勝利と亀裂
天草村、軍事拠点の外から伝令兵の声が聞こえてくる。
「ほ、鳳ヶ崎 陽奈様! 急ぎ報告したい儀が!」
「どうしましたか!?」
伝令兵の焦った様子にただ事ではないと感じた陽奈はすぐにそう聞き返す。
「敵の七條軍がここより南西の位置にある竹林に布陣した模様、竹林の外にはこちらへ向けた敵先陣部隊の式兵が隊列を組んで現れました。攻め込んでくるのも時間の問題かと」
「な、なんだと!? っく、このままだと天草村が危険です。こちらも急ぎ先陣部隊を編成し敵先陣を撃退しなければ、急ぎ私に式兵をお貸しください、鳳凰旗団の先陣部隊として必ず戦功を挙げて参ります」
「そ、そうですね。では成実、頼みます」
伝令兵からの報告に驚き立ち上がった成実はすぐに片膝を着いて陽奈にそう進言すると、陽奈はその進言に従い式符を手渡そうとする。
「ちょっと待て、そんなに焦る必要はない」
「高桐さん?」
「貴様、何を悠長なことを、敵が眼前にいるのだぞ!」
「『敵を知り己を知れば百戦殆うからず』これは兵法において有名な言葉だが逆に言えば自分を見失い、敵を知らなければ百戦殆いってことだ。今のお前らがその典型だ」
「な、なんだと!?」
紅夜の言葉に対して敵意丸出しで成実が噛みつく。
「違うと言うなら敵前線部隊の数と指揮する武将の名を言ってみろ」
「ぐっ、そんなこと知らずとも――」
「敵の部隊の情報を知ることは戦において基本であり鉄則だ。敵の襲来を聞き冷静さを見失ったまま前線に出て勢いだけで戦に勝てるのなら兵法や軍略なんてものは存在しないとは思わないのか? そもそもそれで勝てるなら何故お前は何度も敗戦してるんだ?」
「ぐっ、貴様ぁ――」
「な、成実ここは少し落ち着きましょう、ねっ?」
奥歯を軋ませ睨む成実を陽奈が宥め、ようやく少し落ち着いたのか成実はふて腐れたように椅子に座り直す。
「陽奈、まずは敵前線の数と指揮する武将を伝令に聞いてくれ」
その言葉に頷いた陽奈は言われたまま敵前線の情報を外に待機している伝令兵に尋ねる。
「はっ、敵前線の兵数は式兵が三十体ほどで、部隊の指揮官は此度の七條家遠征軍の総大将でもあり七條家、総将の大揚 羽葉でございます」
「式兵がたった三十ならば十分勝機はあります。こちらの総兵力は六十、その内三十――いえ、歩兵武装の式兵を二十与えて下されば必ず勝って参りましょう」
「待て、敵軍の総兵力はいくつだと聞いてる?」
「えっと、たしか、物見の報告では三百ほどだと聞いていますが?」
紅夜からの問の真意がわからない陽奈は首を捻りながらもそう返す。
「指揮官の大揚とか言う武人は総将らしいが、腕はどれほどなんだ? 八重田より上か?」
「いえ、お姉ちゃんの話では八重田殿は現七條家最強の武人だそうなので、それよりは下だと思いますが、今まで四度の戦で兵を率いていたのは全て大揚さんで、わたしは直接手を合わせたことがないんですが、聞くところによればかなりの手練れとか」
「あんな者大したことありません、私が一騎打ちをすれば必ず勝てます」
「なるほど、(鬼島の剣の腕と霊術に関しては本物だが、鬼島以下もしくは同格と考えるのは楽観的過ぎるか、八重田以下の鬼島以上の腕と考えておくとしても、その程度の武ならただ単にこちらを挑発するような少数部隊を組み、挑発に乗ってきた敵をただ叩くとは考え辛い、だとすれば何か他に策があるはず)今まで大揚が七條軍を指揮してたのなら今まで戦の傾向とか得意な戦術とかわからないか?」
