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美祢林太郎短編集  作者: 美祢林太郎
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14 小説:帰省

14 小説:帰省


 シュウは数年ぶりに母が一人で住む実家に帰省した。

 実家は、広島県の備後地方の中心都市である福山から山の方に向かって走るローカル線の、ある無人駅から2キロほど歩いた、小高い丘の上に20数戸からなる小さな住宅地の一番奥にあった。シュウが高校を卒業して東京の大学に進学し卒業した頃に、シュウが生まれ育った町場のアパートから、両親はここに家を建てて移ってきた。その当時は、若い夫婦と子供たちで賑わう新興住宅地であったが、今はどの家も築40年を超え、70歳を越えた老人だけが住んでいた。

 シュウは東京の大学を卒業した後、東京の下町にある信用金庫に就職し、家族を持って居を構えていた。

無人駅から実家まで2キロの道を歩いたが、育った土地ではないのでここらの風景を見てもなんの感慨もわかなかった。小さな田圃は田植えの時期だった。

 玄関を開けて「ただいま」と挨拶しても、母親からの返事は帰ってこなかった。今日帰ることはあらかじめ電話で知らせておいたので、母は知っているはずである。そのまま靴を脱いで上がり、狭いキッチンに行くと、椅子に座っていた母は顔を上げて「帰ってきたかね」と言ってほほ笑んだ。補聴器をつけていなかった母は、シュウの声が聞こえなかったのだ。それでも想像していたよりも母はずっと元気だった。「今晩は、小エビのから揚げをするから」と言って、母はテーブルに向って黙々とエビの殻を剥いていた。小エビのから揚げがシュウの好物だということを母は覚えていた。

 翌日、母は買い物に行くというので、シュウは付いていくことにした。母は要介護2に認定された障碍者である。数年前から、痛みに耐えかねた両股関節と右膝の三か所を人工関節にしていった。140センチくらいの身長で太っていて、さながらペンギンのようにぴょこたんぴょこたんと狭い家の中をゆっくりと歩く。

 一人住まいの母は、父が亡くなってから、父が残したセニアカーなるものに乗って1キロ弱の道のりを、スーパーマーケットまで週に1回程度買い物に行っている。このセニアカーはメーカーの説明だと「ハンドル型電動車いす」ということになっているが、ハンドルが付いているので、母の気分は車いすというよりも車に近いようだ。だが、母は車やバイクの免許を持っていない。自転車も大人になってやっとのことで乗れるようになった。

 セニアカーの最高時速は6キロくらいで、シュウは小走りに後ろを付いていく。店に着くと入口にセニアカーを放置して、店のショッピングカートにすがって買い物をする。「あれを取れ、それを取れ」と指示されたものをショッピングカートに載せていく。予定していたものを買うと、レジに行き、カードで払っていく。身体は不自由でも、買い物自体は体にルーティンとして刻み込まれているようだった。買い物は大きな袋が2つになったので、一つはカーの前についているカゴにのせたが、もう一つは置き場が見あたらなかった。そこでシュウが大きい方の袋を手で持って帰ろうとすると、持つことはないから足元に置けと言う。足元に置くと、母それを跨ごうとするが、荷物が大き過ぎて跨ぐことができない。左足を持ち上げてくれというから、持ち上げて袋を越そうとするが、足が痛いと言う。シュウが持って帰るから、と言っても母はあきらめず、袋を上から押してもう少し低くするように指示された。足元の袋からいくつかの物を取り出して、前の籠に載せると、左足は跨げるようになった。それで母は「出発」と声をかけて、シュウはセニアカーに乗った母の後をついて帰っていった。

 セニアカーの前を歩くと邪魔だと言われ、少し間隔をあけて後ろから付いていくと、「あんたはなんでそんなに遅いのだ。知り合いの年寄りだってもっと早く歩く」と文句を言う。昔からそんな減らず口を叩く母だったが、今でも口が達者なことを自慢している。

 今日も晴れて暑い。足が不自由だけれども、母は良く動く。毎日洗濯をし、庭の植物の手入れをしている。

 玄関に干からびて茶色になったエンドウ豆の莢のようなものが、木からたくさんぶら下がっている。これは春先に赤みがかった紫色の小さな花をたくさんつけ、ここらでは珍しい木だけれど、あんたは知っているか、と聞いてくる。知らないというと、「ハナズオウ」だと、小さな鼻を膨らませて言う。ハナズオウなら知っている、と返答すると、それを無視してしまう。聞こえているのか聞こえていないのかわからない。

