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虚つく夜

作者: 大江山 時雨

 夏祭りの日は、蝉も夜更かしをする。

 蝉は昔から嫌いだ。うるさいし、木に止まってるかと思えば急に動くし、死んでるかと思えば急に動くし。特にアブラゼミは、ギトギトした鳴き声が本当に不快。

 夜は静かだから夜なのに。静かだから好きなのに。騒がしい夜は昼の延長でしかない。毎年毎年、馬鹿の一つ覚えみたいに夏祭りなんて開いて、こっちはいい迷惑だ。

 私は夜の静寂に酔うのを諦め、耳にイヤホンを差した。夜道には少々不用心だけれど、鞄の中のスタンガンを握れば気分は無敵だ。

 不自由な世界を嘆くロックを聴いていると、ちょうどよく荒んだ気持ちになってくる。誰でもいいから、自分以外の誰かに向かって悪態をついてやりたい、って気分。そういうのは比較的健全な状態なんだ、経験上。

 ぎらぎらと私を照らしている月がムカつく。街灯があれば十分なのに、私こそ夜道の案内役みたいな顔してるのが気に入らない。夜に鳴っている風鈴がムカつく。夜に鳴ったって不気味なだけなのに、自分の出す音がいつでも風流だと勘違いしてるんじゃないか。人の通るような道に張ってある蜘蛛の巣がムカつく。どうせいつか引っかかってダメになるのに、嫌がらせとしか思えない。中途半端に蓋がある下水道がムカつく。むしろ危ないと思う、それ。まだ明かりのついている家がムカつく。早く寝ろ、何してんだか知らないけど。目につくものはみなわろし。私版枕草子。

 うん、なかなかいい調子じゃないか。足取りも少し軽い。これなら今日は、思っていたより遠くまで行けるかもしれない。


 夏休みに入ってから、夜の散歩は私の生活の一部になっていた。別に気分転換が必要なほど息詰まっているわけじゃない。ただ単に、文字通り「生活の一部」であるだけだ。

 夕飯を食べて、ゲームをして、スマホを見て、お風呂に入って、散歩して、寝る。委ねていて気持ちがいいリズムの一部になっていて、これを抜いてしまうと他の行為にも支障をきたしてしまうような、そういう存在。

 ルートはその日の気分で決めているが、ある程度は固まっている。元気がなければすぐ近くの公園か、あるいはもう少しの先の土手まで行って帰るし、今日みたいに元気があれば、ちょっと遠くにある二十四時間営業のゲームセンターまで行く。

 あの店の入場制限はかなり緩くて、私のような痛い高校生も黙認してくれる。補導員が入ってきたこともないし、夏休みを浪費する空間としては最適だ。

 土手に沿って二十分ほど歩くと、ゲームセンターの裏に着く。家から真っすぐ向かうよりかなりの迂路になってしまうけど、ここに来るのが元々の目的じゃないし仕方ない。

 店の正面入り口から堂々と入るのはなんとなく億劫で、私はいつも裏の小さな入り口から入るようにしている。

 薄い自動ドアを二枚くぐれば、そこは別世界だ。毒々しい光と音の波、それに煙草の匂い。大きな子どもたちの世界。

 私は千円札を崩して百円玉をパーカーのポケットにしまうと、店内をうろついた。この店はいわゆる複合レジャー施設というやつで、ボーリングやビリヤードなど多様な娯楽が用意されている。それゆえ店内はかなり広い。私がするのは専らクレーンゲームと音楽ゲームだけだから、私にとっては不必要で落ち着かない広さだ。ただ、私はその空間の無駄さにも惹かれていた。

 とりあえず、一番好きな音楽ゲームを二、三回やっておくことにした。変なミスをするとついむきになってしまうけど、私はすぐ腕が疲れてしまうので何回も続けてできない。

 でも、今日はまだ帰る気になれなかった。とはいえ、クレーンゲームという気分でもない。あれはどちらかというと、何か憂鬱なことを目の前にして、何も考えたくないときにやるものだ。より多くより素早くお金を使うほど、理性的な自分を遠くに追いやれるから。

