紙上の情熱
少年は夕日に照らされた美術室にいた。目の前には描きかけの絵。
木製の丸椅子からおもむろに立ち上がると、彼は、バッグから取り出した小さなナイフを握り締め、大きく腕を振り上げて……
それでどうなるというわけではないし、無駄に体力を消耗するだけの愚行であることは自分でもわかっていた。それでも、少年はナイフを、力いっぱいキャンバスに突き立てずにはいられなかった。
彼は今、どうにもならなくなった状況から逃げ出したくて仕方ないのだ。
無残な姿にされたキャンバスには、つい先ほどまでだが、少年の通う学校の制服を着た少女が微笑んでいた。温かみを感じさせる眼差しは真直ぐ少年を見つめて、両手を胸の前に重ね、少しだけ首を傾けたポーズだった。その少女は、同級生の誰かに似ているようでいて、誰の顔とも一致しない。強いて挙げるなら、少女の面影は、描いている少年自身に近いものがあった。
この絵の少女は実在しない。
冬が近くなり、日暮れは随分早くなった。だんだん暗くなる美術室。校庭から聞こえてくる生徒たちの声ももう僅かだ。
少年は疲れきった顔で絵筆を洗い、散らかしたものを手早く片付けた。
どうも上手くいかない。
始めは順調だったように思う。いったいいつから違和感を持っていただろうか。
少年は荒々しい動作でバッグを肩に掛け、抑えきれない思いを床にぶつけながら学校を後にした。
思えばいつからだったろう。自分が狂気にも似た情熱を持って、キャンバスの中の少女に焦がれたのは。
最初はただの落書きに過ぎなかった。そのころはただの記号であり、他者から見ればありふれた漫画のヒロインかな、と思う程度のものだった。
時間の経過とともに、少年の中で、この少女の存在に具体性が与えられていった。
最初に決まったのは……そう、髪型だった。肩に届くか届かないかくらいのショートで、裾の部分が少し外に向かって広がっている。色は天然の黒。
次に決まったのは名前だった。少年と同じ苗字で、ひらがな三文字の清涼感ある名。
きっとこのくらいの段階で、恋心にも似た感情が蠢きだしたに違いない。
顔つきが決まり、体型が決まり、血液型が決まり、そして性格や好物などの内面的な情報が固められていった。その多くが創造主になぞらえたものであることに、当の少年は気づいていなかった。
一ヶ月ほど経った頃には、すでに少女は少女自身の意思で動いていた。少なくとも、少年にはそう感じられるほどに成長していた。
何度も描いた。何度も描き直した。笑顔も怒った顔も、時には眠った姿も描いた。ありとあらゆる表情を試し、ファッション誌を参考にして数え切れない服を着せた。少年の目に、いつも少女は生き生きと映った。少女を描き、眺めているだけで幸せな感情が溢れてきた。
歯車が狂い始めたのはつい最近のことだ。
ふと気がついたとき、少年にはもう、少女の考えていることがわからなくなっていた。
おかしな現象である。創造物が創造主の理解を超えてしまったのだ。全て、創造主が操っていたはずなのに。感情も表情も仕草も身体的特徴も全て、少年の意のままだったはずなのに。
いや、それも少し違うのかもしれない。ありのままに示すならば、真相はこうだ。
少年が描く少女は、少年が意図していない姿で、自身の意思でそう在るかのように、キャンバスの上に浮き出してくる。少年の手は絵筆を握り、ただ黙々とその姿を描き出す。描きあがった時に初めて、少年は異変に気付く。
創造物である少女に命が芽生えた。それは少年にとってとても複雑な問題である。
少女は少年の分身であり、実在さえ強く願う対象である。しかし一方で、そのすべては少年によって掌握されているべきものだと、彼は考える。
だが目の前に浮かぶ少女の姿はすでに少年のコントロールを離れ、自ら思考し、あるはずのない声を伴って、少年に語りかけてくるのだ。
それが喜びとも悲しみともつかない感情となって少年を焦がす。
それがある種の才能によるものだと、少年にも理解できる。
だがそれを認めてしまうと、少女は少年の手から離れてしまう気がした。
きっとその時、彼女は彼女として、独自の人生を歩むことになる。
その傍らに少年の姿はないだろう。
こちら側とあちら側。手を伸ばした少女の、その指先に触れてみても、得られるのは紙の質感のみ。
彼女がこちらへ来られたら……。あるいは少年があちらへ行けたなら……。
ある日を境に、少年は少女を描くことをやめた。
そして、ただひたすらに、自画像を描き続けた。
最初は鏡に映った自分を描いた。
だけどそれは自分じゃない。
自分の特徴をつぶさに捉え、今度は鏡映しではなく本来の姿を描く。
自画像だらけになった部屋で、少年はふと気味の悪さを感じて、ニヤリと笑った。
いつしか紙の中に、本物の自分が立っていた。
あちらの少年はこちらの少年とそっくりな部屋の中で絵を描いている。
もはやどちらが主体であり、描き手であるのかわからない。
この段階に来てついに、少年は自分の為すべきことを悟った。
あちらの世界、紙の中の少年が部屋を出る。
まるでコマ送りでアニメーションを見ているように、少年は次々とあちらの彼を描き、動かした。
階段を下りて、玄関へ向かい、外へ。
見慣れた通学路。いつも通る公園。長い上り坂。そして、学校にたどり着く。
校門を入り、上靴に履き替えて、目指すは美術室だ。
コンコンと軽くノックして引き戸を開ける。
柔らかい日差しが差し込む窓辺に、少女がいた。
その顔には複雑な表情が浮かんでいる。表現しようのないほどの喜びと、それに匹敵する悲しみをごちゃ混ぜにした色。
少女にはわかっている。自分のもとにたどり着いた少年、彼の手を取ればどうなるのか。
少女は、それが無駄なことだとわかっていても、首を横に振った。
少年は……あちら側とこちら側の二人の少年は、そろって優しい笑顔を浮かべ、ゆっくりと両手を差し出す。
少年を見つめる少女の目にはいっぱいの涙が浮かび、すぐさま溢れ出した。
天を仰ぐ。少女の目には、紙の外の少年が映っているのだろう。
それを見つめ返す少年は、弱々しくもしっかりと、優しい眼差しのままで頷いた。
暖かい日差しに照らされた教室らしき部屋。その窓辺で、優しく包み込むように、少年が少女を抱きしめている。少年と少女の横顔は、双子のようによく似ているようだが、片方は微笑み、片方は泣きじゃくっている。丁寧に描き上げられたその絵はなぜか、最後の最後、隅に施されたサインの部分だけが、未完成のままだった。