「どうですか? 成実」
「さぁ、特に変わったことは――、いつも奴らはただ単に私の突撃に恐れをなして竹林に逃げるだけですから」
「……まさかとは思うが、それを追い駆けたわけじゃないよな?」
成実の話、地形、七條軍の編成と動き、それらから導き出される敵の策に思い当たる節があり、そう尋ねる。
「は? 何を言っている。敵が背中を見せている好機を逃す馬鹿がどこにいる」
その言葉を聞いて紅夜はどうして成実の部隊が簡単に全滅するのかがわかり、さも当然のようにそう返してきた成実に対しため息をつく。
「確認だが、四度とも同じなのか?」
「ああ、それがどうした?」
「(馬鹿はここにいたか)いいか、この初戦はある命令さえ守ると言うなら必ず勝てる」
頭が痛いと言わんばかりに額に手を当てた紅夜は、呆れながらそう言い切った。
「本当ですか!? それでその命令とは?」
陽奈にそう聞かれ紅夜は自分の考えを二人に話した。
紅夜を嫌う成実は素直に言うことを聞こうとはしなかったが、陽奈の口添えもあり成実は渋々紅夜の策に従うこととなった。
七條軍の先陣と相対する鳳凰旗団先陣の内情は指揮官の高桐 紅夜が歩兵武装の式兵十体を率い、先鋒の鬼島 成実が歩兵武装の式兵二十を率いて布陣した。
「陽奈様の命とは言え、どうして私があいつの指揮下なんかに――」
小声でそんな文句を繰り返していた成実だったが、式兵たちをかき分け先陣の最前線に立つと人が変わった。
敵前線を見据える眼はまるで鬼の如く鋭く、兵を背負う背中は広く堂々としていた。
「(理由とか、経緯とか、ここに立ったからには関係ない、私がするべきことは陽奈様のために戦果を挙げること、そして必ずこの戦を――今度こそ本当の勝利に結ぶ)七條軍の者どもに告ぐ! 我が名は鬼島 成実! 命惜しい者は我が前から消え失せよ!!」
成実の口上に後方の式兵たちが続き威勢よく咆哮を上げる。
「(へぇ、思ったより様になってるな。負け戦続きとは言え伊達に今まで劣勢の戦ばかり体感してきただけのことはある)」
歴戦の兵の如き、成実の勇ましい後姿を見た紅夜は少しだけ成実を見直していると七條軍の先陣指揮官が前に現れる。
「(今度は七條軍の口上か? それにしても頼りなさそうな奴が出てきたな)」
七條軍の式兵たちの前へと出てきた武将は、約一町(100メートル)ほど離れている紅夜の眼にもそう映る。その武将の容姿は、長く緩かに跳ねた黒髪で背丈は五尺四寸(約162センチ)ほどとやや高めだが肉付きは中肉で健康的な白さをした肌と少し大きめの白黒の浴衣が良く似合う、大人しそうな顔をした愛らしい少女だった。
「き、鬼島 成実さんですね、こ、此度の戦も勝たせて、貰います」
装備である剣と大きな盾を近くの式兵に預け、浴衣から取り出した紙を見ながら緊張した様子で口上を述べるとすぐに踵を返し部隊の中へ戻ろうとしたのだが年が同じくらいの少女に何か耳打ちされ、焦りながら再び式兵たちの前に戻る。
「わ、我が名は七條軍総将、大揚 羽葉……です」
照れながらも弱々しくそう名乗った羽葉は何とか仕事をやり切った様子で、すぐに式兵たちの隊列の中へ消えていった。
「相変わらず、苛つく口上を――」
怒りに震える成実とは対照的に紅夜は羽葉を興味深く見ていた。
「(あれが七條軍総将か、立ち振る舞いはどう見ても武将の最上位職である総将の器には見えないが、なるほど、あれが相手じゃ陽奈と鬼島が苦戦するわけだ)」
