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61.燃え立つ氷像-13

 足音が鳴らぬようそろり、そろりとつま先立ち、目的地まで忍び寄ると緩慢な速度で鍵を開ける。

 小さくカチリと響く音が、やけに大きく響いたような気がする。

 大きく息を吸って落ち着かせると、僅かな音もたてずにドアノブを殊更に時間を掛けて捻り、ゆっくりと戸を開けた。


 未だ真夜中と言って良い、もう少しもすれば寧ろ早朝と言うべき時刻に宿へと戻ったギアは、先に眠っているであろうプニを起こさぬよう、細心の注意を以て部屋へと潜り込んだ。

 後ろ手に扉を閉めて部屋の中を見やれば、二つあるうちのベッドの一つで、愛する娘がスヤスヤと規則正しく寝息を立てている。

 起こしてしまった様子の無い事にホッと安堵の溜息を零すと、床に荷を下ろして椅子の背もたれに被外套(フードマント)を掛け、背筋を伸ばす様に後ろへと反らした。バキバキと鳴った音が殊更に大きく響いたように思え、慌てて息を潜める。


 明日は早いというのに、ついつい興が乗って飲み過ぎてしまったと自省する。もっとも反省はしていても後悔はしていないのだが。ともかく、早く就寝しなければ明日に差し支える。衣擦れ一つ鳴らさぬように己のベッドに潜り込んで、酒の匂いがなるべく漏れぬよう頭まで毛布を被ると、不意に瞼が重くなった。強かに飲んだ酒が今頃になって眠気をもたらしたのだろう、どうにも抗えない。

 何かすべきことがあったような気もするが、酒精の回った頭では忍ぶのも一苦労だし、考え事も億劫だ。

 酒が残っているとはいえ、思い出せないという事は大した事ではあるまい。そう結論付けると、泥濘むような睡魔に身を任せる。僅かでも、寝なければ。

 薄れゆく感覚の中で、様々な考えや記憶が浮かんでは流れて、消える。揺蕩い、掠れては沈んでいく。


「…ああ、そういやうらどり、してねぇ」


 ふと、口から零れた言葉の意味は、終ぞ自身でも理解しえぬまま。

 意識は暗闇の底へと落ちていった。






 それから、どれ程時間が経ったのだろう。瞬き程の僅かにも、悠久の果てに訪れたようにも感じる時間が過ぎた頃、カチャリと僅かに、それでいて確かに固い音が響いた。それは例えるなら、ドアノブを捻って扉をそっと押し開けるような音。遠い意識の中、いつの間にかはだけた毛布を懐に掻き抱き、薄っすらと漏れる明かりに瞼を少しだけ開く。


 (…ああ、なんだ。夢か)


 ギアはそんな感想を抱く。それも当然だ。辺りを伺うように静かに忍び込んできた闖入者は誰あろう、愛する娘たるプニなのだ。

 傍らのベッドでスヤスヤと寝息を立てるのもプニならばそろりそろりと足音を忍ばせるのもプニ。

 愛する娘はただ一人のみで、実は双子だったという筈も無い。そしてこういった現実感に乏しい奇妙な夢は、嘗ては何度も見た覚えがある。眼を開けている、起きているという感覚自体が夢の一部なのだろうと結論付けると、ギアは再び意識を手放し、夢の中へと落ちていった。

