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美祢林太郎短編集  作者: 美祢林太郎
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1 小説:埋葬の起源

1 小説:埋葬の起源


 人間がまだ死者を埋葬する風習を知らなかった、そんな何万年も前の話である。


 獣の匂いが鼻につく、毛皮でできた衣服の下で何ものかが動いた。彼女が腹のあたりから毛皮を捲り上げると、やせ細った子供が現れた。折った手足や腰まで伸びた金髪の長さからその子が赤子でないことはわかった。子供はか細い声で何か言い、母親はその子に何かを答えていた。その言葉を理解することはできないが、どこか優しい調べのように聞こえた。


 ヒトはずっと昔から家族で生活していた。狩りは一人ではできないので、家族で生活しなければならなかった。単独の生活は死を意味していた。狩りをするからといって、この生きものが狩りに適した体を持っていたわけではない。ライオンやトラのように強靭な牙を持っていなかった。チータのように速くも走れなかった。ゾウやカバのような巨大な肉体も持っていなかった。ヒトが走って捕まえることのできるような動物は、ほとんどいなかった。ヒトの先祖は他の肉食動物が食べ残した残飯をひっそりと食べ、細々と生き残ってきた。二本足で歩くという特殊な体型が、狩りに大きな利点をもたらすわけではない。足が速くなったわけでもなく、木に登るのが得意なわけでもない。逆に、かれらの先祖よりも木登りが下手になったくらいだ。それでも一度始まった二足歩行から、以前の四足歩行に戻るわけにはいかなかった。それは自分の意志ではどうすることもできないことだからだ。意志でなんでもできると思うのは、人間の驕り以外の何物でもない。

 短距離走は苦手でも、派手さはないが、持久力はお手の物である。小走りで走ったり、ゆっくり歩いて、狙った獲物がばてるまで何日も追跡することができる能力は、他の動物よりも長けていた。ヒトは元来執念深い生きものだったのか、餌を追ってるうちに執念深くなったのか、どちらが先かはわからない。

 ヒトは家族でシカの移動に伴って、生まれ育った故郷を飛び出し、新しい土地に踏み出していった。

 ヒトは他の動物を食べるだけでなく、他の動物からも食べられた。特に子供たちは地上の猛獣だけでなく、空のワシやタカなどの猛禽類にも狙われた。さらには大きなヘビもいた。そもそも、子供たちが狙われるのは、ヒトのような弱小動物だけとは限らない。ライオンやゾウなどの強靭な動物でも、子供の時分は他の動物から襲われる。子供は、他の動物の貴重な食料なのである。多くの子供たちは病気だけでなく、餌になっても死んでいく。

 ある時、母親が少し目を離した隙に、子供はワシの鋭い爪に捕まれて飛び立っていった。もう二度と奪い返すことはできない。その時は少しあたふたしたが、すぐに忘れた。子供が死ぬのは、不幸と言うには、あまりにありふれた光景だったのだ。

 またある時、子供から少し離れたすきに、ワシが子供を連れ去ろうとした。母親は小石をつかみ、それをワシに投げた。その石は運よくワシの顔面に当たり、ワシは墜落して地上でばたついた。彼女は大きな石を両手で頭上高く持ち上げ、ワシの頭に落として、ワシを一発で絶命させた。彼女はワシの毛をむしり、肉を噛んで軟かくして子供に与えた。ヒトの手は石を投げ、木を掴んで、敵を攻撃することができるようになっていた。

 大型動物の厚い皮を噛み切って、肉を引き出すには、ヒトの歯は弱すぎた。ヒトは死んだライオンから牙を取って、それを使って獲物の皮を切るようになった。ヒトには発見するという知恵があった。知恵はヒトが生きていくのを助けるばかりでなく、生活の質を高めていく上で、無限の可能性を持っていた。数万年後の現代では、可能性が開花し、開花した可能性が新しい可能性を生んでいる。進歩と言う楽天性と、過剰という頽廃性の両面に戸惑いながらではあるが。

 知恵が何をもたらしてくれるのか、将来の明確なビジョンは何もなかったが、とりあえず、肉を切り出すための道具を見つけた。ヒトは新しい歯を見つけたのだ。新しい歯は、いつしかナイフと呼ばれるようになり、歯とは区別されるようになっていく。

 ライオンの牙は使用する度に刃は丸くなり、切れなくなったり失くしてしまうこともあった。ライオンの牙をそうそう簡単に手に入れることはできない。牙を手に入れるよりもかれらに食べられる確率の方がずっと高いのだ。

 ヒトには創造性という知恵があった。そのうち硬い石を使って手で握れるほどの大きなナイフを作るようになり、石と木をつなげて槍や斧を作るまでになった。この槍や斧を持つことによって、猛獣から距離をとって戦えるようになった。ヒトは槍を体から離さないようになった。

