50.燃え立つ氷像-2
そろそろ朝の訪れという時刻、とはいえ外は未だ暗くハラハラと降る雪は薄っすらと積もり、外は積もった雪が辺りの音を全て吸い取っているかのように静けさに包まれていた。
パチパチと火の粉が僅かに舞う音が暖炉から聞こえるだけのラウンジで、カップに注がれたばかりの、湯気を立てた薄挽珈琲をイーサクは一息に呷る。傍から見れば舌を焼きそうなものだが、躊躇いも気負いも無く飲み干すと、ふう、という満足そうな溜息と共にカップをソーサーへと戻す。カチャリと、澄んだ音が一つ鳴った。
「いやはや、助かりました」
「また随分と朝が早いじゃあないか、それとも僧職だと普段からこんなもんなのかい?」
嫌味、という程ではないが「流石に時間を考えろ」程度には釘を打っておく。何かの漫画だかドラマだかで見た「雪空の下、相手が気付いてくれるまでいつまでも耐え忍ぶ」という場面は、物語だからこそ感動的なのであって、現実でやられればいい迷惑でしかない。
流石に眺めている訳にも放っておく訳にもいかず、偶々に通りがかった宿の荷運役らしき人間を捕まえ、許可をとってこうしてラウンジへと招き入れたのだ。
「申し訳ありません、どうにも気が急いてしまったようです。年甲斐もなく、と笑っていただければ」
そう言ってまた一口、カップをズズズと啜る。
それほど残っていなかった中身は、どうやらすっかりと飲み干されてしまったらしい。
「…まあ、いいんだけどな」
そう、まあいいのだ。
どうせ自分は起きていたし、手持ちの沙汰が無いとまではいかなくとも、何をしていたというわけでもない。もし仮にこれが愛娘の安眠を妨害したとなれば、鉄拳制裁の判断が下された可能性は無くも無いが、そうでなければ目くじらを立てる必要も無い。
そう結論付けるとギアもイーサクに倣い、目の前の薄挽珈琲に手を伸ばし、一口啜る。
こんな時間の突然の来訪者に対しても邪険にすることなく、これほど丁寧なサービスを提供するというのは流石に「お高い」と評価されるだけはある、と益体も無い事を考えながら。
そうして一口啜ってみれば、淹れたての、湯気を立てるカップの中身は当然と言えば当然だが、熱い。
こんなものを一気に呷るとは、余程凍えていたのだろう。
「しかしこの雪だ、外はさぞかし寒かったろう」
「いえいえ、とんでもない。何をおっしゃいますやら」
労い、という体の、当たり障りのない天気の話は取っ掛かりの常套手段だ。
しかし返ってきた言葉は随分と予想から外れ、また幾分かの含みが込められている。そんなはずがないだろうとでも言いたげに。
「ノイズさんに譲っていただいた毛皮のおかげで、寒さなどびくともしませんよ。成程、自信を持って売るだけのことはあると青い牙全員で舌を巻きました」
「……え?」
「寒さに対するこれほどの耐性、暖かく柔らかいのに恐ろしいほどに軽い。まるで纏っていないかのようです。これで大銀貨6枚は少々安すぎますね、有事とはいえ、サービスし過ぎでは?」
わかっていますよ、と言わんばかりにニヤリと微笑むと、糸目を更に細くして此方を見つめてくる。
「い、いや…」
そんなはずはない。あの毛皮にはそんな御大層で摩訶不思議な効果など込められてはいないのだ。しかし、ここで「そんなはずがない」と告げるのは躊躇われる。確かに件の毛皮の説明文には「軽くて暖かい」と言及されてはいるが、その僅かな文言が此処まで効果を発揮しているというのは流石に予想外だ。
これは他に販売を予定している物品に対しても検証する必要があるか、と心の中のメモにそっと認める。
想定の埒外と言えばその通りだが、さりとてその効果を体感してくれているというのに水を差すのも悪いし、折角感じてくれている商品価値を自ら下げる必要も無い。
