託されたもの
「フローシア……」
胸元から血を流す妻の姿を見て、ガインは縋り付きながら涙を流していた。
その近くでは、トリストスがフローシアの手を取っていた。
「……ごめんなさいガイン様。もう、お別れのようです」
ゴホ!
肺腑から逆流する血を口からこぼしながら、フローディエはそんなことを口にした。
「……フローシア」
そんなフローシアに、セレスティーナが歩み寄った。
「すまぬ。妾があの男を取り逃がしたばかりに」
そう言って謝るセレスティーナに対し、しかしフローシアはゆっくりと被りを振った。
「……謝らないでください。
元々、私はこの地で死ぬつもりだった身。
それが、こうしてフォルシアンの地で月日をすごし、あまつさえ子を残すことさえできたのです。
それも全て、セレスティーナ様のおかげです」
そう言うと、フローディエは自分の手を取るトリストスの方を向いた。
「まだ赤子だというのに、あなたはもう戦うことを選べるのね。
あなたは、私の誇りよ。その身に流れる二つの血が、必ずあなたを導くわ」
未だ言葉も分からぬ赤子に対し、フローディエはそんなことを口にした。
トリストスは、その言葉の意味も分からないままにただ黙って母の手を取っていた。
「フローシア……」
自分の妻に縋り、啜るように涙を流す夫に、フローシアは手を伸ばし、その頬に当てた。
「ガイン様。泣かないでください。
私にとって、この二年間は夢のような時間でした。
そのような時をくれたあなたには、本当に感謝しています」
「……だが、ですが」
大粒の涙をこぼしながら縋り付くガインに対し、フローシアは聖女のような笑みを浮かべながら言葉を紡いだ。
「ガイン様。
最後に1つ、お願いをしてもいいでしょうか?」
「……なんでも言ってください」
ガインがそう言うと、フローシアは口元を小さく動かした。
その願いを聞いたガインは、最愛の妻の唇に、自分の唇を重ね、しばし後に離した。
「ありがとう、ございます。
愛しています、ガイン、様」
そう言うと、それまでガインの頬に触れていたフローシアの手が地面に落ちた。
その表情は安らかな微笑みを浮かべており、何の悔いも後悔も見受けられなかった。
「……私の方こそ、あなたにお礼を言いたい」
妻の亡骸を前に、ガインはそう告げた。
人族との融和を望んだ自分にとって、人族と結ばれたということと、人族との間に子を成せたということは、なににも代え難い奇跡だったと、ガインは涙ながらに思った。
突如訪れた最後の別れに、ただその思いを浮かべることしか彼にはできなかった。
「……ガイン。すまぬが、ゆっくりとはしておれん」
そんなガインに対し、セレスティーナが声をかける。
「エルフ族の追っ手は、間違いなく我々がここにいることに気付く。
急いで逃げねば、再び追手に襲われることになる」
「……そうですね。その通りです」
こちらの身を案じるセレスティーナに対し、ガインはそう言って涙を拭い、立ち上がった。
「セレスティーナ様。
まずは、あなたに受け取っていただきたいものがございます」
そう言って、ガインは先ほど出来上がったばかりの弓を手渡した。
「……できた、のか?」
その問いに、ガインは頷いた。
「私の生涯で、最高の弓です」
手渡された弓には玄がなく、専用の矢もなかった。
だが、それを手に取った瞬間にセレスティーナは理解した。
この弓はこれまでの弓の常識を完全に覆す代物だと。
そして、この弓を扱えるのは自分だけだと。
「セレスティーナ様の魔力に合わせて作り上げた霊弓です。
何か、ご不便なところはございますか?」
「……馴染みすぎて怖いくらいじゃ」
幾度か弓に触れながら、セレスティーナはそう言った。
そして、ゆっくりと弓を構え、その弓に魔力を通す。
すると直後、薄緑色の玄が生み出され、その玄に触れると、その場所から同じ薄緑色の矢が生み出された。
生み出された矢を引き絞り、セレスティーナは弓を構える。
先ほどから、幾人かの気配が自分の霊感に引っかかっている。
広大な距離を埋める彼女の探知能力の前には、弓の射程など微々たるものである。
ゆえに、セレスティーナは敵の存在を察知しておれども攻撃手段がないまま待機していた。
だが、セレスティーナは矢を放った。
魔力によって生み出された風の矢は、音を置き去りにしながら、過たずに遥か彼方で待機していたエルフの狩人の眉間を射抜いた。
「……これが」
