49.燃え立つ氷像-1
なんとか自身に課したノルマは達成できた…
『召喚…逸脱超強化を発…多重過負荷…始』
囁くような、呟くような、小さな小さな声。
何処かで聞き覚えのある声だ。
しかし、何処で聞いたのかがどうにも思い出せない。確かに知っている筈なのに。
『異界門転……拐…、…球…日…、……、…宿……ウル…ルマ』
小さな黒い影は、ひたすらに唱えていた。祈るような、乞い希う様な必死さをもって。
その音色は何故か強く悟の胸を穿った。
明らかに無理をしている。無理に絞り出すような、絶え絶えに零すようなその響きは、どう聞いても肉体を、寿命を犠牲にするような音だ。
助けてやりたい。力になろう。救わなければ。
そんな強い気持ちが沸き上がり、必死に手を伸ばすが、その小さく儚い、今にも消え入りそうな黒い影は遥か眼下、遠く離れた地上にポツンと独り佇むのみだ。豆粒よりも小さくしか見えない影だが、そうだと分かる。
こんな場所からでは届かない。もっと近くへ。今よりも遠くへ。
それにしても雑音が酷い。
ザラザラと喚く古いテレビの砂嵐のような騒音がやたらと耳を穿ち、単語単語の一部がようやく拾える程度で殆どが聞き取れない。
それでも、呼ばれているのだ。求められているのだ。
行かなければ。そうだ、行かなければ。この手を伸ばして、この身を下ろして。
悟は酔いの回った己の頬を一つ打ち、酒精に鈍る意識を無理矢理に起こすと、大きく足を一歩前に…
「ん、んん…?」
眼の奥が突っ張るような、額を強く抑えられたような奇妙な感覚に戸惑いながら、ギアは眼を覚ました。
酷い悪夢を見たような、賢しい明晰夢を見たような奇妙な感覚が未だ脳の奥に残るが、その記憶は残っていない。戸惑いながらも辺りを見回すが、部屋の中は暗く鎧戸からは僅かの明かりも漏れていないことを鑑みれば、未だ陽の登らない時刻なのだろう。
ふと傍らを見れば圧迫感を覚えた左腕はやはりと言うべきか、愛娘の枕と化していた。
今までは布団にこそ潜り込めど律義に枕を持ち込んでいたプニであったが、次第に横着になったのか面倒にでもなったのか、ここ数日は父親たるギアの肩なり腕なりを枕にしていた。
なにせ外はこの寒さだ。
冬にひと肌が恋しくなるのは至極当然だし、くっついてしまえば暖かい。親の愛を求める幼子であれば猶更だろう。
スヤスヤと寝息を立て、小さく開いた口元から僅かに涎を零している。シャツの袖、上腕辺りに出来た小さなシミが少しばかり冷たいがまあ些細なことだろうとうっかり出かかった言葉を飲み干す。
年頃の愛娘に「涎垂れてたぞ」と指摘するほどには野暮ではないギアは、適当な布地でプニの口元をそっと拭ってやり、証拠を隠滅する。
「んむう…」
拭われたのがくすぐったいのか煩わしいのか、その小さな口からくぐもった声が零れるが、娘が眼を覚ます気配がない事にギアは小さく安堵を洩らす。
それにしても、中途半端な時間に目覚めてしまったようだ。
イーサクは「朝一で迎えに行く」とは言っていたが、流石に陽が上る前を指してはいないだろう。
酒精に乏しいせいか奇妙な夢のせいか、やたらと頭は冴えてしまっており、もうひと眠りという気分でもない。これでもう少し酒が回っていれば未だ起きなかったのだろうが、「父親が常日頃から酒臭いのは娘の教育に悪いのではないか」と、今更ながらに思い至ってからはそれなりに自重をしている。
これが独身貴族、もとい気ままな独り暮らしの頃の杉田 悟であればここから迎え酒となるのだが、今や一児の父親であるギアは鋼の忍耐力でもって己が欲望を抑え込む。間違っても愛娘から「お酒臭い」等と評価されれば、絶望の淵に叩き込まれるという確信がある。
起こさぬよう、娘の頭を優しく持ち上げ、出来るだけ静かに腕を抜く。衣擦れすら鳴らさぬよう慎重にベッドから離れると備え付けのテーブルへと向かい、そこにタブレット端末を置く。なるべくゆっくりと椅子に腰かけたが、木製の脚が僅かにミシリと鳴った。
「…ふう」
愛娘が眼を覚ます様子の無い事に、小さく安堵を洩らす。
折角の、と言うわけでもないが偶然に沸いた独りの時間、無為に過ごすのも勿体ない。今日の予定が上手く行けば、少なくとも毛皮の類であればこのナーファンの街でも販売が出来るようになる筈だ。