 これからハナズオウの豆の莢が道路に落ちるので、今のうちに莢を取ってくれと注文された。そこで、莢を取っていると、「それじゃ日が暮れてしまう」、と言われた。「枝を切ってもいいから」、とのこぎりを渡された。「のこぎりを折るな」とくぎを刺されたのは、以前のこぎりを折ったことを今でも執念深く覚えているからだ。先端の枝を切るには手が届かないので、どうせすぐに老人の手には負えないくらい生長するだろうからと、かなり太い枝から切り落とした。母は最初の内、不満を口にしたが、そのうちさっぱりとしてきれいになったと満足しているようだった。切った枝は相当量になったが、これは母が片付けると言ったが、そのうち気持ちが変わって、シュウに片付けるように、と指示が出た。ビニール袋に入れてゴミに出すと言うので、枝分かれしているところで切っていった。母は、ばらばらになった葉っぱや莢を箒で掃いて片付けていった。この剪定でシュウの力を認めたのか、次には椿の木を切るように指令を出した。こちらはハナズオウよりももっと簡単な仕事だった。

 剪定した枝葉の入った大きなビニール袋をセニアカーに乗せて、近くにあるごみ収集場に持って行くという。他にも家の中から出たごみが2袋あった。それをセニアカーに乗せて一回で行こうというのである。母には昔からこうした強引なところがあった。シュウは枝葉の入った大きな袋を持って、セニアカーの後を追った。馬上の織田信長を走って追う木下藤吉郎のごとくである。家来を持った母は少し得意になっているようにも見えてくる。90歳に手が届こうとする母親にこんな優越感を与えているのは、生まれて初めての親孝行ではないかと思えてきた。ごみ収集場に着くと、扉を開けて左端にあるゴミ袋の上に乗せるように、その場所を右手に持った杖で差した。

 簡単な昼食をとって、昼からは溝掃除をして欲しいと言う。溝掃除は近所の人たちとの定期的な共同作業であったが、今年は股関節の手術のために入院していたので参加できず、気兼ねをしていたようだ。母はまず溝の両側の草取りを指令し、シュウは伸びたヨモギやドクダミを引っこ抜いていった。それから水の流れていない溝に溜まった泥をかき出すように言われた。溝の長さは3軒分30メートルくらいだった。年季の入った泥上げシャベルで泥をかき出し、それが終わると、母は今から水道から水を出し、それに加えて風呂の水を抜いて溝に水を流すから、棒ずり(デッキブラシ)で溝を擦りながら下流に走れと言う。水の流れは速いから遅れをとるな、と強調する。指示は常に具体的である。

 乾いた溝に初めちょろちょろと出てきた水が、すぐにいっぱい出てきたかと思うと、結構な速さで流れ落ちていく。革靴を履いたシュウは、水の流れに遅れないように必死で棒ずりで擦りながら下流に走る。もしかするとこんな溝掃除は小学校以来かもしれない。最近は走った記憶さえない。少し若さが戻ってきたような気になってきた。最終の地点では2件隣の奥さんがシャベルで泥をかき出してくれていた。母がいつも世話になり、車で買い物に連れて行ってくれ、食事に連れ出してくれる人である。笑顔でいつ帰ってきたのかと聞かれたので、昨日だと答え、母がいつも世話になっている礼を言った。ずいぶんと日に焼けているけれど、ゴルフのし過ぎじゃないかと聞かれたが、笑ってごまかした。婦人が溝掃除はこのくらいで十分だと言ってくれた。母が出てきて、婦人と話を始めたので、一人で家の中に入って麦茶を飲んだ。

 母が戻ってきて、物置小屋の下の土が何者かにかき出されているから、小屋が傾く前に何とかして欲しいと言われ、小屋を見に行った。確かに何者かが小屋の下から大量の土をかき出していた。明らかに動物の仕業だ。昔はいなかったイノシシが夜な夜な近所の畑を荒らしているらしい。しかし、小屋下の土のかき出しは床下の狭さから言って、イノシシによるものとは思えなかった。とりあえず、かき出された土をスコップで床下に戻すことにした。こうして一晩が経ち、朝になると、また土がかき出されていると言ってきた。そこで小屋を見に行くと、戻した土は以前とまったく同じようにかき出されていた。シュウがアライグマではないかと言うと、そんな動物がここらにいることは聞いたことがないと母が反論するので、スマホで検索するとここらにもアライグマの被害があることが分かった。それでも納得いかなかった母は、後日近所の人に聞いて、それがタヌキであると主張した。母は強情なのだ。

