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美祢林太郎短編集  作者: 美祢林太郎
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13 小説:晩夏の海

13 小説:晩夏の海


 伊豆急下田駅から街中を抜けて2㎞くらい行ったところに小さな湾がある。数軒の漁師の家族がこの湾を拠点として漁をしていた。二艘で海に網を下し、その網をしぼめながら、ロープを付けた石を海に投げ、そのロープを手繰り寄せて何度も投げて、網から逃げようとする魚を網の中に戻した。この漁法を地元の者は追っ払い漁と呼んでいる。この原始的とも思える素朴な漁法は、縄文時代からこの静かな湾で子孫に連綿と受け継がれてきたように錯覚させるものがあった。漁師の大きな収入源は、岩場に仕掛けた網にかかるイセエビやサザエ、アワビ、それにロープを張ったワカメの養殖にあった。通りがかりの者が、漁から戻ってきた漁師に「大漁か」と聞くと、決まって「駄目だ」という答えが返ってきた。そこには奥ゆかしさというよりも、秘密主義のようなものがうかがえた。表情に快活さは見られなかった。

 この湾でも夏は海水浴客で賑わい、一つだけ簡素な海の家が建つ。主な海水浴客は小学生である。波の静かなこの湾は、市内の小学校で泳ぐのが許可されている数少ない海水浴場である。首都圏からの若者たちは、外洋に面した波の荒い白浜という海水浴場に行く。それゆえ、ここはまったくと言っていいほど色気のない海水浴場となっている。

 そんな湾も、8月のお盆を過ぎるとクラゲに刺されると言って、小学生も来なくなる。実際にクラゲを見かけることはなく、実際はシロガヤという岩に付着した草状の動物の体がちぎれ、それが海に漂って人間をチクチクと刺しているのだ。それは小さな糸のようなものなので、よっぽど注意をしなければ、肉眼では見ることができない。

 お盆の頃は、海で死んだ人が、泳いでいる子供たちを海の底に引っ張ってあの世に連れて行くと言って、子供たちを怖がらせる。子供たちはそれを信じているわけではないが、お盆を過ぎた海はどこか不気味である。

 夏休みもそろそろ終わりである。夏休みの前から海につかっていた子供たちは、海にも飽きた頃である。そろそろ手を付けなかった夏休みの宿題にも取り掛からなければならない。かと言って、急に勉強のスイッチが入る子供などいるわけがなかった。毎日少し気がもめながら、友達とだらだら過ごすだけだ。余談だが、自己嫌悪はこうして形成されていく。

 9月に入ると学校が始まったので、海に子供の姿はない。海の家も撤収された。静かな海が戻った。

 この湾の周囲に住む人々の間に、砂浜に一人の浮浪者が住み着いている、という話が交わされるようになった。砂浜の一角に波で削られた浅い洞穴があり、そこにその男が住み着いたというのだ。漁師の一人が船で帰ってくる時に、遠くからその洞穴を見ると、男の姿は見られなかったが、穴の周囲には壊れたテレビやテーブルなどが散在していたそうだ。そこには明らかに人が住んでいる気配があった。

 漁師たちはどうしたものかと話し合うのだが、ここらでかつて不審者が出たこともなければ、犯罪が起こったこともないので、どう対処すればいいかわからず、結論はでなかった。

 一人の少年が好奇心から恐る恐る洞窟に近づいた。小学校4年生の少年は漁師の息子で、父はその子が物心つく前に海の事故で亡くなった、と母から聞かされていた。母は、義理の祖父母と漁をして生計を立てていた。祖父は腕のいい漁師で、漁師仲間から一目置かれていた。

 洞窟から浮浪者が出てきた。小さな目はまん丸く、人懐っこい笑顔を少年に浮かべた。かれを見ると少年は一歩後ずさったが、それでもかれに笑みを返した。浮浪者は小柄でやせた男だったが、腹筋は割れ、漁師に負けないほど日焼けをしていた。

 「僕の名前は?」と浮浪者が聞いてくるので、少年は小さな声で「ケンタ」と答えた。浮浪者から「良い名前だね」と言われた。少年は名前を褒められた記憶がないので、少しうれしくなった。「おじさんの名前は?」と聞くと、少しの間があって「クラゲ」という答えが返ってきた。「あの海に浮いているクラゲと同じなの? 嘘でしょう?」と少年は言ったが、浮浪者は唇に笑みを浮かべるだけだった。

