ファミレス大冒険(子供視点)
小さい子供を相手に接客するとき、わたしは腰を折る。
別に相手の視線に合わせてコミュニケーションをとろうなどという接客上級テクニックではなく、単に子供の表情をしっかり見たいという変態根性なのだが、子供の視点にまで顔を下げると気づかされることがたくさんある。
まずはテーブルの下に落ちているゴミに、時には腰壁にふわりとまとわりついた綿ボコリに……と、現実的な話で申し訳ないが、実際に見えるものなどそのくらいだ。
だが、これがファミレス業では重要な意味を持っているともいえる。子供の目線を保ったままでファミレスの店内を歩き回ってみよう。
まずはドリンクバー。
わたしたち大人が上からみている抽出口を、子供たちは下から覗き込むことになる。実はドリンクの抽出口というのは汚れやすい部分でもある。
飲み物を抽出するさいにどうしてもしぶきが飛ぶのだから、これはある程度仕方ない。しかし手入れのよくないドリンクバーではこれがこびりつき、重なり、さらに乾燥してがっちりとこびりついている。
ファミレスの店員といえば、当然に大人だ。だからこういったところの汚れを見落としがちである。
しかしアザとーは子供が下からここを覗き込んでいることを知っている。だからドリンクバーの清掃の時には必ず床にひざを下ろしてここをチェックするのだ。
これが他人の目を気にするということ。なぜなら子供だってお客様であり、将来は自分で食べ物屋を選ぶようになるのだ。「あそこのドリンクバーは汚い」なんてイメージをもたれてしまっては、将来的な顧客を失うことにもなり兼ねない。
と、まあ、これは俺個人の考えではあるのだが。
次に、ドリンクの機械を子供の目線で見上げてみよう。実は下から見上げると、ボタンの判別が難しい。
その感覚を知りたければ、ビルの壁などに腹を付けて上を見上げてみるといい。絶妙な遠近法で手元の小さなでっぱりがさらに上にある風景を覆い隠す。壁面とゼロ距離で、ぶら下がるような体勢なのだから、指先の辺りに小さなでっぱりがあるぐらいでは気づかないのである。
さらに一般的なドリンクバーでよく見かける台下のグラスラック、これも曲者だ。確かに子供でもグラスを取れる高さではあるが、一番上の段はあまりに顔に近い。
大人ならひょいと手を差し伸べてちょうどいい高さにあるこのラック、子供が一番上の段からグラスを取ろうとすると、顔のまん前で操作しなくてはならないのだ。
おばちゃんとしては、一番下の段からグラスを取れば余裕だと思うんだけどな~、なぜか子供は一番上の段からグラスを取ろうとする。けっか、かなり小さい子はグラスを真上に引き上げるのではなく、かなり水平に近い斜め上に引っ張り上げることになって、ひどくはらはらする。
そういった行動の不器用さこそが子供たるゆえんなのだから、まあよしとして、ここまでの流れを物語風にまとめてみよう。
まずは灼熱のココア噴出す抽出口を見上げる。ここはマグマのように熱いココアのしぶきが長年蓄積されているからだろうか、茶色い岩のような汚れがゴリゴリとこびりついている。恐れをなしてコーラのマシンの前に逃げ込めば、これは構造が違うのだから幾分ましではある。
さて、グラスをとろう。ここから流れる甘露をすくうためのガラスの器を。
見れば、それはちょうど目の前にあった。プラスチック製のラックをためらうことなく引く。長年蓄積されたココアが
……おっと、あぶない。強く引きすぎたようだ。
慌ててラックを押し戻す。
今度は慎重に、ほんの少しだけ引き出したラックのいちばん手前に手をかける。
グラスをひとつ、上に引き上げるが、これが思ったよりも長い。精一杯腕を伸ばしても、まっすぐに上がるのはグラスの中ほどまでだ。
「こなくそ!」
少し乱暴ではあるが、力任せにグラスを引き抜いた。
さて、ここからが問題だ。俺は断崖絶壁のようにそびえたつマシンを見上げて、目を細めた。
「どれだ、コーラのボタンは……」
かように、たかがジュースいっぱいをくむだけの行為が異世界転生にも匹敵するほどの大冒険になる、それが子供の世界だ。
だから子供は、実にくだらないことでドヤ顔をするのである。
大人なら当たり前にできること……グラスを取り、ドリンクのボタンを間違いなく押し、こぼさずに自分の座席まで運ぶ、これが子供にとっては一大ミッションなのだと知っていれば、あのドヤ顔を簡単に「あ、そう」と受け流すことなどできないではないか!
思えば大人になって、あまりにも生きるのが簡単になった。それは世界が大人の目線で構築されており、俺の体格がその世界に適合するほどに大きくなったからに違いない。
その代わりに、子供のころ持っていた冒険に満ち溢れた世界をわたしは失った。
見上げるほどに背の高い草の間を走り回って忍者ごっこした空き地も、大人の背丈ではいれば首ほどまで伸びたススキが邪魔ではあるが、青い空まで覆い隠すようなことはない。
親が隠したおやつを探そうと、踏み台を使って這い登った冷蔵庫の上だって、今ならひょいとかかとを上げるだけで手が届く。
そして、冒険に満ち溢れていた日々を懐かしく思うのは、大人という高い目線から子供の世界を俯瞰してしまっているからだ。これに疲れたとき、わたしはどっかりと座り込む。道端だろうと二話の真ん中だろうと、どこでもかまわない。
座って空を見上げれば、それはとても高くて、手の届かぬほどに高くて……そして今も青い。
他人の視点をおもんぱかることはむずかしくとも、かつての自分の視点を思い出すことはそんなにむずかしいことではないだろう。
自分が大人であるという視点に凝り固まって疲れてしまったときなど、あなたも少しだけ視線を低く、青空の見える公園の芝生などに座ってみてはいかがだろうか。