立ち振る舞いこそ武将の端くれにも置けない情けないものだが、羽葉が纏う霊力の高さと兵ならではの風格をあの口上で僅かに感じた紅夜は一目を置いた。
「――進め! 七條軍を蹴散らせ!」
互いの口上が終わり、いよいよ戦の火蓋が切られた。
成実は諸々の鬱憤を晴らすように式兵二十を率いて七條軍の先陣へ猛然と突撃を開始する。その勢い凄まじく七條軍は成実隊の勢いに押され防戦一方になっていた。
「押せ押せ! このまま押し切れぇ!!」
成実は鬼の如く剣を振り、その怒涛の攻めは敵式兵を振るいあがらせる。
「て、撤退、撤退しましょう」
戦況不利と見た、羽葉は前線部隊にそう命じると一目散に後方の竹林へと逃げて行ってしまう。
「好機! 敵は我らに背を見せた! この機を逃さず――」
「陽奈の命を忘れたか?」
追撃を命じようとした成実の背後に立ちそう窘めたのは紅夜だった。
「……あれは貴様が進言したことだ。陽奈様ご自身の考えではない」
「誰が考えたかなんてことは関係無い。陽奈の言葉を――主の命を無視すると言うのならお前は忠臣ではない」
そう言ってくる紅夜に対して成実はこみ上げる怒りを何とか舌打ちに変えると、不満そうではあったが村のほうへと足を向ける。
「全軍に告ぐ七條軍への追撃はするな。勝ち鬨を上げ速やかに撤退せよ」
指揮官である紅夜の言葉に式兵は応じ、勝ち鬨を上げると意気揚々に村へと帰還した。
あっけなくではあったが天草村の防衛戦、初戦は鳳凰旗団の勝利で幕が引かれた。
初戦の勝利から三日が経った夜、天草村では祝勝会が開かれていた。
「まだ戦の最中ではありますが、わたしたち鳳凰旗団の連戦連勝を祝い、ささやかな宴としましょう。では、いただきましゅ――」
民や兵たちも集まる村の広場で行われた宴の挨拶を頼まれた陽奈が、『いただきましょう』を盛大に噛んでしまい、宴の席が何とも言えない雰囲気になってしまったのもつい先刻の話。
次の戦についての話し合いも兼ねて、将である三人は大いに盛り上がる宴の席から離れ、軍事拠点にて静かな宴を始めようとしていたのだが、陽奈は先ほどの挨拶で噛んでしまったことを未だに引きずっているようで机に額を付けて暗い様子で椅子に座っている。
「ひ、陽奈様、元気を出してください。あれくらい誰にでもあることです」
「しかし、あのような締まりの無い挨拶では興が削がれてしまったんではないですか?」
ようやく持ち上げた顔はあまりに不安そうだったので成実は思わず顔を逸らしてしまう。
「そ、そのようなことは……」
成実はそこまで言うと『お前も何か言え』と言わんばかりの紅夜を睨む。
「――兵士たちから見ればたしかに締まりの無い挨拶だったかもしれないが、その分、陽奈のことを総大将とは言え人間らしい人だと思ったはずだ。まぁ、つまりは親しみやすいと感じ――ああ、なるほど、よくよく考えれば『いただきましょう』をあんなわかりやすく噛む奴なんていないよな。あの挨拶は民や兵の心を掴むための芝居か、流石は鳳凰旗団筆頭の妹」
「なるほど、そういうことか! 流石は陽奈さ――ま?」
紅夜の言葉に嫌味が含まれていることに、成実は気づかず素直に納得してしまい陽奈を称えようとするが、陽奈の表情を見て成実は言葉を止める。
「うぅぅぅ」
拗ねたように唇を尖らせ、息を漏らした陽奈は反論しようと力なく言葉を発した。
「わざとなんかじゃ、ありましぇん」
「それじゃあ、今のがわざとか?」
「むぅぅぅぅ」