 だが、それはそれとして、母が小屋の下に不審な動物が入れないように、隙間をブロックで覆うように指令を出し、庭先で転がっていたブロックの場所をシュウに教えた。シュウは出入口になりそうなところをすべてブロックで覆い、とりあえず様子を見ることにした。翌朝、土はかき出されていなかった。母は夜中に獣の声がするので、懐中電灯を持って小屋のところに行ったらしいが、そこには何もいなかったそうだ。足が不自由であり、臆病なくせに、好奇心だけは人一倍旺盛なようだ。

 朝、母が鉢植えの花を植え替えていた。根が張って抜けないので取り出してくれと頼んできた。これは力仕事で母の手に負える代物ではない。やっと鉢から取り出すと、母は礼を言い、自分で大きな鉢に植え替えていった。母は草花が好きで、父が生きている頃は、隣接する空き地を借りて、大きな温室を作って草花の手入れをしていた。その頃は父を家来のように顎で使っていたのである。父が亡くなる一年前頃に父が動けなくなると、空き地の温室を壊し、自分一人でできる範囲の草花を栽培するようになった。

 母は通りかかった男の老人と入口の階段に座り込んで話を始めた。二人とも耳が遠いせいか、辺りに聞こえるほどの大きな声で話した。老人にとっては大きな声で話すのが、一つの健康法かと思えた。しかし、どうせとりとめもない話である。その老人がシュウの顔を見つけると、母は長男が帰ってきたと話し、シュウに来るように促し、その人が3軒隣の道路を挟んだ家に住む人だと教えてくれた。シュウは初めて会った人に思えたが、相手は父や母と世間話をしていたのだろう、シュウのことを知っていた。

 その老人は、数年前に母がオレオレ詐欺に会ったことを話題にし始めた。母は受け流そうとして薄ら笑いを浮かべたが、母がオレオレ詐欺で農協から300万円を振り込んだことを話して聞かせてくれた。農協職員は必死に振り込みを止めたそうだが、母は必死で送金し、後から警察が来ていろいろと聞かれたそうだが、母は訴えないことにしたそうだ。この話を母は黙って俯いてやり過ごした。小一時間の老人との話が終わると、母は鉢の植え替えを再開した。

 シュウが気が付くと、母は玄関の入口に置いた椅子に座って眠っていた。横にあった小さな茶色の甕の中で、ブルーに輝く数匹のメダカが泳いでいた。母は目を覚まし、このメダカは珍しい品種だといい、以前他の珍しい品種も奥の村まで行って購入したが、それは死んでしまったと教えてくれた。最近卵が産まれたので、食べられないように他の甕に入れているといった。

 散歩に行ってくると言うと、メダカの餌を買ってきて欲しいと言う。今あるのはさらさらとした粉で、それではメダカが口をパクパクとして食べないので、餌をやった気がしないので、粒状の物を買ってきて欲しいと頼まれた。

 90歳に届こうとする年齢で、メダカの飼育、という新しい趣味ができ、さらに珍しい品種に興味さえ持っている。本人は意識していないであろうが、ささやかであっても生きる意欲が感じられた。

 自宅で父の三回忌が10時から行われた。新型コロナの緊急事態宣言が広島県でも出されていたので、母とシュウ、若いお坊さんの3人で法要が行われた。あらかじめシュウに仏壇にご飯を盛るように言ったが、ひ孫は盛り付けが上手だが、あんたは下手だと言って、盛りなおした。母は毎日、ご飯を供えていた。

「南無阿弥陀仏」、と用意された本を見ながら、30分以上読経した。

 夜に四国に住む姉から電話があり、母が出た。姉はシュウがいても何の役にも立たないだろうと言ったのに対して、庭の手入れや溝掃除、買い物に役に立ったと言った。何よりも家来として逆らわずに尽くしたのがうれしかったようだ。母とシュウが喧嘩せずに数日を過ごしたのは生まれて初めてのことだったかもしれない。

 母はシュウに、これからも東京で家族3人で仲良く暮らすように言った。シュウは数年前にギャンブルのために会社の金に手を出して、母が300万円を補填してくれた。当然、定年を前に信用金庫は首になり、シュウは毎日交通整理のアルバイトをしている。この色の黒さはそのためだ。25歳になる一人息子は引きこもりになり、妻は病気でふせっている。シュウは何もかもうっちゃって実家に戻ってこようと考えて、この度帰省したのだった。母はすべてをわかっているようで、何もそのことに触れなかった。

 朝、母がよんでくれたタクシーが来た。母は杖を突き、ぴょこたんぴょこたんとペンギンのように玄関の外まで出て、タクシーを見送ってくれた。

 かれを見送ると、母は玄関の前の椅子に座って、メダカに粒状の餌をやった。

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