57.燃え立つ氷像-9
朝晩には冷え込み雪が舞い散ろうとも、日中には正しく夏の日照りが辺りを照らし、気配をそれなりに温もらせる。凍てつく空気を温ませながら、陽光は厚い雲を彼方へと追いやり、吹き付ける風の棘を和らげた。
鼻の奥をツンと刺すような冷気と、肌をジリジリと焼く日射しが混じり合う空気は心地よくもあり、凛々と身に染むようでもある。
今の目的は仕入れ、という体の愛娘との買い物デートだ。父親らしい頼れるエスコートが求められる。
「さてさて、仕入れと言っても色々あるしなあ。何にしますかねえ」
「良い出物があると良いですね」
未だ雪も泥濘も残る道は滑りやすく、滑ってはいけないと手を繋げば、プニの手は思っていたよりも温かい。というよりも、ギアの手が冷えているのだ。冷たい思いをさせるのは悪いと手を引っ込めようとするが、プニは優しくも確りと握り離さない。手を離されるのは寂しいのだろうと理解すると、ならばとギアも握り返す。
その感触に、プニが目深に被ったフードの下で、ニコリと微笑んだ様に見えた。
増えた人足に通りの熱気は冷めやらず、街行く人々の、少しでも安くて良いものを買おうと品定めをする眼は真剣そのものだ。そんなつらつらとした気配の中、ギアは広場の外れにある幾つかの手近な屋台を物色していた。
食料品は、軒並み値を上げている。
日用品は、少し高いが平素とさして変わらない。
若干下げているのは、贅沢品が多いようだ。
この街の相場にさして明るくないギアにはその真偽の程は分からないが、それぞれの商人が掲げている値下げ札なり交渉の遣り取りなどに耳をそばだてていれば自ずと判断がつく。そうでなくとも喫緊に必要な物の値が上がり、そうでない品物はさして影響を受けず、対局にある代物へとは指が伸びず値が下がるのは洋の東西を問わず、況や世界の別をや、だろう。
誰もが命を繋ぐ食料や生命線たる燃料を求め、日用品を後回しにし、嗜好品にまでは手が回らない。今この瞬間を生き延びようというのなら至極真っ当な話だ。
であればこそ、今ギアの買うべきものはと言えば嗜好品や装身具などに挙げられる、驕奢華奢の類となる。
売れ残っているものということは交渉次第で更に安く買える可能性があり、仕入れを目的とする此方としても一定の安心――即ち現金――を欲している彼方としても悪くない取引に帰結出来る。
そう結論付けると、ギアは一つの屋台へと目を付けた。
屋台、という程でもない荷車をそれらしく飾り付けた台座に銀製と思しきブローチやら貝の細工物やらを並べたその店は、当たり前のように閑古鳥が鳴いていた。何事もないただの夏場ならそこそこ流行ったのかもしれないが、時宜を鑑みれば暇を弄ぶのも致し方無い。
「良さそうな塩梅だな。プニ、少し覗いてみるか?」
「悪くない…いえ、良い選択かと」
同行者たる愛娘の承諾を得て、件の店へと歩を進める。何でも己独りで勝手に決めると、女性からは不興を買うという事は、それなりに長い人生経験において学んだ最も重要な要素の一つだ。
「よう。儲かっているかい?」
屋台の向こう側で不機嫌そうな表情を隠そうともしない、痩せぎす細面の男に声を掛ける。歳の頃は30行くか行かないか、という辺りだろう。顔つきは皺も無くそれ程でもないが、後退して薄くなり始めた頭髪は、少しばかり老けて見える。
取り敢えずの探り入れ、もとい常套句を紡げば、予想以上の愚痴という名の情報が手に入った。
「そんなわけねえだろ、お客さん。こんなわけわかんねえ天気じゃあ薪木売りの独り勝ちだろうよ」
「あらま、ささくれてるねえ。やっぱりこんな天気じゃあ厳しいかい」
「厳しいどころの話じゃあねえさ。どうしてもってな必需品以外は皆てんで買い渋るし、給料日も近いから財布の紐が固くっていけねえ」
尋ねてみればやはりと言うべきか、そんなものだろうと納得しても、目論見通りという内心は表情に出さない。