涙を目に貯めながら無念そうな声を漏らし力なく地団駄を踏んで抗議したのち、再び机に顔を伏した陽奈を見て成実は動揺しながらもすぐに紅夜を睨む。
「き、貴様、陽奈様を傷つけたな!」
動揺していたのもあったのだろうが、成実は腰に差している剣に手をかけようとする。
流石にこのままだと命の危険を感じた紅夜はそろそろ陽奈をからかうのを止める。
「ったく、今までのはただの冗談だ。陽奈にしてみれば失敗だったかもしれないが、結果的には成功だったと俺は思ってる。酒宴と言ってもまだ戦の最中であることは変わらない、民たちも盃を持つ手が不安と緊張で振るえていた。そこであの陽奈の挨拶だ。あれで民たちの緊張や不安は一気にほぐれて宴を心から楽しめているはずだ。その証拠に見てみろ、広場に灯る松明の勢いはまだ消えそうにないだろ?」
陽奈と成実は広場の方が見える吹き抜けの方へ視線を向けると、紅夜の言う通り空はすでに真っ暗なのにも関わらず広場の方だけが淡い光包まれていて、今にも民たちの笑い声が聞こえてくるようだった。
「……噛んでしまったのは無念ですが、高桐さんの言う通り民が宴を楽しんでくれているのならわたしも嬉しいです」
胸を撫で下ろす陽奈を見て成実も落ち着き剣から手を離したので、紅夜は小さく息を吐いた。
「さて、陽奈も落ち着いたところでこっちも宴を始めるか」
ようやく場の空気が整い三人は茶の入った湯呑みを掲げ、一口茶を飲む。
「それにしても、七條軍相手にここまで連勝できるとは思いませんでした」
七條軍と相対すること三回、今日までの被害は鳳凰旗団が消滅兵(消された式兵のこと)二体、負傷兵(敵から傷を受け前線に立てない式兵のこと)六体、それに対し七條軍は消滅兵十一体、負傷兵十八と三倍から四倍近い被害を与えていた。
「確かに勝ってはいるが、七條軍は前線に少数しか置かないから大きな被害を与えることができないのが難点だな」
「――ふんっ、貴様が臆病風に吹かれ追撃をしないから相手の被害が少ないのだろ」
紅夜の言葉に納得いかない表情で成実は不満そうにそう言った。
そうと言うのもこの三戦とも七條軍先陣を押し上げ、撤退まで追い込んでいたのは成実であり、その三戦とも逃げる敵兵の背中を無念そうに見送ることしか出来なかったのも成実であったからだ。
「成実、それは七條軍の策への対策なのですから抑えてください。現にこうして結果が出ているんですから」
「……敵の背後を突かないなど、そんな愚策聞いたことがありません。それにこのような消極的な策さえなければとっくに私が大揚の首を挙げていました」
「敗走を装い、敵に背を見せ、追って来た敵兵を後方で隠れていた別働隊が攻撃、更に逃げていた部隊も反転し攻撃に参加する。これが『釣り野伏せ』おそらく七條軍、大揚 羽葉が得意とする戦術だろう。本来は多勢相手に使う戦術だが、少数相手でもお前のような猪武者が相手なら十分な戦果が見込める」
「な、私を馬鹿にする気か!?」
「実際馬鹿だろ、今までの戦の話を聞いた限り、同じ相手の同じ戦術に対して何の対策も立てることなく、ただ勢いに任せて敵を追い回すだけ、結果は言わずもがな敵の釣り野伏せにかかり大敗。こんな馬鹿が兵を率いて勝てるなら苦労はない」
「くぅぅ、言わせておけば、ならば貴様は一体何をした!? 式兵たちの陰に隠れ指示を出していただけでろくに戦果を挙げてないだろ!?」
