23.眩しい闇夜-5
薄暗い部屋の中、ガタリと音がして明り取りの窓が開けられた。窓からさす柔らかい朝の光がギアの瞼を照らす。
「おはようございますマスター。今日も良い朝ですよ」
天使の囁くような声で、ギアはようやく目を覚ます。窓から零れる朝の光、小鳥のさえずり、優しい娘の起こす声。文句の付けようのない、最高の朝だ。
ふああ、と欠伸を零し、ギアが満足そうに小さく頷く。
「ああ、おはようプニ。本当にいい朝だな…」
とそこまで言いかけてふと、何かが引っかかった。何かを忘れているような、喉に魚の骨が引っかかったような違和感。それは例えば、部屋の中に乱雑に積み上げていた荷物やたたみもせずに放り投げていた着替えがすっかり片付き、部屋の中には何も残っていない事。例えばいつもは必ずギアの方が先に起きるのに、今日は娘に起こされたのだという事。それは例えば、窓から朝日が差している事。
「あ、あれ?朝?」
そう、朝だ。暗いうちには起きて支度を整え、夜明けとともに発つ。そう予定していたにも関わらず、どうやらすっかり寝過ごしてしまったらしい。どれほど深酒をしようと起きたい時刻に起きる、という微妙な特技に細やかな誇りを持っていたギアとしては些かショックが大きい。しかもよりによって出発の日である。この身体になってからというもの、肉体的な疲労とは無縁だった。それ故か随分と自らを過信していたのかもしれない。精神的な疲労、というのも感じている気配は無かったが自覚が無いだけ、だったのだろう。
寄る年波には勝てない、という事なのかただ単に自分が間抜けなだけなのか。どちらにせよ少々落ち込む。起き抜けの回らない思考でそんなことを反芻しているとプニがクスリと笑みを零しながら声を掛けた。
「良く眠っていましたからつい起こすのをためらってしまいました。もう少しマスターの寝顔を堪能してもよいのですが、そろそろ準備をしませんと」
「いやあ、まさかすっかり寝過ごしちまうとはなあ。すまんプニ、エールは控えたはずなんだが」
「晩酌のどぶろくも控えられたら、時間通りに起きられたかもしれませんね」
ぎくり、とギアの心臓が一つ跳ねた。
どぶろくというのは『URMA KARMA』内では錬金術の素材として扱われていたアイテムの一種だ。酒精が強く、錬金術による薬液の原液として使い勝手が良いという設定だが、酒精が強いだけあってすぐに酔いが回る。晩酌用としてアイテムボックスに放り込み、昨夜プニが寝付いた後にコッソリとちびりちびりと飲っていた代物なのだが、まさかばれていたとは思いもよらなかった。
「い、いやあ。それは、そう言われればその通りなんだが。まあ、ほら、なんだ」
言い訳をしようにも上手い文言が思い浮かばない。言葉一つをひねり出すにも懊悩し、いつばれたんだろうと煩悶する。どぶろくの数はギアしか把握していないし、証拠も一つとして残してはいないはずなのだが。
「やっぱりですか、怪しいと思ってはいたのですが。酒精が強いと匂いも残りますから」
ため息交じりにプニが言葉を紡いだ。
カマを掛けられた、と気付いたが最早後の祭り。ここで言い訳を重ねるのは娘のお小言を増やし機嫌を損ねるだけの愚策と学習しているギアは言葉を発したりはしない。ただ項垂れ、掌を開いたまま両手を上げる。お手上げ、降参の意を態度で示すのみである。そうすれば追及は大きく減るのだから、これが最善なのだ。
「ふふ、さあ出発の準備を終わらせてしまいましょう」
どうやら今日はいつもより機嫌がいいのか追撃が行われることはなかった。天はギアに味方しているようだ。このまま普段通りを装い、有耶無耶に出来るとギアは確信する。
「あ、ああ。そうだな、そうしよう。ところでプニは何をしていたんだ?」
「そうですね…少し早く起きてしまったので散策を。あとは、先に出発されたアチョールさんにご挨拶をしてから、色々と後始末や片づけをしていました」
「お、おう…」
大人の対応である。父であり保護者であり、元の世界ではれっきとした社会人だったギアが真っ先にしなければならないことを率先して行っていたのだ。父が寝過ごして高鼾をかいている合間に。
これでは「どちらが親かわかりゃしない」とアシビに言われるのも当然のことだ。もう少し父親らしくしなくては、とギアは密かに決意を新たにする。
「そうか、アチョールも出発したんだな」