「青い牙」の面々に譲ったような、特に何の効果も付与されていない魔獣の毛皮であれば倉庫に数えるのが莫迦らしく成程ある。
余りに売り過ぎると目立つだろうし、割を食った地元の商人に目を付けられる可能性も少なくない。だが、これは云わば人助けだ。そのついでに情報を集めたり、儲けさせてもらうつもりではあるが、此処で臆せばナーファンの街で凍死者が出るだろう。
なるべく恨みを買わないよう、それでいて多くの人に回るようにしなければならない。
そんなことをつらつらと考えながら、ギアは己のアイテムボックスに手を突っ込み、倉庫から幾つか取り出しておいた魔獣の毛皮を探り当て、軽く手を触れた。アイテムボックス内で手を触れることで、ギアの脳内というか眼前と言うかには、そのアイテムの特性とフレーバーテキストがゲームの頃そのままに浮かび上がる。
『魔獣の毛皮――交易品 加工品 素材 :付与 無し|魔獣から剥ぎ取られ丁寧に鞣された大きな毛皮、非常に軽い。とても暖かく、寒さを寄せ付けない』
ゲーム内でも初期に手に入る為、特別な効果も無い、何の変哲もないただの毛皮だが、それでも毛皮は毛皮だ。「青い牙」全員が「とても暖かい」と評し、お世辞でもなく非常に喜んでくれたことを思えば、この寒さへの備えとしては十分効果が有るだろう。
これよりも少しだけ良い、一応は魔法の効果が有る「雪白狼の毛皮」も、一応はサンプルとして幾つか持ち出している。
『雪白狼の毛皮――加工品 素材 :付与 氷属性耐性 +12|雪白狼から剥ぎ取られ丁寧に鞣された大きな毛皮、かなり軽い。とても暖かく、寒さを寄せ付けない。その白い輝きはちょっとゴージャス』
フレーバーテキストで遊ぶのは、こういったゲームではある意味お約束のようなものだが、実際に取り出してみれば確かに真っ白でシミ一つない毛皮の輝く様は、ゴージャスだと思わないでもない。
流石にこの僅かにとはいえ魔法の効果がある「雪白狼の毛皮」を出回らせるのが少々拙いこと位は理解できるし、そもそも値付けの相場が分からない。
しかし、市場に出回る物よりも少しばかり良いものとなれば、領主様に献上する――決して賄賂ではなくあくまで――贈り物としては悪くないのではないか。
領主様はギア謹製の火魔法が込められた『約束の火炎指輪』を欲しているのなら火耐性と対になる氷耐性も備えていても良いのではとか何とか言って勧めてしまえばいい。
耐性と言ってもギアからすればどちらも心許ない、どころか誤差の範囲でしかない数値だが、まあそれを態々伝える必要はないだろう。
なんとか喫緊の課題の一つでもあった、「此方の世界で金を稼ぐ」というのは目途が立ったと、アイテムボックスに手を入れながら想いを巡らせていたギアが小さく安堵を洩らす。まだ結果の出ていない、文字通りの皮算用ではあるが。
そうすれば、次なる課題は。
「…コレ、だよなあ」
ふう、と少しばかり大きめな溜息を吐いた。
先ほどの溜息が安堵からなら、この一息は答えの見えない憂慮からだ。
それは、日本円。
もっと言えば、通販サイト「ARIZEN」内で使用できる通貨の確保だ。今のところ、頼りの綱は元の世界で登録してあったカードのみ。此方の世界では流石にコンビニにでも寄ってデジタル通貨を購入してチャージ、というわけには行かない。
やはりコレしかないかと登録料を払い、「ARIZEN」内の出品サービスに申し込んではいたのだが、未だ何を売るのか決めあぐねていた。
「…毛皮、はまあ駄目だ」
なにせ魔獣という、謎生物の皮だ。元の世界に近縁種が居るのかも分からないし、何某かの条約だったり検疫なりに引っかかる恐れもある。
次に食品関係も総じて没になる。
元の世界には食品衛生法というものが有るし、保健所にだって登録して許可を得なければならない。万一販売できたとして、食中毒騒ぎでも起こったら目も当てられない。
魔法道具の類。
これも厳しい。効果の大小に関わらず、怪しい事この上ない。ただお湯が尽きないだけのポットも、身に着けると暗闇で明かりを必要としなくなる「暗視のイヤリング」も、ゲーム内では微妙とも言えない性能で先ず使わないゴミアイテムでしかないが、現実にあれば理解すら及ばない謎技術だろう。
家具や壺、彫刻といった調度品。
