5.初めての再会-5
柔らかな日差しの中、中級解毒薬によって回り始めた思考で、悟はようやくそこまで思い出すことが出来た。
鏡の中の自分は軽薄そうな笑みを浮かべながらも若干ひきつっている。これが自分の顔だとはどうしても認識できないが、口や目を動かしてみれば鏡の中もその通りに動く。
改めてよく鏡を見直せば、細かく作りこんだことを思い出した。瞳の虹彩の、緑から金に変わるグラデーションという現実にはあり得ない色合いは二人でお揃いにしたもので確か課金要素だった。顔の左側、眉の上から頬骨の辺りにかけて残る三本の爪痕のような傷は元恋人の飼い猫に構い過ぎて引っかかれた時のものを再現した傷だ。こんなところにも元恋人の残滓があるのかと驚くが、今すべきことは思い出を懐かしむことではない。
かと言って、何をしていいかはさっぱりわからない。これが夢ならばいつ覚めるのか、どうすれば覚めるのか。
夢でなかったら。
それこそお手上げだ。
原因はやはりタブレットなのか。本当にそんなことがあり得るのだろうか。タブレットにデータを移行させたら、自分がゲームキャラになってしまうなんて。理解できないことだらけだが、手掛かりはコレだけだ。悟は恐る恐るタブレットに手を伸ばした。
画面には様々なポップアップが重なっており、その一番上に『完了』の文字が表示されている。
ごく普通の、何の変哲もない表記だ。しかしどうしても覚える違和感。カレー専門店に行ってカレーを注文したのにかつ丼が出てきた。そしてそれを自分以外の誰もが疑問に思わない。そんな自分の認識がずれているとたたきつけられているような違和感。
「あっ!」
その違和感の正体に気づいたとき、悟はつい声を出して叫んでしまった。
「どうかされましたか?」
そばにいるプニが怪訝そうにこちらを伺うが、それを片手で制す。
画面に浮かぶ『完了』の文字。それは日本語ではなかった。あの見たことのない謎言語だったのだ。
その、謎言語をなぜ今は読めるのか。理解の追い付かない今の状況はなぜ起こったのか。
額に浮かんだ汗をぬぐい、画面の中央で重なっているポップアップを睨む。この中に、答えがあるのかもしれない。
若干震える指先で悟はポップアップを一つ一つスライドさせ、逸る気持ちを抑えながら書かれた文字を読んでいく。やはり謎言語だ。そしてやはり問題なく読めた。
『使用者登録』『成功』
『言語理解-導入』『成功』
『使用制限解除』『成功』
『情報移行』『成功』
『情報を元に再構築』『成功』
そんな文字がいくつも続いていき、読むたびに不安が増していく。『使用制限』とはいったい何を指すのか。何を『再構築』したというのか。そうして重なる文字を漁っているうちに、見逃せない表示を発見した。
『使用者位置変更申請』『成功』
『使用者転移-グランディア平原』『成功』
申請。
誰がそんなことを申請したというのか。他人の居場所を勝手に変更するなど、最早誘拐ではないか。悟はそう憤ったが、ふと思い出す。読めもしない文字のポップアップを「なんとなく」で適当に連打したことを。まさかとは思うが、あの中に「転移を申請しますか?」といった内容の質問でもあったのだろうか。
しかしもしあったとして。仮にあの時にこの謎言語が読めていたとして、本当に転移するなど誰が想像するというのか。
こんなものを作れるとしたら、それは神とか悪魔とか言われる存在なのだろうが、悟の中では悪魔で決定だ。あまりに性格が悪い。
原因は分かったが意味は分からない。そんな鬱屈とした感情が胸に渦まく。あまりの苛立ちに、衝動的にタブレットを壊してしまいそうになるが、なんとか押しとどまる。これは今のところ唯一の手掛かりだ。失ってしまうのはまずい。