 「ケンタ君、煎餅を食べる?」と聞かれたので、「うん」と答えた。一枚、一枚が袋に包まれた煎餅がクラゲの太い腕から差し出された。ケンタとクラゲは二人で海を見ながら煎餅を噛んだ。煎餅の割れる気持ちいい音が辺りに響いた。

 「おじさん、どこから来たの?」

 「東京からだよ」

 「電車に乗って?」

 「歩いて」

 「へえ、東京から歩いて来れるんだ。遠いんでしょ」

 「うん、遠いよ。でも、色々なところを見ながらだから、楽しいよ」

 「どうして、下田に来たの?」

 「海を見たくなったんだ。夏だものね」

 「夏は終わっちゃったよ」

 「そうだね。少し来るのが遅かったね。でも、きれいな海だね」

 「うん」


 少年は、学校から家に帰るとランドセルを置いて、クラゲのところに行くのが日課になった。

 「ねえ、ねえ。おじさんはホームレスなの? みんながホームレスだって言ってんだ」

 「うん、家がないからホームレスなんだろうね」

 「家がなくてさびしくないの」

 「寂しくないよ。こうしていろいろなところを住み家にできるからね」

 「おじさん、泳げるの?」

 「ああ、泳げるよ。一緒に泳ぐかい」

 「うん」

 ケンタは裸になり、クラゲは上半身裸で半ズボンのままで泳ぎ出した。ケンタは漁師の子供なのにあまり泳ぎが得意でなかった。足が立つところで、数メートル顔をつけてパチャパチャするだけだった。クラゲはケンタの両手を持って砂浜を歩きながらケンタが泳げるように練習に付き合った。


 次回クラゲのところに行った時、強い日が差して夏が戻ってきたようだった。クラゲはどこで手に入れたのか子供用の浮袋を持っていた。それを膨らませてケンタに渡した。クラゲは、水中眼鏡を持っていた。そして二人で近くの岩場まで歩いて行き、ケンタは浮袋の中に入って浮いている間、クラゲは水中眼鏡をつけて潜り、サザエをたくさん採って上がってきた。二人は洞窟に戻り、サザエを焼いて食べた。どこで手に入れたのか醤油があり、焼けてきたころに醤油をさした。貝殻から溢れてまきに落ちる醤油汁からいい匂いが立ち上った。二人は割りばしを刺して上手に食べた。

 食べ終わるとクラゲが紅茶を飲もうと言って、潰れた薬缶でお湯を沸かし、紅茶の葉を茶漉しに入れて、湯呑茶碗に濃い紅茶をいれてくれた。そしてまな板の上でレモンを厚めに切って入れた。ケンタはこれまでレモンティというものを飲んだことがなかったが、東京は街全体がこんないい香りのするところなんだろうな、と想像した。


 雨の日に洞窟を訪れると、クラゲはラジオカセットを前に何やら考えているようだった。ケンタが何をしているのかと聞くと、ラジオカセットを分解してその仕組みを勉強しようと思っている、という返事が返ってきた。「勉強? 勉強は学校でするものじゃないの?」と聞くと、クラゲは「勉強は一生するものだよ」と答えた。「電器屋さんになるの?」と聞くと、「ならないよ」という返事が返ってきた。「知らないことがわかれば楽しいじゃないか」とクラゲは言った。「それじゃあ、学校の先生に教えてもらえば早いよ」とケンタは言ったが、クラゲは「自分で考えることが大事なんだよ」と言った。クラゲが「十字のドライバーがないので中が見られない」というので、「家にあるから、今からドライバーを取ってくるね」と言って、家に戻った。寝転んでテレビを見ていたおじいさんに「十字ドライバーはどこにあるの?」って尋ねると、「ほら、そこの工具箱の中だ。何するんだ」と聞いてくるので「学校の工作の時間に使うんだ」と答えた。おじいさんは何かを言おうとしたが、何も言わずにテレビを見つづけた。

 クラゲは上手にドライバーを使い、ラジオカセットのケースを外していった。中が露わになって、配線が見えた。それをクラゲはしばらく見つめ、それから部屋の片隅から縮れた広告紙を取り、ちびた鉛筆でラジオカセットの中身のスケッチを始めた。ケンタは真剣な顔のクラゲに話しかけられずにいて、しばらくクラゲがスケッチをし考え込んでいるのを見学し、それから黙って帰宅していった。


 次の日に洞窟に行くと、ラジオカセットは元通りになっていた。

 「ラジオカセットのことわかったの?」と聞くと、クラゲはにっこりと笑って「難しくって、何もわからなかったよ」と答えた。そこにはたくさんのスケッチと、たくさんの走り書きがあった。