「はい。あなたのために造り上げさせていただいた霊弓です」
通常の弓の射程の100倍近い距離をあっさりと埋めてしまった霊弓の威力と精度に、セレスティーナはただただ唖然とした。
エルフ族は索敵に優れてはいても、その索敵に引っかかった敵を即座に射抜ける手段を持ってはいなかった。
だが、今のセレスティーナにはそれがある。
それはつまり、セレスティーナが一方的に相手を制圧できるという条件がそろったということでもある。
「ガイン。お主はここでフローシアを埋葬してやれ」
「……セレスティーナ様は、一体どうするおつもりで?」
ガインの問いに、セレスティーナは再度矢を放った。
ガインには到底感じ取れないが、セレスティーナの感覚にははっきりと手ごたえが残った。
「エルフ族の古いしがらみを破壊する。
もう二度と、フローシアのような悲劇を起こさぬように」
そう言って、セレスティーナは再び矢を放った。
数分間の後、再び放たれた矢は過たずにエルフの狩人を仕留めた。
「…分かりました。私の工房も、跡形もなく破壊しておきましょう」
そう言って、ガインはトリストスを抱えて工房と庵に火をかけ、最愛の妻をフォルシアンの地へと埋めた。
セレスティーナは西へ向かい、エルフ族の気配を掴んでは片っ端から屠っていった。
友の夫と子に対し、醜いエルフ族の怨念が降りかからぬようにと。
「その後、妾はこの霊弓を以て追っ手を殲滅した後に、ガインとトリストスと共に東へと向かい、そこである集落を見つけた。
その集落は偶然にも妾たちと同じく人族と融和を持とうとして追放された破戒者たちの集う集落でのう。
そこに腰を据えた我々は、破戒者たちの協力もあってエルフ族の追っ手を迎撃し、最後にはクーデターという形でフォルシアンを乗っ取ったのじゃ。
エルフ族にも古い慣習に疑問を抱く連中はいたので、そやつらを中心に人族に対する憎しみに囚われる考え方を解いていこうとしてきたのじゃよ」
二人の送ってきた壮絶な過去に、俺もフィナリアもただ耳を疑っていた。
「それが、フォルシアンの真の歴史ですか」
「でも、だったら元老院とかいう連中は今どこに?
牢獄の中にでも閉じ込められていたのか?」
俺の問いに、セレスティーナはゆっくりと被りを振った。
「元老院の連中は投獄したのだが、復讐が叶わぬと知った元老院の連中は全員が獄中で発狂死した」
「……そんなことが」
淡々と語られた歴史に、俺は再度身震いを覚えた。
この世界は、歪んでいる。
そして、今その歪みを正そうと動く者達が、出来すぎとも見える偶然によって集まってきたのだ。
俺たちが反乱を起こしたときにエルフ族を束ねていたのが、同じく反乱を起こして女王になったセレスティーナでなければ同盟なんて組めなかっただろうからな。
「で、トリストスの方は?」
「破戒者の集落で親父は職人として、俺は剣士としてそれぞれ台頭していったってわけだ」
「……なるほど」
「ですが、フォルシアンの東の果てと言えば、10年ほど前に『竜号』の脅威にさらされたのでは?」
「あ!?」
フィナリアに言われ、俺はそのことを思いだす。
大山脈は魔界、シェルビエント、トルデリシア、フォルシアンの四つの国と隣接している。
ゆえに一度竜号が起こればその4か国が被害に遭うのだ。
トルデリシア帝国はドルガー将軍とその私兵が抑え込み、シェルビエントはお抱えの魔導師部隊がどうにかしたと聞いている。
魔界については一切不明だが、魔族たちなら何とかしてのけるのだろう。
となるとフォルシアンについてはどうなったのだろうか。
「『竜号』と言うのは、大量の竜種がなだれ込んでくる東の厄災の事かのう?」
セレスティーナの問いに、俺とフィナリアは頷く。
それに対してトリストスが口を開いた。
「その時の竜号に備えて、俺たちの集落の連中は親父の装備を纏っていた。だから南部一帯の竜種は俺たちが全滅させた。俺もその時に参戦してる」
「……マジか」
計算するとトリストスは幼少期と呼べる年の頃で竜号を経験しているということになる。
普通そんな年齢の子供を竜号にぶつけるような真似はしないだろうが、トリストスだったらそのころから才覚を発揮していても不思議はない。
「ってことは、竜号はトリストスさんとそのお仲間さんたちが防ぎきったんですか?」
気になってそんな質問をする俺に、トリストスはおうと頷いた。
「つっても俺たちが防いだのは南部一帯だけだ。
北部の方にはさすがに手が回らなかった」
