82.聳える平野-16
今日と言うこの日は、記念日として制定しても良い。そんな考えが浮かぶほどにはプニは浮かれていた。
なにせ、自身の主人が自らの想いを酌み、その生涯を共にすると誓ってくれた日なのだ。この日を記念日にせずば、どの日をして良いかが分からない。
「ふふ、ふふふ…」
「どうしたんだ。随分と機嫌が良いな」
そう何気なく主人が尋ねるが、それも当然だろう。この喜びは、嘗てない高揚は、プニ自身をして、推し量れないのだ。まるで胸が膨らんで今にも爆発しそうな程だ。まあ、現実は相も変わらず平野が如き平穏さだが、いずれ大きく聳えるだろうと言う予兆は、ある。なにせあれから毎日大豆は摂取しているし、トーフなる食材もあると調べがついている。
「はい、それはもう!」
当然と言えば当然だ。
愛していると、大好きだと、世界で一番大切だと。
言葉の限りを尽くして、愛を紡いでくれた。最愛の人から、最も愛していると抱きしめられた。これで機嫌がよくならないのであれば、そんな輩は精神を病んでいるか、そもそも感情を持ち合わせてなどいないのだ。
嘗ての自分はどうだっただろうかと問われれば返す言葉も無いが、今の己は自我と愛に目覚めたと断言できる。何かに縛られていたあの頃とは根本からが違う。
「うふ、ふふふ」
いけない。喜びが抑えきれない。常に冷静沈着であれ、と創造された筈なのに。これでは主人を落胆させてしまう。
そうプニは己を戒めると、大きく息を吸い、呼吸を整える。
「…ふう。それで、今日の予定は如何いたしますか?」
どうにも口馴染む台詞を吐く。かつては幾度も告げたような気もするが、ここしばらくは口にしていなかった。
「まあ、取り敢えずはあの騎士様と合流だな」
あの勘違い女か、とプニは鼻白む。どうやら分不相応にも、主人に対して懸想しているようで、その態度を隠そうともしない売女か端女の様な輩だが、こうして勝敗が喫して仕舞った今となれば、嫌うというよりも憐憫の眼差しを向けるべき、可哀想な存在だ。
よくよく考えてみれば、己の主人は殊更に魅力的で、そこいらの阿婆擦れが惹かれてしまうのも無理は無いのだ。叶わぬ恋、と言うのは古今も洋の東西も問わず、よくある話だ。その内の一つを偶々、目の当たりにしたに過ぎない。こう言ってしまうと勝者故の驕りかもしれないが、願わくば早々に新しい恋を見つけ、この程度の挫折に立ち止まらずに前進してほしいものだ。
そうコーザを憐れむと、殊更に平穏を装う。
「かしこまりました。早速、出発しましょう!」
浮付く心を抑えきれず、語尾にどうにも力が籠ってしまうが、ギアは気付かず、否。意にも介さず答える。
「ああ、じゃあ行くか。あと、出来れば今日は中央広場で商売もする心算だ。その時は手伝ってくれるか?」
左手の人差し指で頬を掻き、気まずそうにそう告げるギアの横顔に得も言われぬ感情がプニの胸を穿つ。
何故、躊躇うのかと。只、命令してほしいと。貴方の役に立ちたいのだと。
「勿論です、ダ、主人!」
今は、まあまだ早い。
世間的に自身が年若いとプニは理解している。愛する人の子を為すという事に否やは無いが、その行為自体に思い入れは無いし、もうしばらく、今暫くは二人の時間というものを楽しみたい。この旅路がどれ程続くかは分からないが、そういった事柄は拠点に戻ってからでも充分に時間がある。
なにせ、拠点に辿り着いてしまえば、もう戻れはしないのだ。
それまでの道中と言うのは、かけがえのない時間でもある。プニは、主人の従者は、そう、貴方の妻は。この素晴らしくも儚い時間を満喫する気で一杯だ。
そんな胸の内を噫にも出さず、朗らかに微笑むプニの様子に、ギアは愛する娘と心を通わせた喜びに涙を堪えていた。今まで、伝えた心算になっていた気持ちを、愛する娘に愛しているのだという率直な気持ちを、正しく伝えられたことへの達成感と、それを一欠けらの齟齬も無く受け入れてくれた娘の喜び様に感極まってしまったのだ。
しかし、それを露わにして大声で泣くというのは如何にも気まずいし、威厳ある父親としての沽券に関わる。
「あ、ああ…。グスッ…今回は何が売れるかなあ。プニは、何がいいと思う?」
「そうですねえ…。蜂蜜と砂糖楓蜜は当然として、何か金物があれば村の人たちにウケも良いかと」
そう言われれば、鍋は随分と好評を得た。そう言えば、あの山小人は農具を求めていたし、農村であればそれも当然だろう。鍬や鋤といった用意は無いが、鎌や剪定にも使えるような大鋏ならば充分な在庫がある。
「金物かあ。確かに、悪くねえな。道すがら、何かいい物でも探してみるか」
じゃあ行くか、と娘を促すと、おずおずと手を差し伸べて弱々しくも儚げに微笑みを返した。
