78.聳える平野-12
一階の廊下の奥、突き当たった扉は厨房へと繋がり、その隣の部屋はこの店の主、アシビの居室となっている。開け放たれた扉の奥からは、ぶつぶつと念仏でも唱えるような、焦燥にかられた囁くような声がギアの耳に届いた。
「て、天におわ、おわしします日双月のわ、我らが三柱。畏み畏みお頼みも、申し上げますどどうかおい、お怒りを…」
普段の気丈で蓮っ葉で豪放磊落とした物とは似ても似つかないが、それは紛れもなくアシビの声だ。
年老いたとは言え女性の個室に、無断で押し入る事に僅かばかりの躊躇いが無いではなかったが、今は緊急事態。叱られたら謝ろうと踏ん切りを付け、部屋の中へと飛び込む。
「おいアシビ無事か?」
「お怪我はありませんか?」
ギアの言葉に追従するように、プニも安否を尋ねる。それなりに世話になっている。なにせ此方の世界では最も言葉を交わした仲だ、それなりに思うところもあるのだろうと想像がついた。
「あ、アンタ達!ぶ無事だったんだね!さ、さあ逃げ、逃げ、何処、に逃げ…いや祈るよ!一緒に天にお祈りをさ、捧…」
沈着冷静、傍若無人。遥か昔から年寄りをやっていたような貫禄ある風体のアシビだが、こうまで取り乱すとは予想だにしていなかった。背が縮み腰を曲げ、年相応に小柄なアシビは、ギアの眼には先刻よりも幾分小さく見える。まるで随分と前に先立たれた父や母の様に。
「大丈夫、もう大丈夫だよアシビ」
背中をさすり、肩に手を添え。
言い聞かすよう、諭すよう、あやす様に、ゆっくりと声を掛ける。殊更に低く優しく、大丈夫、大丈夫だと何度も。終ぞ親父にはしてやれなかったな、等と思いながら。
「だ、大丈夫…?」
しばらくそうしていると、漸く届いたのか落ち着いたのか、アシビからの返事があった。両の眼からは涙が零れてはいるが、どうやら止まりそうな気配だ。一際ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ああ、縦揺れも横揺れも収まったからな。恐らくだが、もう揺れることは無いよ」
「ほ、本当かい?もう、揺れないかい?」
「ああ、本当さ。俺の故郷じゃあこのくらいの揺れはしょっちゅうだったからな。これ位なら慣れたもんだよ」
「あ、ああ…よか、良かった。良かった…よっか…」
安堵からさめざめと涙を零す様も見ていて痛々しいが、どうにか不安は取り除くことが出来ただろう。
「ほらほら、もう泣き止んでくれよアシビ。村で一番鼻っ柱の強いアンタがいつまでも泣いていちゃあ、村の皆の事が心配で仕様がなくなっちまうよ」
「ば、莫迦をお言いでないよ!誰の鼻っ柱が強いだって!?村一番の乙女を捕まえておいて、言うに事を欠いて出た台詞がそれかい!」
「いや乙女って…アシビ、それ何十年前の話だよ」
「ハン!分かっちゃあいないね、これだから餓鬼は困るんだ。いいかい、よおっくお聞き!」
泣いた鴉がもう怒った、という言葉は無いが、何とはなしにギアの頭を掠めた。腹を立てる程には立て直したのだと思えば、悪い事ではない。
「…拝聴しましょう」
「女はね、幾つだろうが乙女だよ!覚えておきな!」
何処かで――それも随分と前に感じるが――同じような事を言われた経験が一気に蘇る。具体的には、嘗ての妻と、嘗ての恋人から。
当時は何を言っているのかが今一つ理解できなかったが、今では一つだけわかる事がある。この主張に対して反駁してはいけないということだ。
万一ソレをしてしまっては、女性からの扱いと評価が、つまりは世間からの物が一段か二段は下がってしまう。
女性を怒らせてはならない。絶対であり普遍であり不変の真理だ。それを男が理解するには、悲しいかな幾度かの失敗を要するのが世の常でもある。そしてギアは充分に失敗を重ねてきた。
「全くその通りだぞ、ギアよ」
そう背後から追撃するのは、コーザだった。
足を滑らせ、階段から落ちそうになったのが余程堪えたのか先程からポカンと口を小さく開け惚けていた様子だったが、どうやら立ち直ったらしい。あの表情は阿保っぽくて可愛らしいと思わないでもなかったが、やはりこの騎士様にはきりりとした表情の方が似合うようだ。
「この私とて、それなりに長く騎士として身を立ててはいるが、まだまだ乙女心を忘れてなどいないぞ。そこら辺を重々承知してなさ…おけ」
「はあ…まあ…」
ギアの眼からすればコーザは充分に年若く、二十代に見える。前半か中盤かは判断がつかないが、後半という事はないだろう。要はまだまだ若く、幼いのだ。自身の食指が動かぬほどには。
「なんだ、その気のない返事は。まさか薹が立っているとでもいいたいのかし…ではあるまいな」
眼に力を込めてその形は弧を描き、口角を左右に押し上げているのは、表現としては笑みだがその実態は威嚇だろう。否定するのなら判っているだろうな、という牽制だ。
「いやあ、私からすりゃあコーザ様は随分と若くお美しいんで、普通に乙女として扱っていた心算なんで…」
「よね!!そうよね!まだこれからよね!!」
いや貴女の年齢を知らないのでそれは分かりませんとは、思ってはいても口からは出さない。敢えて空気を読まないことを特技にはしていれども、今この場の空気を読まないなぞという豪胆さも豪気さも大胆さも、基本小心者のギアは持ち合わせていないのだ。
