77.聳える平野-11
市井に広く知られてはいないが、「地母神の怒り」という言葉がある。
ぐらぐら、ゆらゆら、みしみし。
聞いたことのない不吉な響きが辺りを支配する。
今この場において最も高度な教育を受け、一般の、下々の者には得難い教養があると理解しているコーザの脳裏には、即座に思い至るものがあった。これがそうか、と。心地良いふわふわと浮足立つような酔いが一気に醒めてしまった。
ざわざわ、ガタガタ、ゆさゆさ。
どれ程揺れているのか分からないが、未だ止む気配もない。
この王国にて歴史書に幾度かあがるソレは、畏怖と嘆きに彩られている。神という物は時に激しく、時には理不尽に愚かな人間に対し、反省と努力を促すべく、その偉大さでもって大いなる力と怒りを露わにするのだと。
その「地母神の怒り」は時にはこの場より遥か北、ヤーセ山から憤怒の炎をまき散らし、何日にも渡って晴れぬ漆黒の雲で陽を遮る。
或いは、命の恵みである筈の河川を氾濫させ、その恩恵を享受していた一切合切を奪い、流し去ってしまう。そして時には、その怒りでもって大地を激しく揺るがし、人々を這いつくばらせてしまう。…そう、今回の様に。
どの歴史家も、何時の時代の賢者も口を揃えてこう宣う。愚かな人間への警告だ、と。
驕った人類に対する神と、世界よりの戒めなのだと。
まるで巨人が揺さぶっているかのように激しく建物が揺れ、到底立ってなどいられず、思わず床に手と膝を付ける。それでも足りず、いっそ身を投げ出したいと思う程だ。いっそのこと頭を抱えて丸まってしまいたい。
怖い。
それがコーザの率直な感想だった。
大地が、建物が姿勢を保てぬ程に揺れ、立つこともままならないなど当然初めての経験である。荒れ地で馬車に揺すられるのとは訳が違う。不快ではない、純粋な恐怖。この後どうなってしまうのだろう。
「…うぁ。うう、うぅ…」
ともすれば大声で叫びだしてしまいそうな己の口を騎士の矜持でもって必死に押し殺す。平民の前で貴族たる我が身が取り乱すなど、主君に顔向けできなくなる程の恥だ。しかしそれでも、小さな呻きは抑えられなかった。
やがて時間が経つにつれ少しずつ小さくなってはいくが未だに収まらない揺れに、物理的ではなく恐怖から立ち上がる事が敵わない。
「…ふっ、ふっ。…ふっ」
胃が震える。腕が戦慄く。足が竦む。
何が常在戦場だ、鬼神の生まれ変わりだ。たかが建物が揺れた程度でこれ程取り乱すなど、騎士としてあるまじき振舞いだ。そう己を叱咤し、お前は守られる側ではない、守る側なのだと自身を激励する。だが、心の奥底に潜む恐怖は、身体の芯に残る不安は、そう簡単には拭えない。四面を敵兵に囲まれた時にもうっかり鷲獅子に出くわした時でも、これ程の恐怖を感じたことは無かった。
それでもどうにか息を整え、辺りを見回す。
そうだ。己は守る側だ。そしてこの場には守られる側、行商人とその幼い娘であるプニがいるのだ。誰よりも気を強く保たねば――。
「いやあ。思ったよりでかかったなあ、今の地震」
「これが地震、なのですね。初めての経験です」
二人並んでベッドに腰かけ、気負った様子も無くそう語り合う行商人の親子に、余りの光景にコーザはその眼を見開いた。呆けた様にあんぐりと開いた口を閉じる余裕すらない。
「…な、な…。な…?」
何故と言いたかったのか、何がと言いたかったのか。コーザは絶句する事しか出来ないでいた。先程迄の不安が恐怖からのものであれば、今感じている混乱は理解できない物を目の当たりにしたが故だ。
何故。
そう、何故これ程までに目の前の二人は平然としていられるのか。胆力の差か、経験の違いなのか。捕物も戦争も、後ろ暗い事ですら慣れてしまったコーザですら心を乱したというのに。
煩悶し、反芻し、それでも判断がつかない。
そう心を千々に散らしていると、ふと揺れが収まっている事に気が付いた。どうにも思い返してみれば、揺れが止んでそこそこの時間が経っているようだ。どうやらこれ以上身や心を揺さぶられることはないらしい。