「給料日が近い」という言い回しから推測されるのは、このナーファンの街では給料日が職種の違いを問わず固定されてるのでは、という事だ。現代社会においては幾分廃れてはいるが、嘗ては元の世界においても一般的な風習だった。
しかし、少々正直にすぎないだろうか、とギアは慮を抱く。売れてない、なぞと客に知られれば普通は足元を見られ、値下げ要求を投げかけられればかなりの割合を呑むことになる。同情を買って買い気を誘うという手法が無いではないが、初対面の相手に取るような手段ではない。
「どうだい?兄さん。この革紐の台座吊首飾も単鎖首飾もなかなか良い出来だろ?今なら安くしとくぜ」
台詞と共に指し示された台座吊首飾、要はペンダントトップの備えられたネックレスも細く細かく編まれた銀のチェーンだけの単鎖首飾も、確かに見た目には悪くない。
「確かに言われてみりゃあ、結構良さげに見えるな。うん、悪くないぜ」
「だろ?こいつは俺の友人が拵えた物なんだが、腕は確かな奴なんだよ。なにせ王都じゃあちっとは知られた工房で修業した奴で、その工房でも上から数えた方が…」
そう言って調子をあげながら屋台の店主は他所で売っている装飾品と比べても出来が良いだの、丁寧な造りなら有名どころにだって負けていないだのと矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。まあよく舌が回るものだと感心しながら、頃合いを見計らって攻勢に打って出る。
「丁度今、良い出物でもないかな、なんて考えてた矢先だからなあ。こいつは掘り出し物かねえ。プニ、これなんかどうだ?」
「細工も細かくて丁寧です。綺麗ですね」
「そうだろ?いい目してるぜお嬢ちゃん。いつもならどっちも大銀貨2枚半なんだけどよ、今日なら2枚ピッタシだぜ」
「ははは、邪魔したな。また来るよ」
つれない素振りでわざとらしく踵を返すと、殊更に慌てた声で引き留められる。
「ちょいちょいちょい!待ちなって!」
そんな大声に鼻白む、フリをしながら聞き返す。思った通り、という気持ちは一切顔に浮かべず、迷惑そうに眉を顰めるのも忘れない。
「どうしたんだよ、大声をあげて」
「いやいや兄さん、買い物が上手いねえ。大銀貨1枚と銀貨9枚、こんなに安く売ったことないぜ?」
わざとらしく遠くを眺め、韜晦する。
「向こうの方にも、良さげな屋台があったっけかなあ」
「いやいや兄さん、物の出来で云やあウチが一番ってこれでも評判なんだぜ?ならどうだ、1枚と8枚!これマジで底値だから」
商人の言う底値とは底値ではない。「そこそこ利益が出る値」の略だとギアは認識している。それよりも重要なのは、この「底値」という言葉が出れば、交渉の限界一歩手前、という事だ。
つまり、あと一歩だけ踏み込める。
「なら、二つとも買うから合わせて3枚と5枚。どうだ?」
ぶっちゃけてしまえば、この交渉は決裂しても構わないのだ。どうしても欲しいという代物でもない。だからこそここぞとばかりに主導権を握り、すこしばかり強気で話を進める。
「あーうん…二つで3枚と5枚なあ、うーん…」
頭の中で必死に算盤を弾いているのだろう、痩せぎすの店主は天を仰ぎ首を傾げ、忙しなく身体を揺する。
「…よし!兄さん、それで売った!」
僅かな逡巡の後、意を決したように大声を張り上げた。
「よし、じゃあここら辺のやつ全部くれ」
「…は?」
店主の了承に間、髪を入れずに売り台の一部を指でくるりと輪を描いて指し示す。
そこには、先程から目星を付けていた幾つかの装飾品が並べられている。造形も細やかで手間がかかっているのが見て取れるし、なによりギアの心にピンときたのだ。それが、店主が勧めたものとは別に六つ。
「そこの合わせて八つ、全部貰おうか。二つで3枚と5枚なら八つで大銀貨14枚だよな?」
値段に折り合いがつけば多少強気で行く。額が嵩めば相手も悪い気にはならないというのがギアの交渉術だ。大銀貨を取り出すと10枚と4枚に分け、台の端に乗せる。
「いやあやっぱり買い物上手だねえ、お客さん!なんてったって買い方が男前だ」
