60.燃え立つ氷像-12
「そうか…。旦那も、出発すんのか」
呟くようにそう零すと、揺ら揺らと弄んでいた樽杯の中で揺蕩う、すっかりと気の抜けたエールを呷る。
味気ない。
いつもは美味いと感じる筈の、自身の大好物が、今は何処か物足りない事にハロルドは眉を顰めた。普段ならとっくに飲み干している樽杯の底には、まだ酒が残っている。
ハロルドの行きつけ「鈍色の石窯」は今日もなかなかに賑わっており、一人でカウンターに座って酒を飲んでいたところ、偶々訪れたというギアに声を掛けられ、相伴と相成った。
今日も、すっかりと陽の落ちた店の外は凍える程に寒く、暖炉に火を入れている店内でも充分とは言えない。
未だ寒いのは酒が足りていないからだ。そんな酒飲みの理屈と共に、もう一口。
「ああ、明日の朝には発つよ」
釣られるようにギアも己の樽杯を呷って干すと、ついでの様に小さく曖気を零す。
「何処に向かうんだい?」
「一度オーロックに寄ってから、王都に向かう心算だ」
「王都かあ、そいつは遠いなあ。古都シューリンのそのまた先だ」
そう嘆息しながらつまみに頼んだ小瓜漬物にマスタードをたっぷりと乗せて齧る。すうっと鼻を抜ける刺激を洗う様にエールの残りを一息に流し込めば、どうにか憂いも飲み込めた。
「寂しくなるなあ」
そう、寂しい。
今ハロルドの胸中に揺蕩う憂いは、寂しさだ。口にしてしまえば、ストンと納得できた。それ程大きいものではないだろう。仲間や家族程に情が湧いたわけではない。しかし自身が思っていたより、この行商人親子を気に入っていたのだ。
「なに今生の別れみたいなこと言ってんだ」
そうは言いつつも、ギア自身、理解している。
この世界、遠くの誰かに連絡を取るというのは、簡単ではないだろう。お互いが根無し草ならば猶更だ。「どこそこを中心に移動している」とかならば兎も角、ギア達父娘二人は旅を手段とし、日々が旅にして旅を栖とする。
最終的な目的地は勿論元の世界の日本。しかしこの世界に於いては、明日の行き先さえ定まっていない。
再び出会おう筈も無い。
それでも、そんな野暮は口に出さない。
「お互いに、生きてりゃあどっかで出会う事だってあるさ」
「…そんなものかなあ」
「そんなもんだよ、そんなもん。生きてりゃ全部丸儲けって言うだろ?」
「いや、知らねえよ」
調子のよい台詞に、ハロルドが笑いを抑えることも無く答える。
酒精の廻り陽気になった頭ではそもそも止める心算も無く、気の向くままにカラカラと笑った。
「初めて聞いたよそんなの。初めて聞いたけど…悪くねえな、それ」
「だろう?お気に入りなんだ」
ギアも笑いながら返す。
明日は早い。明日も早い。
しかしこのひと時。この瞬間、酒を酌み交わし笑い合うのは、代えがたく、大切な時間なのだ。きっと。
男同士。酒好き同士、莫迦同士。
こんな無駄な、益体も無い時間を誰よりも楽しめる、愚かな二人組が唯々語り合う。
「イーサクはどうだった?旦那に迷惑掛けなかったかい?」
「青い牙」のリーダーとして、パーティーメンバーの動向は流石に気になるのだろう。その気持ちを汲み、気負いしないよう社交辞令を紡ごう。安心しろと、そんなことは無かったと。
「迷惑も迷惑だったわ!あの阿呆、夜明け前に押しかけて来やがったからな!」
殊更に声を大にして告げる。自分が起きていたから良いが、もしあれで娘が夜中に目を覚まそうものなら、脇腹に拳を突き立てていたという自信がある。
そんな返事を受けて、ぶはははは、と堪え切れず盛大にハロルドが吹き出した。
「いやいや。まあ、気を悪くしねえでくれよ、旦那。あいつはああ見えて直情的な奴でさ」
自身の仲間の不手際も、酒の廻った頭では笑いの種でしかない。それでも、多少のフォローが入るのは、責任感が故だ。
「賢そうなフリしといて、結構な莫迦なんだよあいつ」
ただ、その形は好きにさせては貰うが。
恩を売るなどと息まいて出掛けておいて不評を買う様な輩には、面白おかしく話を転がすネタにでもしなければ、溜飲が下がらないのだ。
「…まあ、そうだな。助かったっちゃあ助かったからな。そこは感謝してるんだ」
「そっかそっか。旦那の役に立てたんなら、あいつも草葉の陰で喜んでるんじゃねえかな」
「いや、死んでないよ?」
辛そうにはしていたが、ある程度のフォローはしたし、きちんと帰した、筈だ。
それとは別に、伝える事がある。
「ああ、そういやイーサクの奴を少しばかりバイトで雇ったわ。悪い、言うの忘れてた」
「そうなのかい。まあ休暇にしてたから別に構わんけどさ…因みに幾らで?」
「大銀貨一枚と魔法薬一つ」
大袈裟な素振りで、ハロルドが右の掌で己の額をぴしゃりと打つ。