「では、北部の方は相当な被害が?」
フィナリアの問いに、しかしトリストスは再度首を横に振った。
「北部の竜どもはあんたが仕留めたんだろ女王様?」
「まあのう」
「え゛!?」
何の気なしにそんなことを口にするセレスティーナに、俺は絶句した。
「その霊弓は、竜燐を貫くことが出来るのですか?」
「いや、さすがにそれは難しい。じゃが、眼球を貫くことはできる」
何気なくそんなことを言ってのけるが、セレスティーナの事だから俺たちでは見えもしないような長距離から射抜いているのだろう。
文字通り針の穴を射抜く正確性と、戦略級の射程範囲と探知能力。
そのうち二つはガインが作った霊弓によってもたらされたものであるなら、なるほどこの霊弓はまさにセレスティーナのためにある武器と言える。
そんなことを思いながらセレスティーナの手にする玄の無い弓を見ていると、その視線に気づいたセレスティーナが弓を軽く持ち上げた。
「妾がこうして女王を務められるのも、お主らとこうして肩を並べられるのも、全てはこの弓の、ひいてはガインやフローシアとの出会いのおかげじゃと思っておる」
「……」
セレスティーナの独白にも似た一言を、隣でトリストスが黙って聞いていた。
そんなトリストスに対し、セレスティーナは俯き口を開いた。
「トリストス。妾は、お主の母を守れなかった。その罪は、償いきれるものではない。お主には、妾を憎む権利があるのじゃぞ?」
そんなセレスティーナの一言に、しかしトリストスはぶっきらぼうに口を開く。
「別に憎んじゃいない。
おふくろが死んだのはあんたの責任じゃあないさ。
何より、親父もあんたを憎んでなんかいないしな。
……まあ、俺の中にはまだ整理しきれんとげがあるんだろうが、とりあえずは気にしないでくれると助かる」
「……そうか」
そう言うと、セレスティーナも口を閉じた。
二人の話を聞く限りだと、トリストスは物心つく前に人族を憎むエルフ族によって母親を狩人に殺されている。
そして物心ついたときには人族との融和を求めてはみ出した破戒者たちに囲まれる日々を送ってきた。
……確かにまともな環境ではない。
訳ありな面子が多い連合軍内においてなお、トリストスは特殊極まりない。
彼の生まれと境遇は、そのまま人間界全体の種族間の諍いに起因している。
そんな根深い問題に巻き込まれ、物心ついていない時に母親を失ったのだ。
簡単に折り合いがつかないのも当然だろう。
「まあ、昔話はこんなもんでいいだろ。
それより今は魔族の迎撃に備えるんだろ?」
「そうじゃのう。その通りじゃ」
そう言って、セレスティーナは弓を手にしたまま魔界の地平を眺めていた。
その隣では、どっかりと腰を下ろしたトリストスが手にした長刀を肩に当てていた。
その姿は、まるでおとぎ話に出てくる女王様と、それを守護する騎士のようだった。
「…とても絵になるお二人ですね」
「だな」
フィナリアが俺にそう耳打ちしてきたので、俺も頷いた。
何のかんの言ってトリストスとセレスティーナの間には強い絆がある。
少なくとも、俺にはそう見えた。
魔界北部
連合軍がシェルビエントの防衛を固めている時、魔界北部に三人の男がたむろしていた。
三人とも魔界には存在しないはずの人族。
だが、彼らがまともな存在でないことは明らかである。
魔界には瘴気と呼ばれる毒素が常に微量ながら漂っている。
ゆえにまともな人族であれば呼吸が苦しくて仕方がないはずなのだ。
だが、魔界を歩くその三人は全く苦しそうなそぶりを見せていない。
魔界を闊歩する面々は以下の通り。
元帝国魔道総師ロイルド・インディオス。
元帝国上級貴族ライエット・メイスナー。
そして、加えてもう一人ロイルドとライエットと同じようにいい身なりをしている細身の男だった。
「ここが悪魔族の拠点ですかスペルダ卿?」
その三人組のなかから、ロイルドがそんなことを口にする。
それに応じるように、問いかけられたスペルダと呼ばれた細身の男が頷いた。
「間違いありませんな。魔王イファールによって滅ぼされた哀れな悪魔たち。彼らの魂の臭いを感じまするぞ」
「そうですか? ならば予定調和といったところでしょう。それで、目的の物はどちらに?」
ロイルドが問いかけると、スペルダは目を見張りながらあたり一帯を見渡した。
「匂う。匂いますぞ。悪魔王の死骸は、あちらですぞ」
そう言って、スペルダは真っ直ぐある方向を向いて歩きだした。