本当ならひたすらにタブレットを漁って手掛かりを得たいところではあるが、そういうわけにもいかない。未だ陽は高いが、いずれ傾き沈むだろう。なんの用意も無しに野宿はさすがに勘弁願いたいし、最悪自分一人ならそれを我慢できても、娘にそれを強いるという選択肢は悟は持ち合わせていない。
ここから移動し、最低でも雨風をしのげるような場所を見つけなくてはいけない。人里などあればいいが、出会った相手が友好的とは限らないし、標準的な服装や文化習慣も異なるだろう。怪しく思われる可能性は高い。接触の際はよくよく慎重にならなければいけないが、それでもここに留まるよりはずっとましなはずだ。
「…とりあえず移動しよう」
「了解しました」
悟の一言にプニはこくりと頷く。
そう告げたはいいがしかし、どこへ向かえばいいのか。辺りは草ばかりで、それこそ右も左も同じように見える。せめて街道なりが見えてくれればいいのだが。
悟が悩み天を仰いでいると、目の前のテーブルに水の入ったグラスが差し出された。
「どうもお疲れの様子でしたので。水でも飲んで一息つきませんか?」
「ありがとう、助かるよ」
よく冷えた水を一気に飲み干せば、胸のつかえも取れるようだった。
やはりプニは優しく、気遣いのできる良い娘だ。「うちの従者が一番カワイイ」スレに参加したことはなかったが、今なら入り浸るかもしれない。そんな愚にもつかないことを考えていると、ふと気になることがあった。
「なあ、プニ。聞いてもいいか?」
「なんでしょうか、マスター」
「…今、水どこから出したんだ?」
そう、プニはほとんど手ぶらだったはずだ。水なんて持っているように見えないし、そもそもガラス製のコップを持ち歩くだろうか。思い返してみれば中級解毒薬や真実の鏡も、持っていたようには思えなかった。
「アイテムボックスの中ですが?」
こともなげにそう答える。何故そんな当たり前のことを聞くのか、と言わんばかりだ。
「アイテムボックス?」
「ええ、ほら」
言いながら、プニは空中にすっと右手を差し出す。
すると右手は肘から先辺りまでが音もなく空中のなにかに飲み込まれるように消える。しばらくして引き出すと、そこにはガラス製の水差しが握られていた。
確かにゲーム内ではアイテムボックスというものがあった。
重量制限があるし時間経過でいつの間にか肉や野菜等が腐ってしまうこともある仕様だが、もし現実に使えればそれは重宝する能力だろう。しかし、ゲームであればアイコンをタップなりクリックなりして使用するのだ。どうやって使えばいいのか、わかるはずもない。
悟はアイテムボックスを意識しながら、先ほどのプニを真似、手を空中に差し出した。何もない空中で、手が何かに触れる。硬い水面のような、柔らかい板のような不可思議な感触。そのまま手を押し込んでみると、するりと空間に飲み込まれた。そして唐突に理解する。
まるでアイテムボックスを生まれながらに使えていたように、息を吸って吐くのと同じようにごく当たり前の動作として認識できたのだ。
なるほど、こう使うのか。
スライドさせ、スクロールし。しばらく、アイテムボックスの中身を確認する作業に没頭する。
中身は確かにかつて自分が集めていたもので、様々なアイテムや武器等が整理されている。戦闘に役立ちそうなものは多いが、旅路に使えそうなものはあまりない。
ゲーム内では、拠点の『倉庫』ならば重量制限も時間経過もないのでそういった細々としたものは『倉庫』にしまっておいて、その都度取り出すのが一般的だった。
しかし、『倉庫』は拠点にしかない。失われたのか、どこかにあるのかもわからないが、今使えないということだけは確実なようだ。
「やっぱり倉庫が使えないのは痛いな」
つい愚痴が零れる。
「倉庫、ですか?」
「ああ。倉庫がありゃ必要なものも大体揃ってるはずだし、移動だってぐっと楽になるはずだからな」
その言葉に、プニは小首をかしげる。
そしてテーブルの上のタブレットを指差してこちらを見た。
「あれは、倉庫ではないのですか?」