国語の授業後、ある真夜中に
男がいました。いえ、男というには少しばかり若すぎる十五、六の少年です。顔には年相応にニキビを浮かばせ、時折それが痛むのか、よく手で触っています。
少年がいたのは奇妙な場所でした。今日自分が見たもの、聞いたもの、感じたものがごちゃまぜになって、ぷかぷかと浮かんでいるのです。けれどそれは不明瞭で、よく見ようとすれば、直ぐに消えてしまいます。それでも、少年が見たもの、聞いたもの、感じたものは現実より瑞々しく見えました。
少年は、これが夢だと気付いているようでした。気付いているからこそ、少年の目には生き生きとした光が輝いているのです。しかし、少年は同時に、煩わしいことにも気付いていました。少年は先程まで、机に向かって国語の復習をしていました。机の端には、まだ終わっていない宿題が幾つか置いてあります。
ーつまり少年は、勉強中に「寝落ち」してしまい、この夢に顕現した訳です。そして少年はそのことに気付いています。
だからこそ少年は、この自由な空間で何をしようかと楽しく迷っているのです。
そんなとき、少年は、少し遠くに一つだけ、はっきりした物を見つけました。古ぼけた門です。それは少年が感じてきた瑞々しい何かとは違い、ずっと昔から夢の中にあって、まるでそこで朽ちてきたかのように景色に溶け込んでいます。
少年は知っていました。その門の正体を。
門の名前は「羅生門」と言います。大昔に建てられ、説話の舞台となり、そして一人の大作家の手で新たな物語が紡がれた地です。
少年は思い出しました。授業中の先生の冗談を。
「羅生門の授業をすると、夢に老婆が出る。」
ことの真偽を確かめようかと門に歩きだそうとして、少年は迷いました。
机の上にはまだやらなければならない宿題があります。これをせずに、明日の朝までここにいれば明日どんな目にあうことか。
しかし目の前には門があります。この上に上がれば、真実が分かるのです。
悩んだ末、少年は一歩を踏み出しました。ことの真偽が分かったら、その瞬間、目を覚そうと決意を浮かべて。
門と言うより城に近いそれはとても大きく、腕力だけでは上がれないことは明白でした。
しかし、少年は知っています。そこにある梯子の存在を。少年は梯子につかまり、危なっかしい体さばきで、上へ上へと上がっていきました。
しかし、少年は知りません。その上の状況を。だからこそ少年は、好奇心に魅せられるまま、門を上がっていくのです。
上へ行けば行くほど、少年のニキビを触る頻度も上がっていきました。一種の緊張と高揚感がそうさせているのかもしれません。もう少年の頭に、早く起きなければという思いは、ただの一欠片も残っていませんでした。
少年は、ニキビを気にしたがる片手を無理矢理梯子に固定して、目だけを覗かせるようにして、門の上を見ました。いえ、まだ見えていません。少年は瞼を固く閉じています。
怖いものみたさという言葉がよく似合います。
少年はゆっくりと目を開けました。闇から徐々に光へと変わる視界の中に、期待したような老婆や死屍累々の光景はありません。唯、薄ぼんやりとした風景が広がっているだけなのです。
突然少年は、自分が今から目を覚ますべきであることを思い出しました。あるいは、門の上に期待を裏切られたことが、そのきっかけになったのかもしれません。
少年は目を覚まそうと、羅生門からのダイブを決意しました。高いところから落ちれば夢から覚めると思ったのです。
けれども少年はそれを躊躇いました。羅生門から下を覗き込むと、そこには荒れ果てた大地が広がっています。今まで白く霧がかっていた夢の世界には、夜の帳が下りてきて、巣へと帰路を急ぐ鴉の声まで聞こえてきます。
やがて夜の帳は完全に下り切って、暗闇が夢を支配しました。
ー即ちそこはまさしく、かの羅生門と成っていたのです。
少年は飛び降りを止め、後ろを振り向きました。足の指先に何かが当たります。
それが死体の一部であることに少年はまだ気付いていません。気付けば少年の片手は、またもニキビへと向かっていました。
焦りからでしょうか、少年の目には幻覚の様な靄が見えてきました。暗い門の上で、そこだけがぼんやりと輝いています。輝きは、次第にその形を決定しているようでした。少年の目はますますそこに吸い寄せられます。
この靄が形を持った時、それはあの老婆なのでしょうか。少年はそんな事を考えながら目を見開きます。
案の定、その靄の輪郭は女性らしい曲線を描きました。しかし少年は気付きます。その輪郭が、老婆と呼ぶには若いことに。その輪郭が、ある少女のものであることに。
不意に少年の意識が、現実の過去にフラッシュバックします。
少女は少年の斜め前の席に座っていました。別に少年は少女のことを意識しているわけではありません。ただ、いつも暗い表情を湛えて、本の同じページをじっと睨んでいる彼女が、自分達とは違う人間であるとは肌で感じとっていました。
無造作に掴まれたテストの結果、机の中から覗いている答案。その全てが、完全無欠だったのです。
少女は少年の目線に気付くと、普段の暗い表情からは想像もつかないほど明るい笑みを浮かべます。そして、ゆっくりと、笑顔の間から声を絞り出すのです。
「帰らなくていいんだ。」
ー帰る?何処へ?
