはいけない、迷っている暇もない、武器を手に戦って勝つのが全て。
理解しなくてはいけない、慣れない武器を握りしめ何度も自分に言い聞かせた。励ましてくれる人、そっと寄り添ってくれる人の存在に救われた、父が死ぬまでは。
残された父の信念、父を慕い従う人たち。理想を謳う声が響き、後を継げと私を責め立てる。采配をと促す手から顔を背け、早くと急かす声には耳を塞ぎ、見たくない現実からは目蓋を閉じて逃げたくなった。
父とは別の人間で、同じことはできないと叫んだ声は黙殺された。貴方が後継ぎですからと宥められ、突き刺さる視線に身を晒すのは想像を絶する苦痛だった。
父ならこうしていた、父ならこうするはず。求められるのは、父と同じ選択をすること。私の意見など誰も求めていない、私個人の存在価値は初めからなかったと思った。
皆の中に満たされない気持ちが降り積もっていく。私の中に父の面影を探さないでほしい、私は父ではないのだから。私では、永久に貴方たちの心を満たせないのだから。
「蜀を思い出しますか?」
聞かれた言葉の意味を理解するのには、少し時間が必要だった。ああ、あの日の宴のことだろう。
あの場に響いていたのは蜀の音楽だったが、私の鼓膜を震わせていたのは家臣たちの啜り泣く声だった。
故郷を思い出し涙ぐむ者、目を閉じて聞き入る者、肩を叩き身を寄せ合う者たち、皆の緊張が僅かに緩んでいた。
無理を強いているのが心苦しかった。命令しかできない身分が煩わしく、かといって父を真似るのも難しい。
先陣を切る度胸は何処かへ落としてしまった、皆を安心させる威厳は失くしたきり見つからない。持っているのは、聞くことのできる耳だけだ。
ゆっくりと噛み砕き、飲み込んだ言葉が棘となって内臓に突き刺さった。意地の悪い人だ。思い通りに踊ってやるのは、やっぱり癪に障る。
「蜀を思い出すことはありません」
そう笑ったのは、皆の顔を思い出しながらだった。問うた人は少し目を丸くし、蔑むような、呆れたような顔をした。
私はその顔を見て、また笑った。思い出す必要はないんだと、皆がいるこの場所が私の居場所で、つまり皆こそが蜀なのだから、と。いやいや、言ってやるつもりは初めからないがな。
私には帰る場所がある、私を待っていてくれる人がいる。私は皆の帰る場所になる、皆の帰りを待っている。
地図の上から蜀は消えた。でも、蜀は私と共に生きる、私は蜀に看取られ命を終える。
知らないままでいればいい。いつか、この国も滅びるのだ。衰退か、叛逆か、敵国に無惨に滅ぼされるのか。どの道を辿るかは知らないが、生まれた以上、死ぬのが定めというもの。どの国も同じ、例外は一つもない。抗えない運命の時は十年後か、百年後か、それとも明日か。
「こういう時は……」
体裁を、と進言してくれる者の言葉を無下にはできず、耳を傾けて頷く。そうか、そういう言葉が望まれているのか。では使わなくてはいけないな。
すぐにやってきた同じ問いかけに答えた。教えられた言葉そのまま、間違えないよう繰り返す。これでいいのだろう?
「一字一句、同じですね」
呆れた、という表情を隠しもせずに落ちた溜め息と言葉。含まれた失望に、嘲笑に気づけないほど鈍くはないが、反論する気などあるわけもない。
「なにか、問題でも?」
望んだ答えが得られたなら、もう話すこともないでしょう。本心が見えないように笑みを張り付け、馬鹿なふりをしてやる。
敵意がない者を攻撃することはできないと分かっている。これは力を持たない、奪われた私に残された最後の抵抗だ。
笑いたいなら笑え、蔑みたいなら勝手にすればいい。殺したいのなら、無抵抗で切られよう。代わりに、民の安寧を約束させるだけだ。
私の命を惜しいと思ってくれる人には申し訳なく思うが、人はどうせ死ぬ。少し早まるだけだから、悲しまないでくれるといい。
これだけ能なしっぷりを貫いているのだ、呆れ果て、情も薄れてきたとしても不思議ではないよ。
そんな風に考えていたな。随分と馬鹿なことだが、今となっては懐かしく思えるから不思議だ。
ああ、眠くなってきた。
もう筆を持っているのも億劫だ。そうだ、眠ってしまえばいい。こんなところで寝るなんて、と怒られるかもしれないが、もう眠くて眠くて、仕方がない。
どうか、怒らないでくれ。どうか、悲しまないでほしい。もう二度と、目を開けることがなくても、どうか。
最初に見つけるのが誰なのか、予想はついている。なら、最後に一言、添えなくてはならないか。
重い腕を持ち上げ、筆先を墨に浸す。少しだけだから、動いてくれ。これを書いたら休もう。ゆっくりと、なにも考えずに目蓋を閉じれば楽になる。
「なにを言われても、どう思われても構わない……私は、私として生まれることができて……幸せだった……」
筆を置き、満月を見上げて息を吐く。これでいい、これで。つらつらと書いた手紙を置いて、ゆっくり、ゆっくりと力を抜いていく。
いつの日か、真っ白な糸に戻れることを願って。不本意な色に染められ、馬鹿と笑われた私を、歴史が雪いでくれるだろう。百年後でも、千年後でも、その日はきっと訪れるはずだ。
残された最期の言葉たち。末文は……。
【ありがとう】
一つの命という歴史に幕が降り、終わりを告げる朝が来る。幾重にも重なった汚名は少しずつ雪がれ、やがて生まれた時と同じ、真っ白な糸となって甦るだろう。
いつか、きっと。
読んでくださってありがとうございました。