チビと旦那
結婚してから三度目の帰省。玄関を開けると、チビが真っ先に出迎えてくれた。その名前が似合わないほどに大きくなった三毛猫が、私のところへまっしぐらに駆けて来る。しかし、その足は私の腕に飛び込む前に止まった。明らかな警戒モード。警戒対象は、私の後ろで荷物を抱えて立っている旦那だ。
「やあチビ」
私と比べて遥かに大きい旦那は、強面の顔に下手な笑顔を浮かべながらチビに挨拶をした。しかし、チビはそれに応えない。数歩後ずさって踵を返し、そのまま家の奥へ走り去ってしまった。旦那は落胆のため息と供に肩を落とす。もうお馴染みになりつつある光景だ。
旦那は猫が大好きだ。私の実家に猫がいると知った時の喜びようは今も忘れられない。しかし、無造作に抱き上げようと旦那が迫り、そのまま逃げられて以来、未だ満足に触らせて貰ったことすらない。
「今回こそ、抱っこしてやる」
旦那の決心に水を差す気はないが、まずは撫でることを目標にしてはどうかと私は思う。
ともかくこうして今回もまた、旦那の涙ぐましい愉快な戦いが幕を開けた。
通りすがりのチビを撫でようとすれば、体を器用に捻ったチビにその手を避けられ、煮干しで釣ろうとすれば、一瞥も貰えずに無視される。これまで以上に、あの手この手でチビを籠絡しようと試みるが、悉く失敗に終わった。挙句に、とうとうチビは旦那の前に姿を見せなくなった。打つ手が無くなった旦那が私のところにやってくるまで、そう時間はかからなかった。
「もう、どうすればいいのか」
大きな体を縮こまらせて項垂れる旦那。原因が旦那にあるとはいえ、さすがに見ていて可哀想になってきた。私は一度その場を離れてからチビを呼んだ。当たり前のように、物陰からひょっこりと出てくるチビ。本当に可哀想な旦那。
「チビ~。私の旦那さんとさ、もうちょっとだけ仲よくして欲しいんだけど?」
そう言いながら、私はチビを抱き上げた。とりあえず、素直にチビは私の腕の中に納まってくれた。チビの気が変わらないうちに、私は再び旦那の近くに戻る。その途端、チビが警戒モードになった。余程旦那が信用ならないみたい。それをどうにか宥めつつ、旦那の手が届く範囲までチビを抱えていくことに私は成功した。褒めてもらっていいと思う。
「ほれ、そっと触ってみ?」
私の言葉に、旦那はゆっくりと、本当にゆっくりと手を伸ばした。そのテンポに調子が狂ったのか、あるいは私のお願いを聞いてくれたのか。チビは逃げることなく、旦那の手が初めてチビの背中に触れた。
「や、やった……」
旦那は虚ろにそう呟いたきり、喋る事無くそっとチビの背中を撫で始めた。そのソフトな手つきが幸いにも気に入ったらしい。少しずつチビの顔から警戒心が薄れていく。
「気持ちいいってさ」
その言葉に旦那が頷く。少し自信をつけたのか、先ほどまでの恐る恐るよりも少し撫でる手に力を入れ始めた。さらに、その手をじわじわと頭の方へ向かわせている事も私は見逃さない。あまり調子に乗らない方がいいと思うが。しかし、そんな私の心配に反して、旦那の手が首元、そして耳の後ろに到達してもチビは逃げなかった。おまけにチビは小さく鳴いて旦那の手をぺろりとその可愛い舌で舐めた。
「もっと撫でてって」
そう旦那に伝えると、まるで子供の用に顔をくしゃくしゃにして笑った。ついには顎の下にまで指先を伸ばしても、チビはなされるがまま。どうやら随分気に入られたらしい。なんというか、勝手だなチビは。
「い、今なら抱っこできるかな?」
旦那は完全に舞い上がっていた。
「やめておいたら?まだ早いと思うよ」
舞い上がった旦那の頑固なこと。
「いや、やるなら今しかないよ。大丈夫」
何が大丈夫なのかは知らないが、その目に並みならぬ決心が伺えた。いくら言っても聞く耳を持ってくれそうにない。ならば百聞は一見にしかず。私は旦那にチビを抱っこさせてみることにした。
「お尻のあたりをしっかり支えてあげてね」
自信満々に頷いた旦那が、チビを受け取ったその瞬間だった。突然身をよじったチビは旦那の腕を抜け出し、あっという間に走り去ってしまった。後には呆然とした旦那が残るばかり。
「だから言ったのに」
私は堪える気もなく、思い切り笑って差し上げた。何とかと嫁の意見には万に一つの無駄もないってね。ん?親だったかな?
それ以降、益々チビは旦那の前に姿を現さなくなった。諦められない旦那は、チビを求めて家の中を徘徊している。
「なあ、チビ見なかった?」
「さあね?」
私は肩をすくめて首を振った。「そうか」と呟き、再び徘徊を始める旦那。
「無駄だと思うけどなぁ。ねぇチビ?」
「にゃあ」とテーブルの下から小さな鳴き声が聞こえた。
了
猫に好かれないけど猫好きの人っていますよね。他の人なら簡単に触らせてくれるのに、その人にだけ触らせてくれるみたいな。そういう人の苦労をそうじゃない人の目から見た姿を描いてみました。