ほとんどがギアの手作り故、銘や刻印といったものは無いが、無名の職人の手によるものだとか出所不明の骨董品だとかにしてしまえば、売り物に出来ない、という事は無いだろう。
衣類。服や帽子、マントの類。
こちらもメーカー製と違ってサイズ表記やタグ等は一切ないが、いっそこれも「ハンドクラフト」とでも銘打ってしまえば、売るのにそれ程支障は無い、ような気がしないでもない。
「…まあ、やっぱりここ等辺だよな」
そう自分に言い聞かせるように呟く。事実、言い聞かせているのだ。
これらの登録自体は然程難しくはない。
商品の写真はタブレットのカメラで撮影できるし、売りに出す商品もある程度固まった。商品の概要欄は、慣れないながらもタブレットからそれぞれのページを作成してある。あとは画像を適当に張り付けて、商品を『公開』すれば販売開始となる。
ただ、あと一歩の勇気が出ない。本当に売れるのか、売れたとして何か問題は無いのか、致命的な見落としが無いか。法に引っかかったりはしないか。
此方の世界の代物、ですらない『URMA KARMA』という、謎の世界の物を現実の世界に送るという行為が果たして正しいのか、何かトラブルを引き起こさないだろうか。
そして一番懸念されるのは、そういったトラブルが元で、ギアのアカウントが停止されるという事だ。もしそうなれば、ギアは詰む、とまでは行かないまでも不自由はするだろう。いっそ必要と思われるものは今のうちに買えるだけ買ってしまえという乱暴な考えも頭を過ったが、本当にそれをしてしまえばいざ元の世界に帰れた時に、本当に詰んでしまう。
娘にシャンプーの一つも買ってやれなくなるというのはどうしても避けたいが、ここぞという時に残高不足で「ARIZEN」が使えない、という事態もご免こうむる。そう何度も考え、魔法的な効果の一切ない、若しくはあっても不自然に思われない物ばかりを選んでいる。
大丈夫だ、何度も確認したのだと再度己に言い聞かせる。
後はポンとひとつ『公開』をタップすれば、行商人ギア=ノイズのオンラインショップ開店となる。
いつまでも逡巡しているわけにもいかない。いい加減覚悟を決めろと自分を奮い立たせ、僅かに震える左手の指先をタブレットへと伸ばす。
その時、カラカラカラという音が聞こえた。
音自体は聞いたことがある。恐らくは馬車を曳く音だ。しかし、幾つも重なるように響くのは、何台か連なっているのか、それとも大きな馬車なのか。
そして時間。未だ陽の登る様子すら伺えない、早朝というよりも真夜中といった方が正しい時刻に、馬車を曳くというのは、無いわけではないのだろうが、少しばかり怪しい。静まり返った夜の冷たい空気は、馬車の音をやたらと響かせる。
どんどん大きくなったかと思うと、突然馬車の音がピタリと止んだ。
どうも、この宿の前に着けたらしい。
ギアは、まさかな、とは思いながらも静かに窓を開け、下を行く通りに目をやった。
案の定と言うべきか、そこには宣言通りに三頭立ての立派な馬車が止められており、そのすぐ横で直立する不動の僧侶、イーサクの姿が目に入る。
「…いや迷惑だろ」
此方に気付いた様子も無く、ただ佇むだけのイーサクからすれば陽が昇るまで待つ心算なのかもしれないが、待たれる側の、それもごく一般的な小市民の身としては気を遣って仕方がない。
ハラハラと舞う雪は少しずつイーサクの上に積もり、その頭部と羽織った茶色い毛皮を白く染め上げ、出来の悪い雪像か何かにも見える。
ただ、その表情。
目的を達成せんとばかりに使命感に燃え、それでいて自信に満ち溢れているようにも見えるその表情――そこそこ距離があるので伺い辛いが、きっとそんな顔をしているに違いない――に、少しばかりイラつきを覚えたのは、態々伝える必要はないだろう。
「…まあ。仕方ない、か」
特段イーサクに悪気があるわけでもない。
きっと領主様とやらの命令でそうしているだけだろうし、真面目なイーサクが殊更気を張ってしまうのも仕方ない。
プニを起こさぬようそっと窓を閉め、音一つ立てずに部屋を出ると、イーサクを迎えにと、ギアは階下へと向かう。
ギアの居なくなった部屋。先ほどまで立てていたプニの微かな寝息も、今はすっかりと静まり、後に残されたのは静けさのみだった。