「まじかー、休暇中じゃなけりゃあその大銀貨一枚くらいはパーティー予算に踏んだく…組み込めたんだけどなあ」
「非道い言い草だなおい」
莫迦話に莫迦らしく混ぜっ返す。
どちらかがお道化て見せればもう一方が茶々を入れる。酒と共に、笑いと共に。
そうして、悪戯に時間は流れていった。
「ところでハロルドよう」
「はいよー、なんざんしょ」
気楽な返答に、わざと少しばかり声を固くして尋ねる。
「お前、カーミュラのことはどうすんだ?」
「…どうすんだ、てのは?」
「告白するのか、想いを告げるのか、プロポーズするのかのどれかだって聞いてんだよ!」
「いやそれ、なにも違わないよ!?一択だよ!?」
冒険者の慣習に於いて、パーティーメンバーの誰かに告白するというのは生涯を共にするとほぼ同義であり、それはプロポーズと何も変わらない。裏切れば、縁を切られれば最悪後ろから刺されるか寝首を掻かれる恐れのある相手を無下になぞ出来ないのだから。
勿論ハロルドとて、カーミュラのことは憎からずどころではなく想っている。率直に、娶りたいと。
しかし、自信の無さが。稼ぎの不安定さが、貯蓄の乏しさが。
二の足を踏ませるのだ。
そんなハロルドの気持ちを、ギアは推し量る。否、推し量れてしまう。
自身の通った道が故に。
だからこそ、助言が出来る。踏鞴を踏む足元を蹴飛ばせるだけの言葉を。
「いいか、ハロルド。結婚てのはな…」
「結婚、てのは…?」
先人の助言、それも少なからず尊敬している人物の言葉だ。溜められた言葉にゴクリとハロルドが唾を飲み込む。
「勢いだ!」
あ、コレ駄目なヤツだ。
そう本能で察知しはしても、それを口にするほどにはハロルドは間抜けではない。
「い、勢いかあ…」
「ああそうだ、勢いだ」
ギアは本心からそう告げる。
なにせ己の経験からだ。勢いのままに告白し、勢いのままに結婚した。後先を考えなかったからこそ、結婚へとたどり着いたという確信がある。
勢いのままに暴走したからこそ離婚へと至ったという自覚もあるが、一勝一敗ならば五分の筈だ。
「おまえ、考え過ぎてるだろ?なまじっか頭いいからこそ」
そんなギアの台詞に、ハロルドの心臓がドキリと一つ跳ねた。
「いやいや旦那。俺、結構な莫迦だぜ?」
両手を大きく広げ、肩を竦めてそう言い放つ。何を見ていたんだとばかりに。
「知ってるよ」
ふん、とギアは柔らかな笑みを浮かべる。その表情は、ハロルドの父親が極々偶に見せるものに、よく似ていたような気がした。
でもなあ、と続けるギアの声が、随分と遠くから響いているようにも聞こえたのは、錯覚だろうか。
「ハロルド。お前、詳しすぎるんだよ。香辛料の価値、税にも、契約にも。商人でもないのに算術にも明るい。…まるで、一定以上の教育を受けてきたみたいによ」
ギアには、確信めいたものがある。
この街を回ってみても、そもそも香辛料はさして出回っていない。ハロルド以外の「青い牙」の面子は、香辛料の値なぞ気にも留めていなかった。
屋台を塒とするような商人でさえ、少しばかり難しい計算は得意とせず、金額の多寡ばかりを気にしたのだ。そんな中、ハロルドは一つ当たりの高い安いを把握していた。さしたる時間も掛けずに。
「…まじかよ」
ハロルドは、内心で舌を巻く。
そんな素振りは、見せてこなかった筈だ。殊更に無教養を装って見せた。ここいらの冒険者界隈では武辺者の唐変木で知られ、今まで疑われてきたことなんて無いと自負しているし、気取られるとは夢にも思わなかった。それなのに。
「どこかの貴族の三男四男辺りってとこだろ。違うか?」
「…参った。降参だよ、旦那」
そこまで言い当てられては、返す言葉も無い。
この街から少し離れた小さな小さな男爵領。それが、ハロルドの出生地だ。
爵位を持てども、継承権なぞ無いに等しく、さしたる財も持ち合わせていないとあっては、平民と何も変わらない。どころか金を持つ商人に対しては木端貴族なぞ頭が上がらない程だ。
しかし、木端とは言え貴族は貴族。
それなりに教育を施され、知識は身についている。だがそれでも、そこから推測されるというのは想像の埒外だった。
「なあ、旦那」
「なんだい?」
そう言えば何時だったか、こんな遣り取りをしたな、とハロルドはほくそ笑む。
「…例えばさ。明日、晴れるかな?」
それは、決意の証だ。己が胸中を、詳らかにするという。願わくば良い返事を、という願望と共に。
「知らねえな」
ぞんざいな、切り捨てるような返答。
それでも、ギアの瞳は、優し気に彩られていた。
「でもまあ、晴れたら良いな」
「そうだなあ。…晴れると、良いよなあ」
冷たい覚悟と、暖かい希望。生温い決意と共に、ハロルドは破顔した。