「戦果か、釣り野伏せはさっきも言ったように前線は囮のような物、つまりは消されてもいい雑兵(練度が低い式兵)共で結成されている。そんな捨て駒をたかが十数体斬っただけで戦果を挙げたなんてよく言えるな?」
「き、貴様! それ以上言うならこの剣で貴様の首を――」
「な、成実、落ち着いてください。高桐さんも言い過ぎですよ」
陽奈が仲裁に入ったおかげで成実は腰の剣から手を引き、怒りを飲み込むと陽奈に向かって進言を口にする。
「陽奈様、このような者は我ら鳳凰旗団には不要です。今すぐ追い出してしまいましょう。そうすれば明日には私が敵本陣に突撃をかけ大揚の首をとって参ります」
「な、何を言っているので――」
紅夜を自陣から追い出そうと提案する成実を窘めようとした陽奈だったが、紅夜の言葉に遮られる。
「何を言い出すかと思えば、また脳の無い突撃か、馬鹿の一つ覚えとはよく言ったものだ」
「なんだと!?」
「いいか? 今までの戦なんてものは所詮、前座に過ぎない。三度仕掛けても掛からなかった釣り野伏せをこれ以上何の根拠もなしに続けるなんてことはありえない、新たな攻め手を使ってくる可能性が高い。本当に大事なのは明日からの戦だ。この程度のこともわからず敵の大将首を挙げるなんて大言壮語も甚だしい」
「前座だと、今までの戦がただの前座だと言うのか!?」
「ああ、そうだ、下手をすると今までの連勝は相手の思惑通りで、こちらにわざと勝たせておいて驕り高ぶったところを――」
紅夜がそこまで言うと、自分の戦果を侮辱され貶されたと思った成実は遂に堪忍袋の緒が切れ、目の前に置いてある自分の湯呑みを手に取り、残っていた茶を紅夜に向かって勢いよくかけた。
「…………」
「高桐さん!?」
頭から茶を被り黙らされてしまった紅夜を見て陽奈は驚きの声を上げると、紅夜の傍らへ行き布切れを取り出して濡れた紅夜を拭き始める。
「だ、大丈夫ですか?」
「……ああ、ただ茶をかけられただけだからな」
心配そうに尋ねる陽奈は、紅夜の冷静な言葉を聞いて一安心しながらも、すぐに視線を成実に向ける。
「成実、何をしているんですか!? このような非礼を――すぐに高桐さんへ謝罪を!」
成実に向けられたその視線は一目で怒っていることがわかるほど鋭いものだった。
付き合いの長い成実はその目を見るまでもなく陽奈がこのような行いを嫌うことはわかっていた。だからこそ、ここまで紅夜の言葉に対して我慢を続けた。
「……私は、謝りません」
すでに後悔しても仕方がなかった。成実は自分の非を認めることなく、陽奈の言葉に珍しく逆らい軍事拠点から出ていく。
「ま、待ってください、成実!」
陽奈の制止を振り切り、成実はうす暗い夜の村へと駆けて行ってしまった。
「……すみません、高桐さ――ん!?」
振り向いた陽奈の視線の先には濡れてしまった服を脱ごうとしている紅夜の姿があり、驚いた陽奈はすぐに顔を背けて頬を赤らめる。
「ん? どうかしたか?」
「そ、その、いきなり着替えられては目のやり場が……」
「ああ、悪い気が回らなくて」
「い、いえ」
声と同じように身を小さくしながらそう答える陽奈を気にも留めず、紅夜は隣の部屋へ行き改めて着替えを始めた。
「本当に成実がすみません」
別の浴衣に着替え終えた紅夜が戻るや否や陽奈は深々と頭を下げて謝罪の言葉を述べた。
「陽奈が謝るようなことじゃない。それに――俺にも全く非がなかったわけじゃないからな」
紅夜は席に座るなり陽奈を気遣いながらもばつの悪そうな顔をして話し始める。
