56.燃え立つ氷像-8
「なんでこんなことに…」
弱々しくイーサクが独り言ちる。
なにせ「青い牙」の休養日も最早終盤だ。今日は飽きるほどに惰眠を貪り、明日からに備えて英気をたっぷりと養う腹積もりだったのだ。
そんな嘆息を耳聡くギアが拾い上げる。
「おいおい、今更そんなこと言うなって。バイト代は弾むんだから、な?」
確かに、破格なのは間違いないだろう。
辻露店の手伝いで、日が暮れるまでの一日仕事で大銀貨一枚というのなら、雑用ギルドに出回る依頼の中でも、滅多に見られないような好待遇だ。あまつさえ状態異常に効果のある魔法薬のオマケつきと言うのだから猶更で、むしろオマケの方が遥かに価値がある。
しかし、「これで眠気を飛ばしてしっかりと働いてくれ」などと言われても、そんな贅沢な使い方なぞ金銭の苦労を十二分に知っているイーサクには到底許容できるものではない。
結果、ギア=ノイズ曰く「簡単なお手伝い」とやらは白い液体で満たされた状態異常回復薬の硝子瓶――鑑定を掛けてみれば案の定、相当に効果のある代物で、眠気覚ましに使うには矢張り躊躇われた――を後生大事に懐に仕舞い込んだことにより、漣のように押し寄せる眠気と闘い、澱のように溜まった疲労を押しながらの苦行と相成った。
どんな街にも中心街という、最も賑わう場所がある。そしてそこには大抵、中央広場と呼ばれる空間が備えられ、その街の象徴となるようなものが眼を惹きつける。このナーファンの街で言えば時計塔の広場が正にそれだ。そこでは多くの人々が行き交い、露天商は茣蓙を敷き屋台を引き、声を張り上げる。
今のイーサクは、その内の一人だ。
茣蓙を広げて端に座り、その上に所狭しと懐炉や陶製の湯婆、毛布という程には厚手ではない毛織物等を並べては、道行く人に声を掛ける。ひっきりなしに訪れる客への商品説明は、山河の流れの如く滔々と、とまではいかずともだいぶ様になってきただろう。脳漿を穿つような眠気さえなければ。
「…どうぞー、安いですよー。…あ、薪木はお隣、はい此方の方が安く販売していますので。…あ、え?…すいません。はい、ええと、毛織物5枚で、えー、大銀貨1枚半を頂きます。三日月型銀貨3枚…は、丁度ですね、はい」
「鷲獅子の背を撫ぜ繕う」とは、一度始めたことはどれほど面倒でも最後までやり遂げなければならないという意味の格言だが、成程、鷲獅子の背は馬と比べても大きいし、毛もきっとごわついて繕うには一苦労なのだろうなと、ふとどうでも良い感想をイーサクに抱かせた。
まあ、己の力量で鷲獅子なぞに出会ってしまったら死を覚悟する他に無く、大きく踵を返しての全力疾走が正解だ。それ以外の選択肢など端から無く背を撫ぜるどころの話ではないのだが、と益体も無い事を想像するほどには疲れている。
息も絶え絶えに、大袈裟に船を漕ぎながらの接客ではあるが、なにせ取り扱っている品物が品物だ。
主力となりそうな薪木はイーサクの隣でもう一枚茣蓙を広げ構えるノイズ親子二人が、それ以外の雑多な代物はイーサクがと戦力を分散させても、一向に客の途絶える気配がない。
しかしイーサクが乗る船というのは結局のところ何時だって泥船で、直に意識が暗い海の底へと沈んでいくのが容易く想像出来た。
揺ら揺らと揺れるのは自身の身体が揺れているのか、それとも大地が畝っているのか、最早判別がつかない。
いっそこの揺蕩う心地よさに身を任せてしまおうと怠惰な覚悟を決めたその時、ふと隣から呟くような声が、微かに耳を衝いた。
「軽治癒」
その言葉と共に、イーサクは自身の身体が温まるような、柔らかな何かに包まれるような感覚を覚える。
それはある意味ではよく知る感覚、そう、己の得意とする補助魔法や回復魔法を受けた時のものだ。
重かった瞼が随分と軽くなり、霞がかった視界が明瞭になって行く。鉛のように鈍かった四肢が羽ほどに軽くなり、ズシリと重かった肺腑が活力を取り戻す。
