76.聳える平野-10
すっかりと傾いた夏の陽は、辺りを通りも小麦畑も道沿いの建物も、同じような茜色に染め上げる。道に落ちた影が遠くに見える山の端に掛かりかけた夕陽によって大分伸びた頃、少し前に訪れた時にはジワジワとさんざめいた夏蝉の鳴き声が、今ではしくしくと秋蜩が囁くようになっていた。少しずつ、夏の終わりが近づいているのだろう。
「ほら、もうつきましたよ!アレです」
そんな、暑さが残りつつも夏の風情と涼し気な風が抜ける村の通りを、足早に進みギアが辿り着いたのは勿論、アシビの酒場だった。幾度となく会話の端々に「何か良さげな物を売ってくれ」と口にするコーザを、「話は取り敢えず腰を落ち着けて、食事を取った後にでもどうでしょう」とのらりくらり躱した結果だ。
「なかなかどうして、大きいな。外見は庶民的だが、村の規模にしては立派な酒場じゃあないか」
「でしょう?まあ、外見は少しばかり襤褸…風雪に耐え忍んできた様子は有りますが、確か女将の話じゃあ元々は倉庫だったのを改修…宜しいんですか?元とは言え、倉庫で寝泊まりなんて…」
気を遣う、体のやんわりとした断りの文言を垂れる。「庶民的」という言葉の裏には「貴族に相応しくない」という意図も含まれている筈だ。
「なに、気にすることは無い。先の大戦では伝令兵として、荒野の馬小屋に泊まったことも、大きな倒木の下に身を寄せた事すらある。その時に比べれば、屋根があって酒と飯が出て寝台で眠れるなんて有難い話だ」
「…おお、それはそれは…」
どうにも苦労に慣れている。
もう少し貴族らしい――とギアが先入観を抱いている――鼻持ちならない事を言ってくれれば堂々と嫌えるのだが、人当たりが良いのか世俗に慣れているのかそもそも善人なのか、どうにも嫌うに嫌えない。面倒臭いだけで、悪い人間ではないのだ。だからこそ、ギアにとっては一層面倒臭い。
相も変わらず軒先から吊るされている、擦り減って役に立たない看板を拳の先でコツコツと弄んでノックの代わりとすると、店の扉を押し開け、中へと声を掛けた。
「おーいアシビ、いるかい?」
「アタシの店なんだから、居るに決まってんだろ!そんな大声出さなくたって、まだ耳は遠くなっちゃあいないよ!」
ギアが張り上げたよりも数段大きな声で、返事を寄越す。
「なんだい、あんたかい。また随分と別嬪さんを連れてきたもんだね。プニちゃんの母親…にしちゃあ全く似てないねぇ。ひょっとしてコレかい?」
少しばかり下品な物言いと共に小指を立てて此方に指し示すアシビのしたり顔は、さぞ可笑しそうに歪められてはいるが、眼の奥底は笑ってはいない。全身甲冑を纏った妙齢の美女は見るからに怪しく、それでいてやんごとない風体だ。その正体を推し量っているのだろう。
「冗談はよせよ。俺の客人でお貴族様だからな、粗相は勘弁してくれよ…いや本当マジで」
「あんたこそ莫迦をお言いでないよ!こんな田舎の隅で潰れかけてる酒場にお貴族様なんぞが来るもんかね!」
荒っぽい口調ではあるが、蓮っ葉な態度の中にも警戒を怠らない。厄介事、面倒事を回避するのに慣れている態度だ。
「言っても私の店だからね。お貴族様だろうが官吏だろうが衛兵だろうが、アタシが気に入らなきゃあ叩きだすまでさ」
わざとらしいまでの横柄な態度と共にそう嘯くアシビを尻目に、ギアは注文を突き付ける。空気の読めない、敢えて空気を読まないのは、自身の最も得意とするところである。
「まあまあ、取り敢えず二部屋を頼むわ。俺ら二人と此方の女性のとで。あとなんか美味い飯と酒と、果実水人数分な」
「…まあ、今日は若い雌鹿も入ったしね。酒はウチのエールでいいんだろう?」
「ああ、それで頼むわ。一番美味いとこな」
こんなどうでも良いような遣り取りが何とも心地良い。斬った張っただのとは全く無縁のアシビの物言いに、終ぞ堪え切れずに若気てしまう。
そんなギアの胸中を知ってか知らずか、満足そうにうなずくと、アシビは吐き捨てるように微笑んだ。
「厚切肉と白茸のスープ。後はパンか燕麦粥が付くよ」
「美味そうだな、それで頼むよ。あとパン付けてくれ」
「あんたも知っての通りウチのは黒麦だよ。贅沢に慣れたお貴族様の口に合うと良いけどね」
「その心配は要らないよ」
諭すような探るような、零すようなアシビの言葉を、ギアは気負いもなく否定した。
「アシビの飯の腕前は、良く知っているさ」
「…フン。随分と口が上手いのだけは商売人らしいよ」
そんな気怠げな物言いに、ただ一つニッコリと微笑んだ。
「うむ、美味いなこれは!」