少年は一瞬戸惑い、ニキビを指でつつきました。そして少年は思い出します。机の端に置かれているはずの宿題の存在を。そして少年は、時間の経過に気づいたようです。その様はまるで、竜宮城で遊びすぎた浦島太郎か、締め切り寸前の漫画家です。
少年は帰ることにしました。結局老婆は出てくることはなく、代わりに現れたのは夢に特有の現象ー即ち気にもしていない女子です。このままここに居れば、気にし始めてしまう可能性すらあります。
少年は逃げるように後ずさりました。
「いや。帰る。ここから堕ちて、宿題をするんだ。」
それを聞いた少女は現実では絶対にしないような蠱惑的な笑みを浮かべ、これまた現実とは対照的に、絡みつくように言葉を吐き出しました。
「それでいいんだ?目の前には自由があるのに、わざわざ辛い方へ行くの…。それとももしかして、勉強がだあいすきなのかな。」
少年の左足の踵はもう、宙に浮いていましたが、少女の言葉に引き寄せられるように、体重が前にかかります。倒れないためには足を出すしかありません。少年は一歩、また一歩とふらつきながら少女に近づいていきました。
危うく倒れそうになったところで、少女が少年を抱き留めました。そして耳もとで甘く囁くのです。鼓膜を通り越して、脳を蕩けさせるその響きを。
「いいよ。それでいい。夢の中でまで現実に縛られてやる必要はないでしょ。私もここでは自由でいられる。さあ、遊びましょう?」
次の瞬間、少年の目の前が開けました。光に満ちたトンネルが現れたのです。そこに行くのは背徳行為だと、少年も分かっていますが、自分を抱いている少女が、その姿を変貌させていくのを見て、一種の諦めを持ちました。
少女の笑顔は溶けて崩れ落ち、代わりにそこに浮かんだのは、紛れもなくこの少年の笑顔でした。ニキビの個数も位置も同じです。その笑顔もやがて薄まり、それは靄に戻っていきました。そして、少年は、靄につつまれていくのです。いえ、靄は少年に吸い込まれているようにも見えました。
次に少年が姿を現した時、少年に迷いはありませんでした。顔に薄く笑いを湛え、ニキビに片手をもっていきながら、少年は大きく一歩を踏み出しました。少年はもはや現実のことなんて考えていません。少年は夢の世界と、つまり自分自身と遊ぶことに決めたのです。
暗い門の上に、唯一明るく輝くトンネル。その眩しい光の中に、楽しい思い出の奔流の中に、少年は消えて行きました。
少年の行方はーーー。
あるところに、少年がいました。少年は自信なさげにニキビを気にしながら、国語の課題を忘れた訳を、先生に説明しているようでした。
「門がー。」
「少女が、トンネルが。」
訳の分からぬことを口走る少年に、先生が蔑みの視線を送ります。結局少年はこっぴどく怒られました。
少年が部屋に篭ろうと思ったのはこのころからです。やがて彼は学校に来なくなりました。
そんな頃のとある昼下がり、少女が教室の端、窓際で本を使って口元を隠しながら、少しだけ、ほんの少しだけ笑みを浮かべていました。
少年の行方は誰も知りません。
これはセーフでしょうか。まぁセーフでしょう。取り敢えず。