「いや、そこまで喜んでもらえるとは。商売人冥利に尽きるってもんだ」
しらばっくれる。否、調子を合わせ喜んでもらうのが上策と言うものだ。
「ハロルドも言っていましたが、これほどの毛皮ならば平時でも金貨一枚は堅いと思いますよ。…値付けの理由は、こと一大事中のサービスというだけ、なのですか?」
そう言い放ち、イーサクは更に笑みを強めるが、先程までのものは少しばかり媚びるような色を含んでいた。しかし、今見せている物はどちらかと言えば攻撃的なもの。有体に言って挑発じみた、威嚇の様な笑みだ。
「ふっ…」
どうしよう。
ギアの胸中を端的に表すのなら、その一言。
なるべく余裕の表情を崩さず、ニヒルだと自分では信じている態度を取ってはいるが、心中では汗が止まらない。
以前に聞いた毛皮の相場から、寒い時期なら少しぐらい高くても売れるだろうと少々色気を出しただけで、ぶっちゃけ深く考えてはいませんでした、と正直に言えるのならばどれ程楽だろうか。
どうにも研究畑から意識が抜け出せないのか生来の気質なのか、営業職時代にも同じようなミスを何度かやらかしている。
見積もりと言うものは、高くても安くても、「理由」が必要だ。
高値を付けた場合でも「ただ単に高いだけ」や「ブランド料」と思われては当然のように敬遠されるし、安値を付けても「安かろう悪かろう」だの「在庫処分」だのと判断されれば、やはり選択肢には入らない。
高いなら高いなりの、安いならこれこれこういう理由で安いという「名目」が必須となるのだ。
別にソレが真実である必要はない。「成程、そう言うものなのか」と客側が頷くことが出来れば、十分に具備するものだ。
しかし、今のギアにはその持ち合わせがない。
知らなかった、気付かなかったと率直に言えば、物の価値を理解していない行商人の出来上がりとなり、今から正に大口契約を結ばんとする相手に大きな不安材料を与えるだけだ。「やっぱりこの話は無かったという事で」という苦い記憶を呼び戻すのは是が非にでも避けたい。
しかし、分からない。この問答の正解が、新領主とやらの納得のいく正道が。
取り敢えず必然なのは、誤魔化しだろう。
当たり障りのない天気の話題とくれば、次に話題反らしに鉄板なのは家族の話だ。
「…ところでイーサクは、結婚とかは考えていないのか?」
「え、ええ…結婚ですか…。一度神に身をささげた身としては、そう言うものはなんとも…」
しまった、と心の内で悪態を吐く。
僧に身をやつしたとあれば、結婚観に疎いというのも想定して然るべきだった、と。
「…そうか。結婚はいいぞ、とは言い切れないが、まあ…子供はいいぞ。これは間違いない」
自身の経験から言えば、失敗しているものを他人に勧めるわけにもいかないが、諦めていた子を得るという望外の喜びには、日々碌に信じてもいない神に感謝を捧げる程だ。
しかし、話の着地点、というよりも出発点が掴めない。伝えたいことが無いのだから当然とも言える。
「…なあ、イーサク。例えば、毛皮一枚に金貨一枚と値付けをしたとして、どうなると思う?」
悩みぬいた末に出た言葉は「分からなければ相手に聞けば良いのだ」という、ある意味自然、ある意味憮然な結論からだ。意味深な言い回しと強気な態度は崩すことなく「どうせ分かっているんだろう」という、押しつけがましい表情も忘れない。己がまるで分かっていないという事は、凍り付くような笑顔の裏に隠し曖気にも出さない。
しかしそう問われたイーサクは暫し言葉に詰まる。
これ程までに効果の高い「毛皮」を、格安で売り歩くというギアの態度はどう見積もっても裏、或いは何かしらの思惑があり、それはこのナーファンの街、ひいては現領主に少なくない恩を売る、というのが最有力であった。だからこそ交渉の余地があると判断し、こうして動いている。