「仮にも軍師としてこの場にいるのに、つい感情的になった。こっちこそ悪かったな、鬼島の性格上ああいう奴だってわかっていながら口論してしまって」
「……すみません」
「いや、だから陽奈の謝ることじゃ――陽奈?」
陽奈の顔は曇っていた。今まで落ち込んでしまったり残念そうにしたり悔しそうにするときでさえどこか明るい表情をしていた。そんな陽奈が暗く寂しそうな表情をしているのを始めて見た紅夜は少し心配そうに声をかける。
「……わたし、此度の戦で何の役にも立っていません。成実のように前線に立ち剣を振るうことも無ければ、高桐さんのように式兵たちに的確な指示を出すわけでもありません。ただ二人の無事と勝利を願い一人この拠点にて祈るだけ。――だからこそ、だからこそ、戦以外で役に立とうと、戦以外で足を引っ張らないでおこうと心に決め、今日の宴も少しでも式兵たちの士気を高めようと、二人や民に楽しんでもらおうと、そう思い、開いたにもかかわらず、この有様です。家臣一人、親友一人御せません。やっぱりわたしは無能です。わたしは――」
そこまで言うと陽奈の瞳から大粒の涙がこぼれ始める。
「皆さんの疲れを晴らすために、せめて――笑顔だけは崩さないでおこうと、そう決めたのに、それすらも、今は、かないません」
己の無力さを無念そうに、言葉に詰まりながら話す陽奈の姿は胸を打つものがあった。
総大将にも関わらずこの三戦一度も戦線には加わらずに座していただけ、それがどれほど肩身の狭い思いだったか、その思いをわかる者はこの場には居ない。ただ味方の無事を祈り、味方の勝利を信じ、その背中を見送ることしか出来なかった弱き者の辛さはいかほどだっただろうか、それでも弱き者はせめてもと小さな思いやりと強い決心を胸に抱き今日まで戦ってきたが、それさえも上手くいかなかった。何もかもが上手くいかず、何も出来ない。こうして自分の心根を晒しても何の意味もなく、むしろ涙を流しては紅夜に迷惑がかかることをわかっていても言葉も涙も止まることはなかった。
泣き崩れ、机に伏してしまう陽奈に対して、机を挟んで正面に座っている紅夜は何も言わずに陽奈が落ちつくのをただ待っていた。
ようやく少し落ち着いてきたのか陽奈は涙を指で拭いながら顔を上げる。
「――すみません」
啜り声ではあったが瞳からこぼれる涙はなく、表情もどこか吹っ切れた様子だった。
「謝るなら俺のほうだって謝らないといけない。こんなに弱り切ってる陽奈を前にしてもかける言葉が見つからず黙っていることしか出来ないんだからな。ここにいるのが俺なんかじゃなくて鬼島ならきっと陽奈を励ます言葉をいくつもかけたんだろうな。ただ、俺にも言えることはある。たしかに陽奈は弓の腕以外、戦じゃ無能だろう。それでも此度の戦では負傷兵の治癒だけじゃなく宴の準備を民に混じってしてくれたんだろ?」
「それは、それくらいしか出来なかったからです」
「本当に無能だと言われる奴は『それくらい』のことさえしない奴のことだ。それにただの無能を慕う奴なんてこの世にはいない」
「…………」
「俺は八千代の町でも天草村でも陽奈のことを慕う奴を何人も見てきた。そしてそいつらが陽奈を見る目は決して無能な者を見る目なんかじゃなかった。皆お前を心から慕っていたはずだ。かく言う俺もお前のことを――」
「高桐さん?」
「いや、今言うべきことじゃないな。この戦が終わったときにでも機会があれば話す」
紅夜は少し気恥ずかしそうにそう言うと立ち上がり、外へ繋がる戸のほうへ歩き出す。