「ええ。なんでも『荷車』を求めているそうです」
「へえ、荷車ねえ。なんか大物でも買い付けるつもりかな」
そういえばアチョールは「大口の仕事がある」というようなことを話していた。荷車が要る、ということならば大きな物を運ぶか、もしくは大量に物を運ぶつもりなのだろう。しかし、あのキツめの美人が荷車を引く姿が上手く想像できない。恐らく人足でも雇うのだろうとアタリを付ける。向かう先が同じであれば多少の荷物は自分のアイテムボックスに放り込んで持って行ってやっても良かったのだが、どれほどの容量があるのかを知られるのも些か拙いと思い、アイテムボックスの事は一切口にしなかったのだ。
もう少し情報を集め、ごく一般的な収納量を把握すればそれに合わせて堂々と使うつもりではいるが、まだ人前に晒すのは早いだろう。
「さてさて、俺らも負けてられねえな。早速準備して出発だ」
「ええ、参りましょう。私は準備できていますよ」
寝過ごしてしまった後ろめたさからか、暗に「早く準備しろよ」と言われているような気になり、駆け足気味に着替え、準備を整える。勿論心優しい愛娘がそんなことを思うはずも言うはずもなく、ただギアの弱い心がそうさせるのだ。道中で、どうにか娘のご機嫌を取ろうという決意と共に。
「それじゃあ、世話になったな、アシビ。またすぐに戻るから、また美味い飯とエールを頼むよ」
「ああ、気を付けて行っといで。プニちゃんもよぉっく気を付けてね。お父さんがこんなだから、プニちゃんがしっかりしなきゃね」
「ふふ、心配いりませんよアシビさん。お…マスターはこう見えてとても頼りになるんです」
フォローしてくれるのは有難いが、「こう見えて」は必要ないのではないか。そしてプニとアシビからは「どう」見えているのか。ギアは口から吐いて出そうになる言葉を飲み込む。それを言ってしまえば、何と返されるのか予想はついているのだ。
そしてギアは一瞬娘が言い淀んだのを聞き逃さなかった。あれは間違いなく「お父様」と言いかけたのだ。言いかけて、ギアの事をマスターと呼んでいる、という設定を思い出し訂正したのだろう。ギアからすれば良かれと思った行為が裏目に出た形だ。あれから「お父様」と呼ばれたことは数えるほどしかなく、少々の寂しさを覚えていた。しかし呼び方はプニの自主性に任すと決めたのだし、きっとそのうち呼んでくれるだろう、と切り替える。
「まあ、心配するなよアシビ。俺がついているんだからさ」
「余計不安になるようなこと言うんじゃあないよ」
客に対して随分と失礼な物言いではあるが、こんな軽口をたたき合えるというのはなかなかに居心地が良い。買い物をしていった客にも顔を売れたし、ギアとプニの名前も憶えられたはずだ。この村である程度は親睦を深められただろう。
人間社会で暮らしていく以上、名前と顔を知られるということは身を守ることに繋がる、とギアは考えている。勿論悪目立ちすれば余計なトラブルを招くし、世間知らずであれば良い様に利用されるだろう。だからこそ沢山の人と良い関係を築き、仲間、とはいかないまでも味方になってくれる人を増やしておくのは重要なことだ。
「そうそう、アシビ。こいつを受け取ってくれ」
つまり、アシビに素焼きの茶色い壺を手渡すのも、必要なことなのだ。
「おや、なんだい?この小壺は」
「そいつは、中に蜂蜜が入ってるんだ。世話になったからな、貰ってくれよ」
「蜂蜜ってアンタ、そんな贅沢…」
「アシビにはプニの事も色々と気を使ってもらったからな。父親としての気持ちだと思って気持ちよく受け取ってくれよ」
そう言って茶色い小壺をぐっとアシビに握らせて押し付ける。有無を言わさない、と意思を込めて。
「やれやれ、存外お父さんしてるじゃあない。こいつは有難く貰っておくよ」
ため息を吐きながらも相好を崩すアシビは、やはり歳をとっても女性。甘いものは嫌いではないのだろう。普段なかなかに見せない笑顔は、年齢による皺が刻まれながらも、若いころはきっと美人だったのだろうと思わせる。
「仕方ないね。また戻ってきたら腕によりをかけて美味い飯作ってやるよ」
「ああ、帰ってきたらまた世話になるぜアシビ」
そう言うアシビの表情は嬉しそうな寂しそうな、何とも形容しがたいもので、いつも客を怒鳴りつけている勇ましい姿からは想像も出来ないものだった。