しかしこう面と向かって問答を怎麼生と投げられては、まさか「恩を着せる心算だろう」とはなかなか言えない。
武力も財力も、得体の知れない圧も持ち合わせる相手を前にこの程度の推測、もとい邪推でもって「説破」と叫ぶだけの度胸は、流石にイーサクは持ち合わせていない。
つまりはただ真摯に、思ったまま、感じたままを答えるしかないのだ。
「…このナーファンの街の住人、ノイズさんが想定しているであろう平民層で言えばおよそ三割は、まず買えませんね」
三割という数値は随分と大雑把なものだが、それほどズレてはいないだろう。住民の内訳で言えば独身も少なくは無いが、大部分は家庭持ちだった筈だ。一人分を賄えれば良い独身と違い、家庭持ちならば全員分を揃える必要がある。
貧民は貧民なりに模合やら無尽講といった互助組織を形成はするが、そこには当然順番というものがあり、誰かに鉢が回ればその他は割を食う。
例えば、ある家庭がこの毛皮を何枚か入手できたとして。それが、家族全員に行き渡らないとしたら、家庭に一、二枚しか行き渡らなかったとしたら。そして他に暖を取る手段が一切得られなければ。
祖父母は、老い先短い身には不要と固辞するだろう。
父親は、この程度と見栄を張るだろう。
母は、愛する子らに与うるだろう。
それは美しい。そう、美しいまでの家族愛。だがそうして行き渡らなければ、この寒さが長引けば、後に残されるのは。
毛皮一枚を纏い、家族と生きる術を失った未曾有の孤児だけだ。
勿論、平民の間にも貧富の差というものがあり、多少なりとも貯蓄をしている者、宵越しの銭など持たぬ者と別れる。だからこの想定は大袈裟大雑把、最悪の最悪という代物でしかない。
しかし、僅かでもその可能性があるというのは頂けないし、目を瞑れるはずもない。
生産人口が失われる、というだけではない。その分取れる税が目減りするという算用でもない。
そう言えば、とイーサクは思い至る。
確かにギア=ノイズという男は、自称かどうかはさておき商人だ。
その行動にも言葉の端々にも、打算や計算が垣間見える。己の安全やその娘の安寧を第一としているのは間違いないだろう。
しかし、イーサクからしてみれば義に厚いというのもまた確かだ。
そうでなければ、あの時ゴブリンに襲われている「青い牙」など万が一の可能性を考えれば見捨てている。より非道い話をするのならば、ゴブリンに圧され哀れにも躯となった「青い牙」から装備や財布でも剥ぎ取れば利益としては最大となる。そして、そんな話は悲しいかな、ありふれているのだ。
余りにも安い値付けの意味。
これ程までに効果の高い毛皮を、高々大銀貨で6枚。恐らくはかなりの容量と推測される収納魔法があるからこそ「損では無いにしろ利にもならない」位だろうと予想出来るが、これが荷馬車を引く、ごく普通の商人であれば大赤字も良いところだ。
全てを救える、とは思わないまでもなるべく多くに行き渡らせると考えているのだろう。
それ自体は、イーサクの立場からすれば有難い。
領民を想う現領主の理念にも沿うし、実利も伴う。しかし、それが元でこの目の前の自称商人がナーファンの街で人気が出てしまうと些か宜しくない。
いや、人気が出る程度で留まれば問題は無いのだが、住民から英雄視され、一時的にでも現領主より支持を集めてしまっては問題となる。
現領主の立場もそうだが、最悪ギア=ノイズという男と敵対しなくてはならない可能性が出てくる。
それを避けるためには。
自身が、誰よりも上手く立ち回らなければならぬ。
イーサクは、今一度硬く尖った氷のような冷静さを取り戻さねばと己を戒めた。熱く早鐘を打つような己の心臓を諫めながら。