 ヒトの特性には、知恵によってもたらされた記憶の伝承がある。大昔、誰かが火を利用することを発見した。最初の利用者が誰であったかは、もちろん誰も知らない。無名である。しかし、知らなくても子孫に受け継がれ、いつしかヒトの共有財産となっていった。

 当初、他の生きものと同じように、ヒトの祖先も火を見ると逃げ出していた。自らが燃えて、火傷をし、死ぬのがわかっていたのだ。だが、火に一定の距離をとると、冷えた体を温めることがわかった。火を焚いていると、猛獣も近づかなくなった。深夜に、遠くで吠えるオオカミの声を聞いても、おびえなくてよくなったのだ。さらに、火によって肉や木の実を焼けるようになった。焼いた肉は生肉よりも柔らかくて美味しかった。本人たちは知らなかったが、焼くことによって、肉の中の寄生虫や細菌が死に、ヒトの寿命は延びていった。

 一人のヒトが発見したり創造したことが、他の仲間たちにも広がり、それが世代を超えて伝承されていった。それは何万年後かに、文化と呼ばれるようになった。それまで、すべての生きものが世代を越えて伝えていくための手段は、唯一、遺伝子しかなかった。文化によってヒトはゆっくりではあるが、歴史を創造する人間になっていった。

 ヒトのコミュニケーションは、当初からサルのように音声で行われていたが、ある時、音声を使ってコトバが発明された。この人類史上最大の発明者を誰も知らない。おそらく、いや絶対に(絶対という言葉は極力差し控えたいのだが、ここでは使っても許されるだろう)、コトバの発明者は一人ではなく、対話するために、少なくとももう一人はいたはずである。そうでなければ、コトバがあまりにも内省的で孤独だからだ。誰にも理解されない呟きは、他のヒトに伝わってはいかない。

 コトバは集団内に急速に広まっていった。コミュニケーションを取るためにすこぶる有益だったからだ。初めは思惟するための方法ではなかったはずだ。思惟は、集団内で過剰な対話が繰り広げられた後に、一人で内省的な対話ができるようになって、初めて生まれることができたのだろう。

ヒトは自然のあらゆるものに名前をつけていった。獲物がどこにいるのか、敵はどこにいるのか、数はどのくらいなのか、状況を詳しく説明できるようになった。寒い、暑いという感覚もコトバで説明できるようになった。そして、コトバは愛や幸福などの観念的な世界を作り上げ、それが後々人間を支配していくことになる。

 

 そろそろこの話の最初に戻ろう。

 洞窟の中で、母親は衰弱した娘を抱き、シカの骨から作った縫い針と腱とで、毛皮でできた衣服の修理をしながら、ずっと昔にライオンに襲われて右腕がなくなっていた祖父と一緒に、狩りに出かけている夫と3人の息子を待っていた。

 夕方になり、男たちが洞窟に戻ってきて、火の回りに座った。獲物はウサギ一匹しかなかった。この2・3日はみんなの胃袋を満たすのに十分な獲物が採れなかったので、ウサギ一匹でもありがたかった。彼女は早速石のナイフでウサギを解体し、肉を火の中に投げて焼けるのを待った。すぐにいい匂いがし、肉汁が滴り落ちて火にはじける音がした。

 ウサギの肉を食べ終わり、みんなが洞窟の外に出ると、辺りは真っ暗になり、遠くからフクロウの鳴き声が聞こえた。夫が夜空に輝く満点の星の中から北極星を指さし、明日北を目指して移動しようと言った。かれらに定住の地はなかった。ひたすら獲物を追って移動していくだけだ。

 渡り鳥たちは北を目指した。彼女たちもゆっくりとではあるが、北を目指していった。地上のすべての動物も、北極星のある北を目指しているようだった。娘はつい一週間前までは、あれほど元気に一人で歩いていたのに、このところ日に日に弱っていき、ついに一人で歩けなくなった。彼女は骨と皮だけになって、心臓の鼓動だけがまだ生きていることを告げているようだった。数日間、彼女は娘を大事に抱きかかえて歩いた。誰もそれを手伝うものはいなかった。

 ついに娘の心臓の鼓動は停まった。それでも母親は娘を抱いて歩いた。男たちは何も言わなかった。

 娘が死んで何日が過ぎたのだろう。亭主はミイラのようにガリガリになった娘を強引に母親から奪い取って、遠くに投げ捨てた。生きものが厳しい自然の中で生きていくには、未練があってはならない。未練があったとしても、できるだけ早く断ち切らなくては、生きていくことはできない。重荷を背負うにはあまりにもヒトは弱いのだ。

 母親は投げ捨てられた方向に走り寄り、娘を大事に抱きかかえ、夫のいるところには戻ろうとしなかった。しばらくそっとしておいたが、夫は再び妻のところに行き、抵抗する妻から娘を引きはがし、足を持って洞窟から出て行き、遠くへ投げ捨てた。その一部始終を他の家族のメンバーは微動だにせずに見ていた。二人が洞窟から出て行くと、焼きあがったシカの肉をみんなで美味しそうに頬張った。