 今はむしろ、積極的に憂うものを探したい気分だった。私は光と音から少し離れた休憩所へ行くと、誰もいないのを確認して、テーブルに腰かけた。

 私はそこでフードを深く被ると、再び音楽プレーヤーで適当なロックを流し、目を閉じた。

 長い息を吐く。

 私は鞄からフーセンガムを取り出した。今時板状のフーセンガムなんてほとんど売ってなくて、仕方なく子供向けのポップなキャラものを買っている。少し恥ずかしいけど仕方ない。私はこういうのが好きなんだから。普通のガムより柔らかいから、舌によく馴染んで心地がいいんだ。

 ガムをぷぅと膨らませる。フーセンガムは味が長持ちしないから、途中途中で遊んでいないとすぐ噛んでいてつらくなる。

 ガムは手のひらほどの直径まで膨らむと、ぽふと弾けて口元にへばりついた。大きくすればするほど、弾けたときの被害は大きくなる。せっかく大きくできたのにデメリットしかないのは、なんだか寂しい。

 ガムを吐き出してゴミ箱に捨て、自動販売機でレモンの炭酸ジュースを買って少し飲んだ。そして、そこからなんとなくボーリング場の光景を見た。金髪と茶髪の男たちが楽しそうに騒いでいる。

 この時間帯、ゲームコーナーにはくたびれた中年か根暗そうな青年くらいしかいないけど、ボーリング場にはたまに頭の悪そうな高校生が出没する。

 私も相当恥ずかしい人間だとは自覚しているけど、自覚している分、彼らよりはまだマシだと思っている。無恥の恥、とか言ってみる。でも、狂人の真似とて大路を走らば即ち狂人なり、とも言う。

 こうやって見下してはいるけど、なんだかんだ言って彼らは私の天敵だ。だからボーリング場には極力近寄らないようにしている。その代わり、遠くから彼らを嘲るのだ。息だけで、「ばーか」って。



「ねえ」

 後ろからいきなり声をかけられ、私はぞっとして振り向いた。ただ、頭の中のフラッシュと違って、そこにいたのは根暗そうな青年の方だった。私は安堵すると、ハムスターみたいになった心臓をなだめた。

「なんですか」

「君、たぶん中学生か高校生だよね」

「そうですけど」

 言ってから、しまったと思った。ここで馬鹿正直に本当のことを言ったって、何の得にもならない。ひねた正義感で警察に突き出されるかもしれないし、あるいは、真面目そうな顔をして、実は危ない変態かもしれない。

 私は元のテーブルへ戻る素振りで、さりげなく彼よりも出口側へ近づいた。

「ああいや、別に変なこと考えてるわけじゃないんだ。ね、そんな奴に見えないでしょ、俺」

 彼はそう言うと、羽織っている灰色のパーカーをひらひらと揺らした。彼が想像しているのは一体どの類の人間なんだろうか。私からすれば、彼も胡乱な人物であることに違いはないのだけど。

「ただね、あんまり高校生の女の子が深夜のゲーセンにいるのは、よくないかなって。危ないしさ」

「はあ。そうですね」

 私はうんざりしながら最低限まともな会話だけ作り、出口へ歩き出した。

「あっ、待って」

「なんですか?」

「よければでいいんだけど、どうしてこんなところにいるのか、聞いてもいいかな」

 私は少し身構えた。何の目的があってそんなことを聞くのか。分からない。ただ、やはり正直に答えても何の得にもならなそうだ。

「あまり言いたくないです」

 私は含みのある言い方をした。その中身は(うろ)だ。

 彼は「そっかあ」と苦笑交じりに呟いて、私から顔を逸らした。デパートの迷子みたいな顔をしてるな、と思った。

 今、もしかすると彼は、私の過去に想いを馳せているのかもしれない。だけど、彼の想像も所詮は私の虚からできた虚でしかない。ごめんなさい、私はひねくれてるだけの普通の高校生です。