一気に現金が手に入ることに喜色を隠さず諸手を挙げた。そそくさと装飾品を詰めようと麻袋のようなものを取り出す。
「口が上手いなあ。ああ、袋は要らないよ。そのままくれ」
「良いのかい?」
「ああ。それより代金改めてくれよ」
「おっと、そうだな…3枚3枚4枚、と4枚で14枚。確かに」
うやうやしく大銀貨を袋に詰めて懐に仕舞う男を尻目に、ギアは本来の目的を思い出す。仕入れもそうだが、一番必要なのは情報だ。
「どうだい?最近変わったこととかないか?」
「そう言われてもなあ、こんな時期に雪が降ってくる以上に変わったことがあるとは思えねえな」
さもありなん。これは質問が悪かったかと切り口を変えようとした時。
「ああでも、少し前になんだか王都が騒がしかったらしいぜ」
「騒がしい?お祭りかなにかか?」
「さあ?よくは知らねえけど、冒険者連中が稼ぎ時だの色めきだってたから、荒事の類じゃあねえか?」
そう聞いて二の足を踏む。
情報は欲しい。ならば人の集まる場所へは行くべきだ。さりとて、子連れで厄介ごとに首を突っ込みたいわけではない。今はまだこの街や周辺で噂話でも集める方が安全だろう。
しかし、情報というものは生き物だ。早い程鮮度が良く、価値がある。
「王都か…」
ポツリと、口から零れる。噂話にはちょくちょく挙がる場所だが、詳しくは知らない。話に聞く限りは、遠いだろうな、と思う位だ
「興味あるのかい?」
「ああ、ちょっとな」
「王都へ行くんなら、もう少ししたら小隊商の募集が掛かるだろうから、それに混じるのがいいかもな」
「小隊商?」
耳慣れない単語に思わず聞き返す。この辺り独特の様式だろうか。
「ああ、旅商人や巡礼者なんかが寄り集まって一斉に旅するヤツだよ。人が多いから旅足は遅いが、その分安全だ。小さい子がいるなら猶更な」
説明から推測するに、キャラバンのようなものだろう。
集団を形成することで旅の安全を確保するのは理に適っているが、先ずそれ以外のトラブルも付いて回る。それに安全なのは嬉しいが、旅足が遅いのは困る。
「王都ってここから遠いのか?」
「この街からじゃあ、小隊商だと二十日かそこらって聞いたな。噂してた冒険者たちの足だとそれよりも4、5日程早いらしいが」
「そりゃあ随分と早いな」
「まあ、あいつらはソレが自慢で飯の種でもあるからな。少し大袈裟に言ってるのさ」
そう言いながら肩を竦めておどけて見せると、店主は徐に台の上を片付け始め、店仕舞いの様子を見せる。
「おや、もう終いか?」
「ああ、兄さんの買ってくれた分で十分に薪が買えそうなんでな。おかげで嬶とガキを凍えさせなくて済みそうだ」
助かったよ、と想像していたよりも人懐っこい笑顔で続ける男の表情からは、心底の安堵が見て取れる。
「ちょっと前まで、夏の盛りに薪の相場が上がって皆して首を傾げていたところにこの雪だからな。余計に値上がりしちまって薪が買えねえ買えねえって、みんなヒイヒイ言ってるのさ」
「そいつは災難だったなあ」
「毛皮も毛布も全然足りねえってんで、この寒さが続けば面倒なことになるって震えてるよ」
まあ、それも直に解決するであろうという事をギアは知っている。
なにせ領主自らが救援物資として薪や毛皮等を買い込んでいるのだ。
売るのか配るのか、はたまた貸し付けるのかは知らないが、集めておいて使わないという筈もない。人助けの一助になれたことは嬉しく思うが、物資が尽きる前にこの天候が回復するのかという不安は残る。当然、何かしらの調査が行われているとは思うが、解決策があるようには思えない。
ただの一商人としては、人死にのない様にと、ただただ祈るばかりだ。
「店仕舞いってんなら、他所を冷やかすか」
「ああ、悪いな兄さん、お嬢ちゃん。良かったらまた来てくれよ」
それにしても、と続ける男の言葉が。
「こんな厄介な時に肝心の領主様がご不在ってんだから、本当に間が悪いよ」
ギアの耳に、冷ややかに響いた。