そこまで思い至ればどうにか落ち着きを取り戻すことが出来た。
言ってしまえばコーザはうら若き…とはそろそろ言えない、世間では行き遅れなどと揶揄される歳に手が掛かってはいるが、未婚の乙女である。少々動揺するくらいが可愛げがあって男性受けも良いと聞き及んでいる。詰まり、何の問題もない。少しばかりあざといぐらいで丁度良いのだ。
そう自身に言い聞かせ、誰に聞かせるでもない言い訳を胸中で重ねると、漸く思考を巡らせる事が適った。いや何を考えているのだ、そんな場合ではない、と。
「ギア!!…ギアよ!!」
「な、なんです?」
どうにか発することが出来た言葉は絶叫に近かった。場違いな感想と混乱がつい語気を強めさせるが、少しでも虚勢を張って気を保たねば、へたれ込んでしまいそうだ。
落ち着け、落ち着けとコーザは幾度も己の口の中で小さく転がす。
「…そう、そうだ。ギアよ、何故それ程までに落ち着いているの?…だ?」
混乱という物はそう簡単に抜けはしない。それでも少しは落ち着くことが出来た、筈だ。息を整えれば、次第に頭も回り始める。
酔いが回っていたが故に鈍感だった、という事はない。僅かの酒で――娘からの窘めでもって――早々に切り上げているのを知っている。どちらかと言えばコーザの方が深酒に興じたのだ。
「へ?…ああ、いやあ。吃驚したなあもうそれは」
「今更誤魔化さずともよい。ギアは終始平然としていた、それが事実だ。どうして、なんでそんなに肝が太いの…だ?」
「これでもちゃんと驚いてますけどね…。まあ、地元…国元かな?故郷じゃあ、それなりに地震、地揺れの類は有ったんですよ。まあ要は慣れ、です」
そんな頓着しない様子に、コーザの喉から溜息が零れた。
「そう、か…。どれ程経験したのかは知らないが、私には生涯慣れそうにないよ」
「ここらじゃあ、滅多にないんですかね?」
「滅多にどころか、私自身初めての経験だ。大地が揺れるなぞ、古い文献に何行かあるだけよ…だ」
「でしたら」
ふと思いついたように、プニが口を挟んだ。普段から控えめな彼女にしては珍しいな、とコーザは何とはなしに思う。
「この辺りの方々も未経験、という事でしょうか」
「うむ、まあそうだろうな」
「アシビさんも皆さんも平気でしょうか」
その通りだ。
コーザは自身の頭を強く打たれたように感じた。
騎士たる己がこれ程までに慌てふためいたのだ。況や市井の者をや、恐慌から暴れ泣きわめいててもおかしくはない。
民を守るのが騎士の務め、今こそ、その役目を果たす時だ。
「今から村を見回る。ギア、申し訳ないけどちょっ…少々付き合って。…もらうぞ」
「まじか、あー…まぁ、そうですね。私でよければお供したします」
不本意、仕方なし、不承不承。
それでも己が力量と立場を鑑みれば必要と判じたのだろう。力あるものが責任を負う、という事を理解しているのはそれなりに好感がもてるとコーザはギアを評価する。
「感謝する。よし、下に降りるぞ。ついてきて…もらう」
扉を一息に開け、勇んで飛び出すと廊下を小走りに駆け、階段へと身を躍らせた。
それがいけなかったのだろう。確かに酔いは醒めたが、身体から一息に酒が抜け落ちる訳ではないらしい。
平たい、取るに足らぬ階段がまるで畝の様にコーザの足を取った。
いけない。
縺れる、転ぶ――落ちる。
青痣で済めばいいなあ、いや、乙女の柔肌に痣とかないかな、うんない。万一にでも骨折とか勘弁して欲しいんですけど。
そんな思考が一瞬にしてコーザの脳裏に駆け巡るが、覚悟していたような衝撃は、訪れることが無かった。
自身の胴、というか腰に力強く太い腕が回され救い上げていたのだから。
「あっぶねえ。やっぱまだ酔ってたんだな…大丈夫ですか?怪我とか、ありません?」
柔らかい眼差し。
久方ぶり、両親以外から滅多に掛けられることのない優しい言葉。
暖かい、ひと肌の温もり。
遥か昔、コーザがまだ少女と呼ばれていたころに封印してしまった気持ちが、大きく聳えるのを心のどこかで感じ取った。