「じゃ、すいませんが、私もう帰るので」

 少し居たたまれなくなり、私は再び踵を返した。

「あーっ、あの」

「なんですか」

 縋るような青年の声に、私はまたしても立ち止まった。彼と私なら、下手をすると朝までこれを繰り返せるかもしれない。

「もしも君に、抱え込んでる悩みとかがあるなら、僕に話してみない?」

「は?」

 私の境界に踏み込まれたような気がして、つい語気が荒くなってしまった。少し、彼の顔が硬直した。

 一度咳払いをして、私は聞き直した。

「なんでそんなこと聞くんですか」

「たぶん、君と僕とは、これ以降会うこともないだろうし、そういう相手になら、普段言えないようなことも言えるんじゃないかなって。穴の中に叫ぶくらいの感覚でさ」

「ここのゲーセンの利用者なら、いつかまた会うんじゃないですか?」

「……確かに」

 彼は閉口した。

 私は、少しずつ彼に薄気味悪さを覚え始めた。

 彼は確かに、悪人にも正義漢にも見えない。けれど、ひょっとすると、ひょっとするとだ、彼は私との可能性を感じているのではないか。

 ゲームセンターで年下の女の子と運命的な出会いなんて、いかにも彼が好きそうなストーリー。かくいう私も好きだけど、自ら経験するのはごめんだ。

 無慈悲に彼を振り切り、帰ってしまってもよかった。けれど同時に、濁った好奇心が私の心に沸き出た。この人は私に何を望んでいるんだろうか。

 鞄を開けて、中のスタンガンを確認する。こいつはいつだって、私に無意味な勇気をくれる。

 私は彼に向かって一歩踏み出した。

「でも、そうですね。せっかくですし、少し話しませんか」

「えっ」

 彼は素っ頓狂な声を上げた。私はさらに一歩、踏み出す。

「ここは少しうるさいし、そこの土手でもいいですか」

「あっ、ああ、うん、もちろん」

 彼は心底安堵しているようだった。これが私を欺く演技なら、ただでさえ曲がりくねった私の性根がさらにねじ曲がりねじ切れてしまうだろう。

 私たちはゲームセンターを裏口から出て、夜風を浴びながら土手を上り、川が見える側の坂に腰かけた。数時間前には、ここから夏祭りの花火が見えたはずだ。きっと、さぞ多くの男女がここで肩を寄せ合い空を見上げていたことだろう。そんな場所で私は、知らない男の三十センチ隣に座っている。

 彼はやがて、たどたどしく口を開いた。

「とりあえず、自己紹介、かな?」

「必要ですか?」

「え、必要じゃないかな。あっ、そうか、個人情報……でも、別に名前以上のことは聞くつもりないし、今日のことは全部忘れるつもりで聞くから! ね、名前だけ教えてくれないかな。俺は子島才悟です。東京の大学に通ってて、今は夏休みだから、こっちに帰省中」

 東京の大学。私にはまだまだ未知の世界。ただ、少なくとも彼は未知の人間には見えない。

「……米山沙柚です。高校生です」

「米山さんね」

 彼は何度も私の苗字を呟き、うんうんと頷いた。まるで生涯忘れないつもりかのような様子だ。

 私が黙っていると、案の定彼は困り顔になった。誘ったのは私だし、私から話題を振るべきなのかもしれないけど、生憎と今日の私は調子がいい。私に何か望むなら、私に何か与えてみせて。

「えっとー、米山さんはどんなゲームが好きなの?」

「別にゲームは好きじゃないですよ」

「え? それじゃ、なんでゲーセンに?」

「別に、好きじゃなくてもすることはたくさんあるでしょう。ご飯とか、お風呂とか、私にとってゲーセンは、そういうものなんです」

「そ、そっかあ」

 彼は全然理解できていない顔だった。そう簡単に理解されても困るからいいけど。

「そういえば、今日夏祭りあったよね。米山さんは行った?」

「行ってません。行く相手もいなかったので」

「それは残念だったね。じゃ、花火は見た?」

「見てません」

「そうかあ。俺も一緒に行く相手はいなかったんだけどさ、花火だけは見たくて、一人で見に行ったんだ。きれいだったよ。それに、やっぱり祭りの露店っていいよね。りんご飴とか綿飴とか、無駄に買っちゃったよ。射的とかはさすがに恥ずかしくてできなかったけど。米山さんも、次は行けるといいね」