「こんど図書館に行って調べてみるよ。どこに図書館はあるのかな?」

「小学校の図書室は知っているけど、町の図書館の場所は知らないや。お母さんに聞いてきてあげようか」

「大丈夫。町の人に聞いてみるから」

 「クラゲさんは子供がいるの?」

 「ああ、いるよ」

 「東京に?」

 「いいや。もっと北の山形にいるんだ」

 「奥さんも山形にいるの?」

 「そうだよ」

 「どうして一緒に住まないの」

 「どうしてだろうね。ずっと昔のことだから忘れちゃった」

 「寂しくないの」

 「時々は寂しいよ」

 「これからどうするの?」

 「寒くなったら、もっと南へ行くんだよ」

 「石廊崎の方?」

 「もっともっと南だよ」

 「大阪や京都の方」

 「もっと南に行きたいな」

 「九州?」

 「ケンタ君はよく知ってるね。どうせならその先の沖縄まで行ってみたいね」

 「沖縄って島なんでしょ。鹿児島からどうして行くの? 遠いんでしょ」

 「泳いでいくかな。無理か。やっぱり船だね」

 「うちの船で沖縄まで行けるかな? おじさんと一緒に沖縄に行ってみたいな」

 「学校に行けなくなるよ」

 「学校はきらいだもの」

 「ははは、きらいか。おじさんと同じだ。おじさんも学校が嫌いだった」

 「学校嫌いだと、おじさんみたいになっちゃうの」

 「えっ、どうして?」

 「学校の先生が言っていたんだ。勉強しなかったら、おじさんみたいにホームレスになっちゃうんだって」

 「そうかもしれないね。ケンタ君は勉強をしてホームレスにならないようにね」

 「ホームレスはどこにでも自由に行けるんでしょ。ぼくも自由にどこへでも行ってみたいよ」

 「大人になったら好きにしたらいいさ」


 次の日、ケンタはおじいさんと連れ立って洞窟のところにやってきた。

「クラゲさんですか? 孫のケンタがいつもお世話になっているようで」

「こちらこそケンタ君にはいろいろとお世話になっています」

「いきなりですが、明日の朝、うちの漁を手伝ってもらえんかと思うて」

「漁の経験はないんですが」

「いや、簡単なもんだから。この湾の中で船を出して網で漁をするだけだから。ばあさんがぎっくり腰になって人の手が足りんようになって。みんな忙しいようで、誰も手伝ってくれんのよ。あんた泳げますか」

「おじちゃんは泳ぐの得意だよ。それに潜ることもできるんだ」

「そりゃあ、助かる。いや、泳ぐ必要はないんだけど、万が一船から落ちた時には少しは泳げないと溺れてしまうからな。泳げるに越したことはないから。それでやってもらえるかな」

「たいしてお役に立てないと思いますが、何時頃からですか」

「朝が開ける頃から3時間くらいお願いしたいんだけど」

「私でよかったらお手伝いさせていただきます」

「こりゃあ、ありがたいね」

「おじちゃん、明日の朝ね」

「ケンタは起きないだろうに」

「明日は起きるよ。もし、起きなかったら起こしてね。ぼくも一緒に船に乗ってもいいでしょ」

「一度も船に乗りたいなんていったことがないのに。朝起きたら船に乗せてやるよ」

「今晩は早く寝るからね。お風呂に早く入るよ。おじさん、明日ね」


 おじいさんと母親とケンタが船まで来ると、ほのかに明るくなった砂浜にクラゲは立っていた。ケンタが走りよるとクラゲは「おはよう」と言った。クラゲはおじいさんに従って網を一輪車に乗せ、車輪に足を取られながら、船まで運んだ。船と言っても4人が乗ったらいっぱいになる程度の小さな漁船だった。湾内で作業するには小回りが利く適度なサイズだった。

 船に乗る前に母親が「朝ごはん、まだでしょ。わたしたちはすませてきたから」と不愛想に言って、むすびの入った包みと水筒をクラゲに差し出した。おじいさんが「明るくなるにはあと10分くらいあるから、それまでに食べろ」と言ってくれた。クラゲは浜に出てくる前に、コンビニのゴミ箱に捨てられていたむすびを食べていたが、出されたむすびを黙って食べた。それはコンビニの結びよりもずっと大きかったし、握りも硬く、なによりもまだ温かった。家庭のぬくもりに触れたのは、いつ以来だろう。クラゲはこのぬくもりの磁力を感じ、これにひきつけられてなるものか、と軽い反発を抱いた。