「…ん、んんっ、コホン」
取り繕うように咳ばらいを重ねると、コーザが己の主張を展開し始めた。
「古来より女性は花に例えられる。そしてこうとも言うな、『花の命は短し』と」
「え、ええ。聞いたこと、ありますねえ」
適当に、だが適切に相槌を打つ。否定してはいけない。こういった場合、肯定以外の正道など無いのだ。
「だが、大昔なら兎も角、現在では園芸技術も発達し、化粧の類も発展している。美容魔術もひと頃より随分と進歩してきた。つまり最早この言葉は間違っているのだ。私は声を大にして言おう、『花の命は結構長い』と!」
そんなに主張することだろうかと溜息をこっそりと零すが、まあコーザからすれば重要なことなのだろう。ギア自身の嗜好からすれば己の歳に近しい辺り、三十路前後が丁度良いのだが、それはあくまで自分の好みだ。この世界の男性からの価値観からは離れている可能性は充分ある。例えば若ければ若い程良いとか、この歳からこの歳の間までが最上、という考えは、元の世界にだって蔓延っていたのだ。
そう言った衆目にさらされてきたのであれば、強い主張も致し方ないのだろう。
隣でパチパチと柏手を打つアシビには「あんたそんな性格だっけ?」と問いただしたいが、言わぬが花、というやつだとどうにか思いとどまる。
「コーザ様の言は誠ごもっともではあるのですが、取り敢えず、何か壊れていないか被害を確認しませんと…」
「む、そうね…だな。アシビよ、怪我はないか?」
「ん?アタシかい?…そうだね、どうやら何処も痛まないし、ピンピンしているよ」
これも日頃から日双月に祈りを欠かしていないからさね、と鼻で笑うアシビの様子はすっかりと何時もの元気と不遜さを取り戻したようで、ふふんと鼻を鳴らす様も、なんとも頼もしい。
「とは言ってもこう暗くっちゃあ、確認なんてしようがないよ。ギア、あんた商人なんだろう。角灯の一つも持ってないのかい?」
そう言及され、はたと思い至る。ギアもプニも、身に着けた習得技術によりそれなりに夜目が利く。一切の光が射さぬ洞窟やらダンジョンの奥地や雲厚い曇天の深夜ならば兎も角、星も月も輝く夜なら特に何を厭うという事もない。
「ああ、確かにこう暗くちゃ話にならないよな。ちょっと待ってくれ『光源』」
そう唱えると一拍を置いてギアの手のひらから小さな光の玉が現れ、辺りを明るく照らした。次第にフワフワと高く昇ると、ギアの頭の少し上辺りに留まる。この魔法はレベル200の上限を開放された時に全員に配布されたもので、消費するスタミナは一切なく、長時間効果を発揮する非常に有用なものだ。
「旅をもっと便利にパック」の一部で、確かに便利な事この上ない。それまで使用していた灯り取りの手段は角灯なら油を、習得技術ならスタミナと発動までの時間を消費する。
確かに有用で便利なのは間違いないが、それらが実装されたのは『URMA KARMA』では末期も末期、サービス終了も押し迫った時期だった。
「なんで今更」という感覚もあったし、角灯の方が「冒険している」感が強いと余り支持を得られなかった魔法ではあるが、今この場なら使い方次第だろう。
「あんた、こんな魔法を使えたんだねえ。流石はプニちゃんの父親だ」
その順番は逆ではなかろうか。
ギアは心の奥底でひっそりと抗議の声を上げた。己の娘だからこそ、これ程までに可愛く優秀なのだと声にならない声で主張する。確かに血が繋がっているわけではないが、それは些細な事だ。
「へえ、光源魔法、か…多彩だな」
「珍しいんですか?」
ポツリと呟くコーザに、釣られたように尋ねてみる。
「いや、珍しくはない…珍しくはないが、普通、生活魔法の中でも、この魔法が使えれば食うには困らないからな」
「んーっと、よくは分からないんですが、そんなもんですかねえ」
「そんなものだな、光源魔法が使えれば、少なくとも都市の『光源業』位には就けるからな。最低限、公共機関のお抱えとして安定した生活を送れる。腕のいい者が大きな街にでもいけば、それなりに高給取りだとも聞くぞ」
ナーファンの街にも、結構な数が居たはずだと言われてもギアには思い至る事が無い。曖昧な笑みと共に首を傾げる他に無かった。
しかし言われてみれば確かに、ナーファンには結構な数の街灯があったし、それを一つ一つ点けて回るのであれば一人二人では足りないだろう。
「ったく、旅に出ておいて見聞を広めないのは間抜けのすることだよ」
アシビの舌打ちが全く耳に痛い。
情報収集が本道とはいったい何だったのか。これより先は些細なことも見逃してはならぬと己を叱責する。
「あんまりいじめねえでくれよ…それより、そうだな、食堂でも見に行こう。酒樽でも割れてたら一大事だよ」
「別にアンタの酒じゃあないだろうに」
「いずれ俺の腹に入るんなら俺の酒だよ」
そう笑いながら茶化すギアに、三者三様の白い眼が向けられる。
背中に汗を掻きながら、ギアは押し迫る圧力を自身の胆力でもって無視し、出口へと歩を進めた。眼には見えないが確かに聳える、大きな壁を背後に感じ取りながら。