「はあ」

 さっきから、なんで私が祭りに行きたかった前提で話してるんだろうか。

 なんにしても、ぱっとしない会話だ。彼もそれくらいは察しているのか、さっきから口の形だけが忙しなく動いている。

「……さっき高校生って言ってたけど、もしかして三年生?」

「二年です」

「そうなんだ。進路とか決まってる?」

「あまり。とりあえず進学はしたいですけど」

「それはいいね。大学生活はいろんな意味で貴重な人生経験だから、できることなら入っておくべきだと思うんだ。一人暮らしとか、飲み会とか、バイトとか、社会人の予行演習みたいなもんだよ」

 そんな大学生としての私は、いまいち想像できなかった。自炊や洗濯をする私、誰かと楽しくお酒を飲む私、お店であくせく労働力を売る私。そういう私は、どうにも幸せじゃなさそうだとさえ思ってしまう。

「そういうのは、あまりしたくないですね」

「そうなの?」

「はい」

 たぶん、私は一人で生きるのに向いていないんだ。甘ったれた結論だけど、結構的を射ていると思う。

 だから私は、大学で有望な男を見つけてさっさと専業主婦にでもなった方がいいのかもしれない。でも相手だって、可愛くもない愛想もないろくに働きもしない女なんてお断りなんじゃないか。

 私だったらそんな男は嫌だ。奇跡的に顔の好みがベストマッチしていたとしても、生涯その人を支え続ける覚悟までは背負えない。私でさえそう思うのだから、真っ当に生きて真っ当な考えを育んだ人間にそれを強いるなんて論外だ。全財産を宝くじに賭けた方がまだ理性的だ。

 じゃあ私はどうすればいいんだろう。親の足首にしがみついて、いつきたすか分からない限界に怯えながら宝くじを買い続けるしかないのだろうか。こうしてヒステリックに夜を歩いては誰かを見下し続けないと、私は私でいられないのだろうか。

 だとしたら私という存在の、なんと醜いことだろう。虚勢と虚栄で膨れ上がった空っぽの怪物だ。世界はいつまでも怪物を野放しにしてはくれない。いずれ私も毒酒を盛られて首を切られるのだろうか。そんな大層な身分でもないか。

「どうかした?」

 彼が私の顔を覗いていて、私は思わず顔を背けた。彼は私の表情から何かを読み取ろうとしているようだった。まさか今、私が自分と酒呑童子を重ねていたことまでは知りようもないだろうけど、彼には私の心のただ一片さえも知られたくない。