 「じゃあ、そろそろ出航するか」

 朝日は昇っていないが、水平線は明るさを増していた。ケンタが船に乗り、3人で船を押して砂浜から出航した。湾内でおじいさんの指示で浮の着いた網を母親とクラゲでどんどん落としていき、おじいさんが船を捜査して湾の中に大きな円を描いていった。それからおじいさんの指示でロープにくくられた大きな石を船から遠くに投げ入れ、そのロープを手繰り寄せて、その石を再び遠くに投げ捨てた。網の間から逃げる魚を、投げた音によって網の方に追う漁だった。この単純な方法に、クラゲは楽しさを覚え、大声で笑い出しそうになった。この科学技術の進んだ日本で、数千年前からずっと行われてきたのではないかと思われる原始的な漁が、ただの伝統儀式としてでなく、生活に根差した仕事として残っていることが、単純に嬉しかったのだ。縄文人の家族も丸木舟でこんな漁をしていたのだろうか? 網はあったのだろうか? この湾の景色は当時と何も変わらないのだろうか? クラゲはそんなことを考えながら、石を海に放り投げた。

 石は何度も投げられては引き寄せられ、網の直径はどんどん小さくなっていった。

 網を上げていくと、アジやサバ、カマス、タカベ、食べられないフグやネコザメなどの様々な魚が入っていた。クラゲが予想していたよりも大漁だったが、この家族の表情を見ると、いつもよりも大漁なことがわかった。場所を替えて、3回追っ払い漁をおこなうと、すっかり朝が開けていた、おじいさんの一声で漁を止めた。

 「ほら」、と言っておじいさんがクラゲにアジとサバ、それにタカベをビニール袋に溢れるほど入れてくれた。そして胸ポケットからくしゃくしゃの封筒を取り出し、クラゲに差し出した。クラゲが封筒を開けると一万円札が入っていた。「お金はいりません。魚だけで十分です」と、おじいさんに封筒を返したが、おじいさんはそれを押し返して、「明日と明後日も手伝ってくれ」と言った。クラゲは「はい」と答えた。おじいさんは網を物干し竿に干し始めた。クラゲは黙ってそれを手伝った。

 クラゲは洞窟に帰って、アジを器用に三枚おろしにし、刺身にして食べた。サバは焼いて食べた。そして寝た。

 目が覚めて浜に出ると、おじいさんが夕方の日の下で、網を修繕していた。かれは近寄り、網の修復方法を教わり、網を修復していった。そうした日々を3日間続けた。

 4日目に台風が来て、他の漁師の家族と一緒に何艘もの船を安全なところまで運ぶのを手伝った。おじいさんが、今晩は自分の家に泊るようにと言ってくれ、ケンタもそれを聞いてはしゃいだが、クラゲはかたくなに断った。

 クラゲは洞窟の荷物を安全なところに移動し、裏山にある小さな祠に避難した。台風はこれまで何度も経験したことがあるが、日ごろ穏やかな海が激流のような激しさで押し寄せてくる波を山の上から見て、自分が怯えているのがわかった。

 翌朝、板戸の隙間から漏れ来る光で目を覚ました。近くで鳥のさえずりが聞こえた。扉を開いて外に出ると、昨日とは打って変わった晴天だった。あれだけ激しかった波が、嘘のように静まっていた。漁師たちは船を砂浜に下していた。クラゲはかれらの手伝いをした。砂浜には貝殻や海藻、魚が打ちあがっていた。漁師はそれらを拾い集め、砂浜の隅にごみとして積み上げた。

 おじいさんはクラゲに、明後日エビ網を仕掛けるから手伝ってくれと頼んだ。徐々に仕事を教えるから覚えたらいい、と独り言のように言った。遠くで、母親とケンタが手を振っていた。

 風が吹いた。それは夏の風と違って、爽やかな秋風だった。クラゲは上半身裸になって、海に入り、沖の方までクロールで泳いでいった。誰もいない静かな海に、彼の泳いだまっすぐな軌跡が残った。海は澄んで、海底までが見えるほどの透明度だった。

 翌朝、船に一本の十字ドライバーが残されていた。そしてその下に、「ありがとうございました クラゲ」、と書かれたメモが置かれていた。それからこの辺りでクラゲを見たものは誰もいない。クラゲは秋がきて、もっと暖かいところに移動したのだろう。ケンタはそう思った。

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