「散歩がてらに鬼島の奴を探してくる」
「それならわたしも――」
「そんな顔の陽奈を連れ歩くのは御免だ。民に俺が泣かせたと誤解される」
目を腫らした顔を指摘すると、陽奈は頬を赤く染めながら腫れた目元を隠すように手で押さえる。
「で、でも、わたし――」
「今日は色々あって疲れただろ? 休んどけ。 ――明日の戦には陽奈も総大将として戦線に加わってもらうつもりだ、そんな女々しい面だと式兵の士気にかかわる」
戸の前で立ち止まった紅夜は首だけ振り向いて少し意地の悪い顔で微笑むと陽奈の返事を待たずして外へ出て行った。
「……ありがとうございます、高桐さん」
嬉しそうに微笑みながらそう答えた陽奈の声は紅夜には届かなかったが、想いはきっと。
「こんなところにいたのか」
村の隅にある少し開けた場所に成実の後姿を見つけ紅夜は声をかける。
「……何の用だ、言っておくが私は謝る気はない」
「大した用じゃない、ただこんな夜遅くに素振りの音が聞こたから様子を見に来ただけだ」
大粒の汗をかきながら鬼気迫る形相で剣を振るっていた成実に対して冷静にそう答える。
「だったらさっさと消えろ、鍛錬の邪魔だ」
「そうかよ、――おそらく七條家は明日も戦を仕掛けてくるだろう、だから今日は早めに休んで疲れを――」
「黙れ!」
その言葉と共に成実は月明かりによって鈍く光る剣先を紅夜の顔に向ける。
「私に指図するな」
一歩でも踏み出せば顔が貫かれるだろう間合いで向けられた剣先から強い殺気を感じ取った紅夜は同じく殺気を込め成実を睨み返す。
「お前――、もういい、勝手にしろ」
紅夜はここで騒ぎを起こせばまた陽奈が傷ついてしまうだろうと思い、こみ上げる怒りを抑えここは退くことにした。
紅夜が去り、成実は再び剣を振り始める。その剣筋は力強く、勢い溢れるものだった。
「(あいつには負けない、あいつよりも私のほうが陽奈様を想ってる、あいつよりも私のほうが強い、あいつはいらない、それを証明するためにも明日の戦で圧倒的な戦果がいる。あいつを追い出すために――)
成実は明日の戦に向け、紅夜への憎しみを込め、剣を強く荒々しく振った。しかしその剣筋は成実のその想いが強くなればなるほど、感情的になればなるほど乱れていった。
その頃、竹林内の少し開けた場所で天幕(簡易テントのような物)をいくつも張り野営を行っている七條軍は見回りの兵と睡眠を取る兵とが交代しながら休息を取っていた。そしてそのいくつかある天幕の内の一つで今後の戦についての方針を打ち出すために二人の武将が小さな評定を開いていた。
「ね、ねえ、羽湯ちゃん、どうしよう、釣り野伏せが効かないなんて――」
大揚がそんな頼りない声を漏らした先は隣に座っている副将の少女だった。
身長は五尺二寸(約155センチ)で細めな体格、紺色の髪はまっすぐ肩の辺りまで伸びていて、前髪を眉の下で揃えているせいか真面目で堅い印象を受ける、肌が白いせいで鋭い目の下にある黒いクマが強調されているが、整った顔つきのお陰か、暗い印象や不気味な印象を受ける顔ではなかった。
そんな少女である錦蛾 羽湯は顎辺りに手を当て、考えを巡らせていた。
「焦ることはないわ、予想の範疇よ。それと戦の最中に『羽湯ちゃん』なんて緊張感を削ぐ呼び方は駄目っていつも言ってるでしょ?」
「でも、今は二人っきりだし、いつも『羽湯ちゃん』って呼んでるんだからいいよね?」