「なんでもないです」

「そう? なら、いいんだけど」

 彼は何の未練もなく私の顔を見るのをやめた。代わりに私が彼の顔を覗いた。

 純粋な目をしていた。今表情に出ている以上のことは何も考えていなさそうな目だ。

 この人はきっと、自分が空っぽだなんて思ったことはないんだろう。いつでも一生懸命頑張って生きてきました、みたいな類の輝きを湛えていた。

 ずるいな、って思う。

 自ら輝いている人間に影はできないし、きっと世界の後ろにできた影すら見えていないんだ。

 ここで私は、なんだか自分が恥ずかしい勘違いをしているのではないかと、薄々気づき始めた。

「子島、さんは」

「んっ? なにかな?」

 彼は食い気味に反応した。

「大学出たら、どうするつもりなんですか?」

「ああ、俺ね」

 彼の照れくさそうな笑みに、私は怖けた。

「実は、教師を目指してるんだよ。ひょっとしたら来年、実習で会えるかもしれないけど」

 複雑に絡まっていた糸が、一気に解けて一本の線になった。あーあ。なんだ、そうですか。はいはい、なるほど。くだらない。ほんとくだらない。

 あなたにとって私は、ただの先生としての練習台だったんですね。

「まあ、君にこうやって声をかけたのも、その意味があってさ。数年後、教師になるかもしれないっていうのに、深夜にゲーセンにいる女の子を見て見ぬふりはできないなって」

 どうでもいい。どうでもいい。それはもう私が気づいた。私の知ってることを、あなたの口から聞く価値なんてない。もっと意外なことを言ってみせてよ。

「男の子は、いいんですか」

「はは、ごもっとも。でも本当は俺、別に友達と深夜にゲーセンで遊ぶくらいは、まあ、いいんじゃないかなって思うんだよね。……いや、全くよくないよ? でもまだ教師志望の俺が、首を突っ込むほどでもないかなっていう。楽しそうだし。それでもし何かあったときは自己責任で、って年ごろだと思うんだ、高校生って。でも君は、すごく思い詰めた顔だったからさ。何か俺にできることないかなって、思っちゃったんだよね。なんか、ごめんね」

「なんで謝るんですか」

「俺も、お節介なのは自覚してるから。ぶっちゃけ、俺の自己満足なのかもしれない……なんて言うと、米山さんに失礼か。でも本当、誰でもいいから言いたい、みたいなことがあったら、俺が聞くよ」

 よく喋る人だ。言いたいだけなのがよく分かる。きっとあなたに教師は向いてないですよ。あなたに恨みはないけれど、私の呪詛を受け取って。

 自分でも驚くくらい拗ねていた。どうしてだろう。なけなしのプライドを傷つけられたから? お前のプライドなんて、大きいばかりで大切なものは何も詰まっちゃいないだろう。ちょっと傷つけられたくらいで騒ぐなよ。いや、だからこそ私のプライドは、風船みたく針の一刺しで割れてしまうんだ。もっと丁重に扱ってよ、ねえ。

 いけない。悪態をつく対象が自分に向かっているのは、経験上よくない状態だ。話題を変えよう。私の心を一ミリたりとも揺らさない無価値な話題にしよう。

「子島さんは、どうしてゲーセンにいたんですか。まだ違うとはいえ、先生が深夜にゲーセンって、あまり大っぴらには言えませんよね」

「ああ、やっぱりそう思う? まあでも、確かにゲーセンは好きだけど、深夜に行くのは今だけだから安心して。……安心してってのも変か。あれだ、こういうこと言うと君への説得力が欠けちゃうんだけど、深夜のゲーセンっていいよね。これ、他の友達にはあんまり理解してもらえないんだけど、米山さんは分かってくれる?」

「はあ。いや、分かんないですけど」

 彼の話は相変わらず長く、私は半分ほど聞き流した。私の様子に気づく素振りもなく、彼は続ける。

「ゲーセンって、入場制限あるでしょ。だから、深夜のゲーセンで遊んでるとさ、ああ、俺大人になったんだな、なんて思うんだよね。……まあ、そう思うこと自体、子どもっぽいかもしれないけど」

 間違いなく子どもっぽいけど、ゲームセンターは大きな子どもたちの世界だから、きっとそれでいいんだろう。

 一方で、やはり私は、ゲームセンターにいるべき人間ではない気がする。私自身、そこまでゲームセンターに固執する理由もないし、あそこにいると、自分が店中から疎まれているように思えてならない。それでも私は、誰も得をしないゲームセンター通いを続けている。

 きっと大した意味なんてない。学校の屋上から半歩だけ空へ踏み出してみたり、自転車で慣れない両手離しをしてみたり、その程度のことでしかない。ただ違うのは、膨大な時間とお金が間違いなく私の手から消え失せたということだ。そのことが、今になって嫌味たらしく私の心に爪を立てた。