「あの、主人。出来れば、手を繋いでもよろしいでしょうか」
父娘とは言っても、何処かよそよそしかった愛娘が、可愛らしい我儘を告げる。離れていた時間が寂しかったのだろう。ひょっとしたら、サービス終了後の放置されていたあの頃を思い出したのかもしれない。
こうして少しずつ少しずつ、距離を縮め明け透けを無くし、本当の家族に、親子となっていくのだ。こんな愛おしく愛らしい、娘の精一杯の主張に答えないなど、正しく父親の所業ではない。
「ああ、勿論だよ。はぐれちゃあいけないしな、一緒に行こう」
一緒に行こう。
そんな何気ない言葉が、プニの頭の中を木魂する。一緒に行こう、とはそう、生涯を共に歩もう。その手をもう二度と話さない。愛しているよハニー。
そう告げられたプニは、主人からの、自身への愛を確信し、核心へと至る。
将来は、何人家族が良いのかを聞いていない。今はまだ性急に過ぎるだろうが、いずれ聞かなければならないのだという事に。まあ今はさておき、このひと時、二人きりという瞬間を大切にすべきだろう。
「はい!一緒に行きましょう!」
勿論私も、この手を放す気はありませんと言外に告げる。比喩ではあるが本心でもある。
そんな娘の心をしてか知らずか――勿論知らないのだが――ギアの思考は何を売れば良いかと言う事で占められる。
あのいかつい髭の爺さん、何でも山小人なる種族だという農夫は、何かしらの農具を求めているということだ。確かにこのオーロックの村は小麦や燕麦が主力だという話だし、農具は悪くない。
「金物、農具で良い物はあるかなあ」
「そう言えば、鎌は作っていましたよね?」
そうプニから言われ、自身が作りためていた物を思い返す。
嘗て生産職を極めんとしていた頃、投擲武器としては性能の低いが使い勝手の良い、使い捨ての鎌を幾つか、というか随分な量を生産して保存していたという記憶がある。しっかりと鍛えた鋼鉄製で、武器として装備した際には切れ味が減らず、どれだけ硬い相手にも必ずダメージを与えるという代物だ。
ただ、作成できるレベルが40以降の割には、与えるダメージが3~5ということもあり、実際に装備したことは無い。生産職の熟練度を上げる為だけに作ったものでしかなく、その効果と言うのはゲーム内での解釈説明文以上の事を知らない。
ただただ作っては売るか倉庫に放り込むだけのゴミアイテムでしかなかった。武器としてみれば勿論変わらずゴミの範疇だがしかしこの世界に於いて、本当に切れ味が下がらないのであれば殊更に有能な農具となる筈だ。
「プニの言う通り、そういや鎌はあったな。確かにあれなら売れるかもしれん」
そう言いながらギアは思う。鍬や鋤と言った農具は、己の愛用する通販サイト「ARIZEN」から現代技術の粋を活かしたものが安く買えるのだ。どうしてもと要望があればソレを卸せば良い。
「鍬や鋤には、俺に少しばかりアテがある。まあ、例の俺固有の習得技術でな。あまり数は揃えられないが、いいとこを見繕うからソレで我慢してもらうか」
「…成程。そうですね。きっと喜ばれる筈です。ソレで行きましょう」
そう娘からの同意を得られれば、調子に乗った父親なぞ一層有頂天になる。
オーロックの村での商売もまた成功するし、これからの旅路もきっと上手く行く。静かな平野は続き、聳える山も足止める谷もその悉くが、更地が如く均される。そうでなくてはならない。
「プニがそう言うんなら間違いないな。よっしゃ、此処等でまた親父らしいトコ見せるかねえ」
「ふふ。頼りにしています、主人」
愛する娘に「頼りにしている」とまで言われて、張り切らない父親はいない。
そう気合を入れなおすと「任せとけ」と一言後にタブレットを忙しなく操作し、「ARIZEN」からの仕入れに眼を皿にする。娘の期待を裏切るなぞ、父親の所業ではない。
そんなギアの様子を見ながら、プニは思う。
金銭に殊更執着はないし、無いなら無いで構わない。最悪、自分が稼いでも良いし、その自信はある。
しかし、家庭を持つ男と言うのは、家族を支えるために金を稼ぎ、家族を守るというのが一種の象徴であるという事は知識として知り及んでいる。つまりは、社会的な、縄張りの主張のようなものだろう。家族として協力する気概も準備もあるが、この世界の社会的な制約と言うものもある。
主君から、主人からそう命令され…乞われるまでは、従順な従者で、愛すべき細君であれば良い。そうしてこそ、己の本領は発揮されるのだし、正しき道へと導かれるのだから。
これから確実に訪れるであろう確かな、それでいて幸せな未来。コーザという小さな「段差」なぞ、プニの頭の中には、最早存在していなかった。




