71.聳える平野-5
すっかりと落ちた太陽の代わりとばかりに昇り、辺りを照らす二つの月は思い思いに夜空を模る。
明々と燃える焚火がパチリ、と一つ爆ぜてステンレス製の焚火台の周囲を彩った。
「…ふああ、ああ…っと」
焚火を見守るギアの口から大きな欠伸が零れる。やはり睡眠無効の指輪は付けておくべきだな、と自身のアイテムボックスをまさぐり探し当てると右手の中指に嵌めた。なんとなくではあるが、この位置が一番効果あるような気がするのだ。
まだ夜は更け始めたばかりで、日の出までは随分と時間がある。
本当なら天幕の中で寝息を立てているプニの横で同じように寝てしまいたいのが本心ではあるが、見張りの無い野営というのも不安で仕方がない。
いっそ夜に移動して昼間に木陰に天幕を張って眠るのも良いのではないだろうか。アメリカ史における西部開拓時代には旅人は夜に移動することも多かった、という何かの本で読んだ知識がギアの胸中で鎌首を擡げるが、育ち盛りの愛娘に昼夜逆転の生活を強いるという事も憚られる。幼い少女の成長を阻害することにでもなれば、新米父親としてその後悔は海よりも深くなるだろう。
魔法道具足る指輪の効果が発動したのかはたまた気のせいか、ギアの瞼が軽くなり思考が明瞭になって行く。感性が研ぎ澄まされたように明るくなると、その耳朶を微かな音が擽った。
カサリ、カサリ。サクリ、サクリ。
それは、足音だ。
ゆっくりと、少しずつではあるが、確かに此方へと近づいている。
野生の獣か、魔獣と呼ばれる敵性生物か。それとも、人なのか。
どれであれ、対処しなければならない。友好的な存在なら問題はないが、そうでなければ。
僅かな緊張と、未だ不足している覚悟でもって。ギアは腰の剣に手を伸ばす。例え振るいたくは無いと思っていても、振るわねばならない時は来るのだから。
人を殺したくはないなどと、甘いことを言ってはいられない場合というものは、きっと訪れるのだから。
「もし!誰かいるのだろうか!いたら返事をして欲しい!」
投げかけられたのは凛とした、女性の声だった。
女性らしい柔らかさよりも、野暮ったい生真面目さを思わせる少しばかり堅苦しい、多少低くはあるがそれでもやはり女性特有のものだ。
「どちらさん?」
ギアも声を張って返す。
どうやら敵ではないらしい。少なくとも即座に斬った張ったという展開にならないだけでも有難い。
「私はこの王国の騎士、コーザ=ソーン=グィノッザという者だ!そちらへ向かっても良いだろうか!」
ギアの未だ乏しい知識では、この世界での騎士という立場がどれ程のものなのかは分からない。ただ、一般人よりは上だろう。ましてや駆け出しの行商人とは比べるべくもない筈だ。
商売人らしく、少し下手に出るくらいで丁度良いだろう。
「騎士様ですか!ええ、問題ありませんよ、どうぞお越しください!」
「うむ!」
力強い返事と共に現れたのは、銀色の甲冑に身を包んだ、やはり女性の騎士。
背はギアよりも少し低いくらい。この世界での平均を取ったわけではないが、ギアが出会った女性と比べれば高い方だ。面当てを跳ね上げ顔を晒した兜からは艶めくような長い金髪が零れている。顔立ちは非常に整っており、親の欲目を差っ引いても愛娘たるプニの、次の次の次位には美しい。
「夜更けに突然押しかけて済まないな。名を聞いても?」
「ええ。しがない行商人のギア=ノイズと申します。今は就寝中ですが、娘との二人旅でして」
「おお、ご息女がお休みのところ声を張り上げて申し訳ない」
女性騎士はそう申し訳なさそうに声を潜めると、より一層声を抑えながら言葉を紡いだ。
「突然で済まないが、食料の供出を命じる。これは王国法に則ったものだ」