 だめだ、我に返りそうだ。やっぱりクレーンゲームもしておけばよかったんだ。このままでは、また鬼のいない鬼ごっこを延々と繰り返すことになってしまう。

 理性的な私は全然理性的なんかじゃなくて、私が生存することをまるで考えていないんだ。私を苦しめて苦しめて、そうすることでしか私が前へ進めないと思っている。何ができてもそれが当たり前で、頑なに私を褒めたりはしない。それどころか、私に与えられた僅かな承認をぐしゃぐしゃに壊して相手に突き返してしまう。

 私を私でいさせてくれるのは、私の虚だけだ。お前なんて、一生返ってこなくていい。

 何の前触れもなく、ぼろぼろと涙が零れ始めた。その涙を彼に見せたら、きっと私は慌てふためいて、すかさず我が返ってきてしまうから、必死に膝に顔を埋めた。

「寒いなぁ」

「そうかな?」

 あなたの同意は求めてない。

「もしかして風邪? 夏風邪は、長引くよ」

「違いますよ」

 風邪ってことにしておけばいいのに。そしたら帰りやすかった。でも、どの道もう耐えられそうにない。強引にでも切り上げなきゃ。

「私、帰りますね」

「あ、え? うん、分かった」

 私が立ち上がると、案の定彼は少し不思議そうな顔をした。でもそれに構っている余裕はない。

「なんか、ごめんね。長い間話しちゃって」

「いえ、というか話に誘ったのは私ですし」

「送っていこうか……って、それはさすがに駄目だね。ここらへんは変な人少ないと思うけど、一応気をつけてね」

「はい」

 いちいち、自分で、完結させるくらいなら、口に、するな。

 頭に浮かんだ言葉をノータイムで他者に発せられるこの人が、狂いそうなほど妬ましい。

 鞄の中のスタンガンを見る。いくら虚の私でも、それが一線を越えた行動なのは分かっている。というより、そんな大それたこと、そもそも私にできるはずがないんだけど。

 だから私は鞄を閉じた。

 そして、能天気に遠くを見つめる彼の後ろに立つと、鞄を後ろへ大きく引き、振り子の勢いで彼の背中にぶつけた。

「あだっ」

 座ったままぴょんと前に跳ねたのが滑稽だった。そして私は、彼が後ろを振り返るよりも先に駆けだした。

 なぜ叩かれたか分からないだろう。せいぜい私のことで反省会を開くといい。あなたがいくら考えたところで、私の気持ちなんか分からないだろうけど。

 疑問符に囲まれ唸る彼の姿を想像して、私はほくそ笑んだ。笑いながら泣いた。理性に追いつかれないように走った。夜風が気持ちよかった。



 近所の公園まで戻ってくると、私は一息ついた。公園のベンチに座って、レモンの炭酸ジュースを開けた。さっき鞄を振ったからか、少し多めに炭酸が抜けた。構わずに半分ほど飲んだ。

 そのままベンチで呆けていると、近くから水音がした。公園のプールからだ。

 見ると、数人の高校生らしき男女がプールに忍びこんで遊んでいた。ご丁寧に水着まで着て、声を殺してはしゃいでいた。誰も彼も心底楽しそうだ。

 プールサイドで控えめにぱちゃぱちゃしている人もいれば、傍若無人に泳いでいる人もいる。あんなの誰かに見つかったら逃れようがないと思うけど、彼らには怖いものなんてないらしい。

 私は彼らを見下そうとしたけれど、なんだか彼らが眩しくて、ただ目を窄めるだけだった。

 彼らだって傍から見れば私と大して変わらないはずだ。非行している事実に違いはないし、あえて深夜にそこで遊ぶ意味も、きっとない。夜の雰囲気に酔ってしまった、恥ずかしい子どもたち、のはずだ。

 なのに、彼らはなんだか爽やかじゃないか。まるで映画のワンシーンみたいじゃないか。

 かたや私はなんだ。一人でゲームセンターを徘徊し、大学生に八つ当たり。文字通り話にならない、ただただ虚しいだけの人間。どうしようもなく埋まらない、彼らと私の違いは何だっていうんだ。

 ずるいぞ。

 私は息だけで、彼らを妬んだ。


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