ハッとして隣のノイズ親子の方を見やれば、娘の方が此方を伺い、目深に被ったフードから口元だけを微笑みに形作り、軽く会釈という程ではない頷きを寄越した。
どうにも気を遣わせてしまったらしく、幼子に魔法を使わせたことを恥じる。
魔法の行使というのは、元手はタダかもしれないが実のところ結構な重労働で、労働には当然対価が必要だ。しかし今現在雇われの身であるイーサクとしては、雇い主に支払う様な代物の持ち合わせが無い。
雇い主に心配を掛けるという不純さを自省し、弱気の囁きに負けかけた己を自戒する。せめて自身の働きで報いねばと気を引き締め、両の手で己の顔を一つ、パシンと音が鳴る程に叩いた。
イーサクは己自身、回復術師として務め上げていることもあるが故、その効果には他の誰よりも敏感だと自負している。その何よりも信じるべき己の感覚で言えば、彼女の使う軽治癒は非常に優秀だろう。
「猫の子は猫」という格言は弱者の子は弱者に甘んじる、という意味で使われるが、本来ならばその後に「獅子の子は獅子」と続く。今日ではすっかりと廃れてしまった言い回しではあるが、「優れた者の子はその才能を引き継いでいる」という教訓だった。
戦士職と魔法職、分野は違えど一廉の人物となる気配は微塵も違えてはいない。ここで友誼を結んでおくことは決して無駄にはならない。
その為にも、己の印象を少しでも残し、有用であると記憶してもらわねばならぬのだ。その為には。
「懐炉、まだまだありますよー!毛織物は肩に廻して良し、膝に掛けて良しの優れものです!手袋ですか?勿論ありますよ!…ノイズさん、ありますよね!?」
「おうあるぞ、ちょっと待ってくれ」
「お待たせしました!一緒に懐炉はいかがですか?ええ、ありがとうございます!」
己を発奮させ、売り上げに貢献する。
打算半分、意地半分。そして少しでも多く売る事がこの街の人を救う事になるという、己の信仰に掛けて。
いつまでも客は途切れず、イーサクの声も少し嗄れ始める。最初の頃は楽し気にしていた隣のノイズ親子も今では大童な様子で、それに負けじと周囲の店や他の商人たちも声を張り上げては客の気を惹く。商魂逞しいがなり声が人を呼べば更に辺りは賑わい、日中の気温と喧騒の熱に街角の雪も解けていった。そんな人々を見下ろしながら遠くで鴉がカアカア、と数度鳴いたが、幾つもの雑踏に紛れては消え失せた。
「よし、そろそろ店仕舞いとするか」
ギアがそう宣言したのは昼を多少回り、客足が途絶え始めた頃だった。しかし未だ昼日中もいいとこで、約束の日暮れまでには随分と時間が残る。減った客も昼間時を過ぎれば戻ってくるだろう。つまり、まだまだ売る余地がある。
そんなイーサクの疑問が顔に出ていたのだろう、ギアはなんとも形容しがたい笑みを零しながら言葉を続けた。
「流石にもう大して売る物も残ってないしな。それに当初の目的は仕入れだ」
そう言われて、イーサクはふと思い至る。
確かに言われてみれば売りも売ったり、山と積まれた商品の数々は幾度かの補充を経ても捌き切り、ギアから出納にと預かった革袋の中身は銀貨銅貨で溢れかえっていた。思い返せば、領主邸でも結構な量の物品を卸していた筈だ。
それだけでも充分どころの話では無かったというのに、その後に補給することも無くこの露天商なのだ。売り切ったとしてもなんの不思議もない。
「そうですか、せっかく楽しくなってきたところなのですが」
「おう、折角の休みに悪かったな。おかげで助かったよ」
そう言ってギアはイーサクの肩を何度か軽く叩く。
以前にされた時よりは大分加減されているらしく、今回は息を詰まらせるほどではない。
素人の己がそれ程役に立ったとは実感できないし、足を引っ張った恐れすらある。しかし、こうして礼を、親し気に社交辞令を頂く程度には信頼関係を築けたのだ。イーサクにとっては、その事実こそが何より価値がある。