 以前、祖母が痩せ衰えて歩けなくなった時、家族のみんなは祖母をそこに残して、移動していった。振り向く者は誰もいなかった。それは彼女も例外ではなかった。祖母はカラスが啄んだ。

 彼女は自分の子供が何人いたか覚えていないが、残った子供以外は病気や怪我、他の動物に食べられて死んだ。そうした過去のことは、もう家族の誰一人記憶にない。

 妻は娘が投げられた方に走っていき、探した。娘を探し出すと、愛おしそうに抱きしめた。妻は夫から逃れるように娘を抱いて洞窟のある場所から遠く離れていった。そして夫に娘を見つけられないようにする方法を必死で考えた。岩陰や木の祠ではすぐに夫は見つけてしまうだろう。いや、夫が見つけなくても、ハイエナやワシ、カラスが見つけて啄むだろう。きっとそうだ。私の大事な子供をだれにも取られないように隠すところ、それを必死で考えた。彼女はそれまで本能の赴くままに行動し、考えるということをほとんどしてこなかった。考えることといったら、生きていく上でのことだけだった。それが、いま死んだ娘のことを必死で考えていた。それは彼女が生きていく上で、何の役にも立たないはずなのに。

 すると、あることを思い出した。リスが秋にドングリを土に埋めて他の動物にとられないように備蓄することを。そして、餌のなくなった冬に掘り起こして食べることを。またある種のウサギが、子供を捕食者から守るために土の中に埋め、餌を与える時にだけその場所を掘り起こし、その後でまた土をかける方法で養育することを。

 彼女は娘を抱いて走った。埋める場所を探したのだ。馥郁とした香りの方に引き寄せられていった。そこには大きな菩提樹があった。彼女はいつか娘を掘り起こす時、埋めた場所の目印が必要だと思った。この大木ならば、何年も何十年もこの場所にあり続けるだろう。彼女が忘れない限り、娘はこの土地の下で静かに私を待っているだろう。

 夫や他の猛獣たちが掘り起こさないように、深く掘った。棒を使って石を取り除いた。土を手を使って掘ったので、爪が剥がれ血が滲んだ。それでも深く深く掘った。何時間経ったのだろう。外は暗くなり星々が瞬いていた。彼女は家族が目指す北極星の方角に娘の頭を持っていき、北極星が土を通しても見れるように仰向けに寝かせた。きっと、子供も土の下から季節の移り変わりを感じることができるだろう。毎年、春になると菩提樹の花が満開となって、馥郁とした香りが辺りを包むだろう。娘の上に土を両手ですくって何度も何度もかけた。

 これが人間の埋葬の始まりだったことを、もちろん彼女は知らなかったし、筆者も彼女の名前を知らない。

 頬に冷たいものを感じたので、雨が落ちてきたかと思ったが、それは涙だった。もしかすると、それはヒトが涙を流した最初なのかもしれなかった。涙は眼球の乾燥を守るためではなく、傷んだ心を潤すために流れたのだ。

 子供の埋葬が終わって、ボー然として立っていた時、彼女を狙う猛獣の目が闇の中で光った。その猛獣が彼女に飛びかかった瞬間、その猛獣がどさっと地上に落ちる音が聞こえた。音がした地面を見ると、クロヒョウの胸に槍が刺さって、断末魔の声を上げていた。その後すぐに、藪をかき分けて彼女に猛スピードで近づいてくる物体があった。彼女は一瞬身をすくめたが、すぐにそれが夫であることがわかった。夫は黙って妻を抱き寄せた。足元の土の下に、娘が眠っていることを夫は知っていた。

 夫は槍を抜き、クロヒョウにとどめを刺して、それを担いで妻と一緒に洞窟に戻った。二人は洞窟の片隅で激しく抱き合い、その夜、妻は新しい命を身ごもった。

家族は動物を追って北に向かった。その途中で(とは言っても、一生動き回るかれらに、目的とする安住の地があったわけではないが)、祖父が亡くなった。祖父の死に顔はとても安らかだった。妻は景色のいい場所を探して、穴を掘り始めた。それを夫や息子、そして娘のみんなが手伝った。誰も無言だった。家族全員で父親の頭を北に向けて埋葬した。いい香りのする菩提樹がなかったので、香りのする花を遠くから摘んできて手向けた。目印となるものがなかったので、大地にシカの骨を突き刺し、その上に大きな角のあるシカの頭蓋骨をのせた。老人は右腕を怪我をするまでは、勇敢な狩人だった。彼女らはさらに北を目指していった。

 彼女の息子たちは、一人また一人と、移動の際に出会った他の家族の娘と新しい家族を作り、離れていった。彼女が亡くなった時、家族のみんなの手によって埋葬され、彼女の子孫も亡くなると埋葬されていった。

 娘は菩提樹の下で今も眠っている。


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