「でしょう?私のお気に入りなんですよココ」
何故なら、杞憂だと知っているのだから。アシビの作る料理は美味いと自身が知っているからこそ、何の憂いも無い。
コーザの反応は大仰ではあるが、決して大げさではない。眼を細めて頻りに頷きながら、感想を垂れ流している。
「…うん、パンも良い。黒麦のパンがこれ程食べやすいとはな。今まで糧食として食べていた硬いヤツは何だったのかと疑う程だ!こいつを知ってしまうとあれは最早パンじゃあないな、木炭だ!」
一口齧っては喚く。
「…そして、エールも良い…。苦いがスッキリとしていて後味も爽やかだ。何杯でも飲めてしまいそうだ」
一つ啜っては惚ける。
その一つ一つに、ギアは大きな満足を覚えた。自身が美味いと思ったものを誰かに美味いと感じてもらえる。そんな些細なことが、そこはかとなく嬉しい。
「いや、本当そうなんですよ。このエールは罪深いです」
「飲み過ぎてしまうギアの気持ちが理解できるぞ。…お代わりだ、もう一杯頂きたい!」
「おっ、いきますねえ。じゃあ俺も…」
「マスター?」
コーザに付き合うようにもう一杯と頼もうとしたギアを、プニの一声がやんわりと制した。
口元は薄く微笑み、それ以上の言葉を紡ぐことは無かったが、薄っすらと細める様に開かれた目元から向けられる視線が、何を伝えたいのかを雄弁に語っていた。
「…俺は、ここ等で止めとこうかな、うん」
その言葉に納得したのか、プニがコクリと一つ、小さく頷いたのを見れば、この答えが最適解なのだと理解できる。父親として娘の理解という難題に一歩近づけたのであれば、酒の一杯くらい惜しくないと、ギアは自身を納得させた。
そんな風景――コーザが騒ぎ、ギアが笑い、プニが黙々と匙を進めた食事――も終わり、それぞれがそれぞれの部屋へと別れた。当然、父娘たるギアとプニは同じ部屋だ。
漸く今日という一日を、面倒な難関を乗り切った。
そうギアが安堵の溜息と共に人心地ついたころ、ドンドンと部屋の戸が叩かれた。ノックの心算なのだろうが、些か力強い。というか寧ろ粗雑だ。
「私だ。ギアよ、開けて欲しい」
その声の予想に違わない持ち主に、ギアの喉奥から、安堵ではない嘆息がぐう、と漏れた。
進まない気持ちと覚束ない足取りで歩み、たどたどしく扉を開けば、コーザがニコニコと機嫌良さそうに微笑んでいる。何度か杯を重ねたエールが回っているのだろう、少しばかり顔が赤い。
「私に見合う様な商品を見繕ってくれるという約束が楽しみ過ぎて、少々気が急っていたようだ。押しかけたみたいで済まないな」
「…いえいえ、とんでもありません」
みたいも何も、文字通りの押しかけだ。そう指摘して追い出せたらどれだけ気楽だろうか。
内心の疲労を噫にも出さず、営業職時代に培った笑顔でにこやかに受け応える。もう少し、撒くまでの辛抱だ、と。
「どういったものをお求めですか?」
「そうだな…何か、アクセサリーが良いな。魔法が掛かっているやつを頼む」
「アクセサリーですか…ネックレスは如何でしょう」
「ネックレスか、今は丁度首に何も下げていないし、悪くないな」
「では、此方なんかが私のお薦めです」
そう言って取り出したのはナーファンで買った単鎖首飾をギアが少々手直しし、台座と小さな石を取り付けて自身の習得技術でもって回復の魔法を込めたものだ。だが大した素材を使用していない上に、目立つのを避けるため、だいぶ手を抜いている。己の全力からは程遠く、30秒毎に体力とスタミナを1ずつ回復という、ギアのレベル帯からすればまごう事無きゴミアイテムだ。
だが、効果が低いとは言え、回復の魔法道具には違いない。これがあれば魔法薬を持ち歩く必要が無くなる等と言う代物ではないが、使用頻度が多少なりとも減るのは間違いない。独りで旅をしているというコーザには案外有用だろう。
「ふむ、これは中々に精巧な造りをしているな」
「ええ、私も一目見てコレだ!と直感しました」
「石も美しい、な。これにはどんな魔法が込められているのか聞いても良いか」
「ええ、勿論。それには…」
そう言いかけた瞬間、ギアはふと違和感を覚えた。
ギアにはどれだけ深酒をしようと起きたいときに起きれるという特技の他に、「地震の前兆を感じ取れる」というものがある。と言っても地震を回避出来たり、対処できる程のものではない。あくまで「地震が来る直前に分かる」だけの、特に大して役に立ったことのない能力だ。
ギアが「あ、来るな」と感じたその瞬間、足元がぐらりと一つ、揺れた。
大地が、建物が、そして人が。グラグラと何度も大きく揺さぶられた。