 遥か遠くで、娘の声が聞こえたような気がする。


「どう…頬な…ばれ」


 うちの娘も、寝言の一つ位は言うんだな。そんな益体も無い感動に頬を緩ませながら。




 どれほど酒におぼれようとも、夜は長いと侮り気ままに過ごそうとも。

 朝というものは万人に等しく訪れ、その恵みと酷情さを遍く分け与える。

 健常に過ごす者が陽光を謳歌しようが、酔っぱらいが宿(ふつか)酔いを享受しようが、太陽は一つも意に介さない。ただ昇り、照らすのみだ。


「おはようございます、マスター。今日は晴れましたね」

「…ああ、…おはよう」


 息も絶え絶えに、とまではいかずともそれに近しい声色でギアが返すと、嘆息した様子を隠しもせずに、プニが問いただした。


「また、お酒ですか?マスター」

「ああ、うん。…まあなんだ、それに近いような、ものかな?」


 寒々とした娘の台詞を前に、どうにか己を奮い立たせる。


「以前、『また同じことがあれば手持ちのお酒を全て売り払う』とお伝えしたことを、よもやお忘れになったとは思いませんが」


 そう、それだ。

 心のどこかに棘の様に刺さっていたのは、恐らくそれなのだ。

 すっかり忘れていましたなぞとは、口が裂けても言えはしないが。


 ふう、とため息を一つついて、芝居がかった様に(かぶり)を振る。いつものお説教もといお小言、ではなく非常に有難い訓示が始まる合図でもあった。


「マスター。再三お伝えしているとは思いますが…」


 そんな娘の、熱の籠ったご教示を謹んで享受する。

 ギアの事を想えばこそという気持ちが伝わってくるのだから。次こそは間違うまい。今度こそは違えるまい、と何度目かの誓いを胸に呟きながら。

 つらつらと続くご説法或いは訓示を平身低頭にやり過ごせば、締めにお許しの言葉を押し頂く。これも最早お定まりとなった定番行動(ルーティン)だ。


「それでは、これを飲んで意識を明確にして頂けますか?」


 薄っすらとした柔らかい微笑みと共に渡されたのは、澄んだ緑色の液体を揺蕩わせた小瓶。あの日、邂逅の後に手渡された懐かしくも見慣れた中級解毒薬(アンチドート)である。


「効果は、充分にご承知かと思いますので」


 口角を持ち上げ、微笑みが――わざとらしい程の――笑顔に変わり、件の小瓶をギアの掌に押し付け、握らせる。ギアの左手を包み込むように添えられたプニのその両手は柔らかく、さするような撫でるような動きで「確かに渡したぞ」と主張する仕草は、優しくも残酷だ。


「味もご存じかとは思いますが…飲みま」

「飲みます」


 最後まで言わせることも無く、一気に瓶を傾け、一息に呷る。

 毎度のことに娘を煩わせるのも心苦しいし、苦痛を感じる時間は短い方が好ましい。すぐに収まるとは言え、鼻が莫迦になる時間も短い方が有難い。決して、己が娘の放つ圧に負けたのではない。当然、雰囲気に呑まれたのでもなく、愛しい娘を気遣うが故である。


「うぇっ…、げふっ。あ、あ、あー」


 鼻に残る辛みも舌と喉に絡むような甘さも、どうにもいつも以上に自己主張が激しい。堪え切れずに曖気を零し、咳を払うように喉の調子を確かめる。


「効いてきたようですね。改めまして、おはようございますマスター」

「ああ…おはよう、プニ」


 未だに抜けるような清涼さが鼻を衝くが、間違いなく酒精は抜けたし、確かに眼は覚めた。


「…今回までは見逃します。次はありませんからね」


 毎度お馴染みの台詞と共にお許しを頂く。

 何度目かの遣り取りではあるが、今のところ一度も売り払われたことは無い。しかし、その優しさに甘えていたというのも事実だろう。今度こそ、飲み過ぎるまいとギアは強く誓う。その誓いが幾度も繰り返されたという事実には目を瞑りながら。

 しかし、そんな厳しい言葉とは裏腹にどこか嬉しそうなプニの笑顔の前では、またこの笑顔を見たいという想いの前では、どうにも決意が揺るいでしまうのだ。


「よし、準備して出るとするか。ハロルド達ももう来ている頃だろうしな」


 「青い牙」の面々は見送りという程では無いにしろ、最後に別れの挨拶をと、柱時計の前で待ち合わせている。朝、発つ頃にという曖昧な時間指定ではあるが、だからこそそれ程気負う必要も無い。恐らくはハロルドだって強かに飲んで起きるに倦ねている筈だ。


「ええ、参りましょう。私の準備は万全です!」


 それは、聞き慣れた台詞でもある。「URUMA(ウルマ) KARMA(カルマ)」内ではプレイヤーの行動や選択、指揮によって従者の「性格」が変わり、その性格が「勇敢」や「能動」である際の定番、口癖といって良い一言だ。

 決して「さっさとしろよ」という意味を含む筈も無く、そう聞こえたのはギア自身の後ろめたさからでしかない。

 ギアの背筋を一つ汗が伝うのは、今朝が思いの外暖かかったが故であり、少々寝汗を掻いたからに違いないのだ。またARIZEN(アリズン)で何か贈り物をして、ご機嫌を伺おうという想いは特に他意は無く、ただ娘を愛するが故である。


「なあ、ところでプニ…」


 何か欲しいものはないか、と年頃の娘に迂遠に尋ねる。

 新米父親としての凍てつくような希代の難問に挑む。だが、こうして娘の為に心を尽くすのが、何よりも嬉しい。俺は所謂(いわゆる)親莫迦というやつなのだろうなあ、と自覚はしても改める心算は毛頭無い。

 こんな何気ない遣り取りこそが、ギアの寒風吹きすさぶ心を温めていくのだから。

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