外とは天幕で遮られた小さな空間で肩と肩が触れ合いそうな距離で座り、たった一本の蝋燭の灯りを分け合っている二人の周りには見回りの兵の影すら見えない。
「……まぁ、夜は二人っきりに――じゃなくて、静かにしたいからここの周りには近寄らないようにって見回りの兵たちには言ってあるけど」
「駄目なの?」
不安そうに目を潤ませながら羽湯の手を取る羽葉に対し、羽湯の頬は僅かに赤く染まり気恥ずかしさからか顔を逸らす。
「今だけ、だからね」
「あ、ありがとう! 羽湯ちゃんならそう言ってくれるって信じてたよ」
嬉しそうな顔をした羽葉は安堵からか羽湯の手から自分の手を離し、胸を撫で下ろすような仕草をする。
「……とにかく、話を戻すわね」
少し寂しそうに物欲しそうな顔で、離れていった羽葉の手を見た羽湯はすぐに小さな咳払いをして話を戻す。
「たしかに今まで何度も引っ掛かっていた釣り野伏せに掛からなくなったようだけど、元々何度も同じ策にやられるほうがどうかしてるのよ、だからちゃんと釣り野伏せ以外の策も用意してきてるわ」
「ほ、ほんと、すごい流石羽湯ちゃん」
引っ込み思案で大人しい羽葉も羽湯の頼もしい言葉を聞き、気が高まったのか嬉しそうに羽湯のほうへ体を近づける。
「は、羽葉、体近い」
「ご、ごめん。わたし、ちょっと大きいから窮屈だったよね」
羽葉の身長は女性としてはどちらかと言えば大きいほうなので、その分体格も大きいということもあるが、更に女性らしい肉付きがより一層大きく見せる。
「窮屈だけど、別に嫌なわけじゃ――」
「ほんと?」
「う、うん、羽葉の体柔らかくて、その――」
一度距離が離れた二人だが羽湯の言葉を聞こうと前のめりになっている羽葉のせいで二人の距離は最接近していて鼻同士がぶつかる直前まで距離が縮まったとき、外から足音が聞こえてくる。その瞬間、二人の間に立ち込めていた甘い空気は一変し、張りつめた緊張感のある空気へと変わる。
「(こんなときに――)誰?」
口惜しそうな表情を一瞬見せた羽湯だったが、いつもの冷静な表情に戻り、近寄って来る足音に声をかける。
「『影』にございます、敵の内情を探っていたところ面白いものが見られましたので報告に」
影と言うのは個人の名ではなく諜報能力に特化した式兵のことで所謂、忍びのような者。
目元と両手以外は黒い布で隠されていた影は羽湯の許可を得ると天幕に近づき、天幕内に聞こえる程度の小声で鳳凰旗団の内情報告を済ませる。
「それは、本当ね?」
「はっ、間違いありません」
羽湯の確認にそう答えた影は報告を終え、去って行った。
「ふふ、なるほどね」
「羽湯ちゃん?」
影からの報告を聞いて何かを確信したかのような笑みを浮かべた羽湯に対して羽葉が首を捻ったのは羽湯が何故笑みを浮かべたのかがわからなかったこともあるが、根本的に影が話した位置が羽葉からは少し離れていたせいで影の報告が聞こえていなかったからだ。
「釣り野伏せにかからなかったのは敵の陣営にあの『赤眼軍師』がいたからってことね、領内にいるって噂だったけど鳳凰旗団に身を置いてるなんて、今まで目立たないように後方の陣にいたようだから気づかなかったわ」
「し、知ってる『赤眼軍師』、軍師が敵にいるなら、厄介だよね」
「本来ならね、でも、今回はそうでもないみたい、ふふ、決まったわ明日の策が」
「ほんと!? どんな策?」
興味津々な様子で顔を近づけてくる羽葉に対して羽湯は自信満々に一呼吸置き、明日の戦で使う策の名を口にするのだった。