供出。つまりは「寄越せ」という事だ。
ギア自身は王国民というわけでもなければ、この王国とやらに帰属意識も無い。
しかし、郷に入っては郷に従えとも言うし、現地の法が適用されるのは至極当然と言える。
「ええと、詰まり『何か食わせろ』という事でしょうか…?」
食材に困窮しているわけでも無い今、多少の提供で面倒事を避けられるのならば重畳だろう。
「うむ、その意味で間違いない。ついでにと言っては何だが、野営もご一緒させてほしい。無論、対価は払う」
対価を払ってくれる、というのならばギアには何の損も無い。損が無ければ否やも無い。
少しばかりの驚きが顔に出ていたのか、女性騎士は朗らかに笑った。
「はは、タダで寄越せなどとけち臭い事を王国騎士は言わぬ。三日月型銀貨を支払おう。多いとは言わないが、充分な額だろう」
三日月型銀貨は価値にして大銀貨の半分、詰まりは銀貨5枚分。ギアの感覚からすると大雑把に五千円と捉えている。
一食。否、翌朝の分も含めて二食と一晩の借宿と考えれば妥当な線だ。
「畏まりました。さっき作った料理だけじゃあアレですので、それにスープとサラダでもお付けして、と…」
「サラダと言ったか?この夏日に生野菜を持ち歩いているのか?」
「…ああ、実は私、収納魔法という物が使えまして…」
「なんと、収納魔法持ちか!確かに収納魔法は腐りにくいと聞くな。生鮮食品を持ち運べるというのは便利なことだ」
ギアのものはあくまで「アイテムボックス」と「倉庫」だが、態々それを説明する必要も無い。「倉庫」であればものが腐る事自体が無いが、それを伝えればより面倒臭いことになるだろう。
「…それで、如何でしょう。サラダ、召し上がりますか?」
大袈裟な笑顔でもって韜晦すれば、そんな裏に気付かず、騎士は笑みを返す。
「うむ。保存が利いても漬物ばかりではどうしても飽きてしまうからな。旅先で新鮮な野菜にありつけるとは有難い。是非とも頂こう」
「それと、天幕はお持ちですか?」
「いや。旅では身軽を旨としている故、嵩張る天幕は持ち歩かないことにしている。旅慣れれば夜露はマント一枚あれば凌げる」
目の前の騎士の持ち物はといえば、どうも見る限りは背負い袋一つのみだ。夜道を歩いてきたにしては随分と軽装な気がするが、であれば甲冑は重くないのだろうか。訝しんではみるものの、「騎士とはそういうものだ」と言われれば納得する他にない。
「でしたらもう一張りありますので、そちらもご用意いたしましょう」
「そうか、それは助かる。何から何まで世話になるがよろしくお願いする」
「いえいえ、お気になさらず」
「それと夜番は私からさせて欲しい。それぐらいしか出来ないのは心苦しいが」
礼儀正しく、常識人だ。
この世界での制度は今一つ掴めていないが、しかし身分という物は絶対だと聞き及んでいる。騎士という位からすれば一介の行商人なぞ、塵芥も良いところだろうに、こうして敬意を払ってくれている。嫌味の無い会話も流暢で、平野を行くが如く滑らかだ。
しかし、ギアの胸にあるのは一抹の違和感。
騎士というものは、果して一人で旅をするものなのだろうか。御付きや供のもの、部下位は居ても良いような気がする。騎士という割には馬を連れ引いたり騎乗してるわけでもない。なにより、此処は田舎道だ。ナーファンの街でも、騎士という存在は見かけなかった。
「ところで、騎士様は何故こんな場所にお越しですか?」
「うむ、私は此処らで起こると噂されている『神隠し』について調査に訪れている」
ギアの胸に飛来した物、それはうねるような聳えるような。
新たな面倒事の予感だった。