「では、私はお役御免ですかね?」
「ああ、今日はありがとうな。ほい、約束のバイト代だ」
お道化ながら両手を横に広げ、肩を大袈裟にすくめて見せたイーサクの掌に、ギアは大銀貨一枚を落とした。
「…宜しいのですか?」
「なにが?」
心底分からないと言った風で、ギアが疑問に疑問で返す。
「賃金ですよ。約束の時間までは働いていません」
そんな言葉に、漸く得心がいったのか、ああ、と小さく言葉を洩らした。
「早仕舞いはこっちの都合だからな。俺は契約は違えねえよ」
誠実なことは美徳だと、イーサクは思う。
しかし、商人としては如何ともしがたい。契約にも金にも細かいのが商人だ。早仕舞いする場合は幾ら、延長するならば幾らと、細かい契約を提示し、あまつさえ己が有利に仕込んでおいて相手に不利を悟らせないのが所謂「腕の良い商人」だろう。
しかし、そんな商売慣れしていない商人だからこそ、イーサクにとっては繋がるだけの意味があるし、義を重んじるギアだからこそ「青い牙」の一員としても益がある。人の好い人物であればこそ、このナーファンの街にとって、領主にとって価値がある。
お人好し、という言葉はあまり好きではないが、きっと彼はソレなのだろう。
イーサクの口元から嘆息をしたように、フッと力が抜けた。
「そう言われるのであれば、お言葉に甘えて受け取っておきます。今後とも、是非「青い牙」のイーサクを御贔屓に」
「ああ、こっちこそ機会があればまた頼むよ。皆にもよろしくな」
「ええ、勿論です。ところで、この後はどうされるのですか?」
「目的は仕入れだって言ったろ?なにか名産品でもいいし、日用品でもいいんだけどな。この街で稼がせてもらった分、還元だ還元」
「成程それは。良いものが見つかるよう、お祈りさせていただきます。では、またお会いしましょう」
「そうかそうか、ありがとう。またどっかでな」
そう言って握手を交わすと、イーサクは雑踏に混じり、帰路を急ぐ。
まだまだやらねばならぬことは多いし、折角空いた時間なのだからなるべく休養も取りたい。帰ったらアレをしてコレをして、と頭の中で巡らせていたイーサクはずっと抱いていた違和感の正体、その一つに行き当たった。
少し浮かれていたのか気が回らなかったが、今日一日の観察から予測されるギアの収納魔法の許容量。イーサクの知る限り「収納魔法」と言うものは魔法の中でもかなり特殊な存在で、魔法の才能があれば発動するというものではなく、収納魔法が使えたからと言って魔法が行使できるという代物でもない。
云わば「収納魔法」という名の才能だ。
それでも魔法が得意なものに顕現する可能性が高く、その能力が大きい程容量も大きい傾向にある。そして、その娘は魔法の才能を有している。
つまりは、ギア=ノイズという人物は。
「いやいや、まさか」
小さく首を振って、その想像を打ち消した。
剣の腕もゴブリンの集団が問題にならない程度には良く、収納魔法が行使できるというだけで充分に出鱈目な存在だ。貴族や国家が囲っていておかしくない一流の戦士が市井をうろついているだけでもおかしいのに。
この上、魔法の才能まである筈がない。
神話の登場人物や英雄譚でしか見られないような存在が王を目指すでも国を興すでもなく、街角でのんびり銀貨何枚の商売に勤しむなど、御伽噺にしたって出来が悪すぎる。その力を以て魔の森を切り拓く等と言われた方がよっぽど現実的だ。
今日は色々あって、考え過ぎているのだろう。睡眠不足も相まって、思考が飛躍し過ぎている。ギア=ノイズという男は、イーサクの知る限り一度も魔法を行使してなどおらず、その知識がある様子も無い。それが事実で全てなのだ。
濁った思考を洗い流すように自嘲混じりの溜息を吐き零すと、歩を速める。今はただ、早く帰りたい。
未だ沸々と鍋の底で煮え立つような違和感は、終ぞ冷ますことが出来なかったので、忘れることにした。