奇行が目立つ男だが、その仕事ぶりは優秀そのものであり、こういった探索については一任するに限る。
「見つけましたぞ。悪魔王、テオローグの死体ですな」
スペルダがそう言うと、その足元に他の悪魔たちと異なり、ほとんど腐敗していない悪魔の死体が目に留まった。
全身が焼けただれていながらも、他の悪魔たちと異なりその身はしっかりと原型を残していた。
「……死体がほとんど腐敗していない。これは一体どういうことなのでしょう?」
ロイルドの問いに、スペルダは目を輝かせながら答えを口にする。
「悪魔王自身の体が極めて強靭な生命力を宿しているというのが一つ。もう一つは、この一帯に恐ろしいほどの魔力の残滓が漂っている事でしょうな!」
「……なるほど」
魔界において死体が原型をとどめている可能性は皆無である。
なぜなら死体は魔物が最も喜んで平らげてしまう餌だからである。
しかしその魔物たちは魔力の残滓が強いところには寄り付かない。
なぜならその地点には強烈な魔法を扱う者がいたということを意味しており、そんな者と対峙すれば自分たちの身が危険にさらされることをよく理解しているからである。
「とはいえ、魔力の残滓一つでこれほどの長期間にわたって魔物たちを遠ざけるとは」
「ははは。魔力の残滓だけで一種の結界と化しておりますな! 新たな魔王。ぜひこの手でいじり倒してみたいものですぞ」
喜色を浮かべながらそんなことを口にするスペルダを横目に、ロイルドは魔力の残滓を探りにわかに驚愕する。
すでにかなりの時間が経過しているのにも関わらず、未だ魔物が寄りつかないほどの魔力の残滓が残っているという事実から察するに、この魔法を発動した術者は現在魔界を席巻しつつある魔王以外には考えられなかった。
そして悪魔王の死体が腐敗していないのは、いまだに肉体が完全に死に切っていないということを意味にしてる。
「さすがは魔界の三大勢力の一角と、それを滅ぼした魔王、と言ったところでしょうか?」
「ははは。まあ今はそんなことより、新たな実験体の入手を行いまするぞ。ライエット卿、お願いできますかな?」
「……もちろんだ」
スペルダの問いにこれまで沈黙を守っていたライエットが頷き、その手悪魔王テオローグの亡骸にかざした。
直後、漆黒の光を放つ球体がライエットの手から放たれ、その球体がテオローグの中に飲み込まれていった。
すると、倒れ伏していたテオローグの骸がムクリと起き上った。
全身に大やけどを負ったままの姿で起き上る悪魔王は、しかしその目にいかなる光も宿してはいない。
そんな悪魔王を見ながら、スペルダが喜色をあらわにする。
「相も変わらずの見事な死霊傀儡術ですな。
竜人王に加えて悪魔王まで使役できるとは」
「それはそうと、スペルダ卿」
「なんですかな? ロイルド卿」
ライエットに妙な好奇心を抱きつつあるスペルダに対し、ロイルドが話をそらすように問いをかけた。
「旧魔王の最後の一角……というより、黒核融合実験一号体の気配は本当に探知できないのですか?」
ロイルドの問いに、スペルダは残念そうに首を横に振る。
「3000年前に逃げ出した一号体の気配は感じ取れませんな。全く。どうやってあの不死身の吸血鬼を昇天させたのやらですぞ」
「……」
スペルダの言葉にロイルドは思考を張り巡らせる。
しかしここ1000年もの間洞窟内から動こうとしなかったあの吸血皇王の動向を調べるには情報が不足していた。
「ロイルド卿。何か不安なことでも?」
そんなロイルドに対して、ライエットがそう問いかける。
その問いに、ロイルドは首を横に振る。
「情報不足に不満を持っていただけです。お気になさらず」
「まあ気にすることはないでしょうぞ。初の黒核融合実験の成功体がおらずとも、既に技術そのものが確立しかかっている現在では些細な問題ですな」
「そうでしたね。それで、件の魔王は手駒にできそうですか?」
ロイルドの問いに、スペルダは鼻息を荒げながら頷く。
「もちろんですぞ! 災害魔法級の魔法を扱ってのける魔王をこの手にできる! ハァハァ! 考えただけでよだれが止まりませんぞ!」
「そうですか。それで、件の魔王の動向はどうなっているのです?」
文字通り舌なめずりをしながらそんなことを口にするスペルダを無視してロイルドは問いをかける。
そんなロイルドの問いに、スペルダは舌なめずりをしながら答えた。
「ようやく動き出したようですぞ。今、シェルビエント目指して3000…ほどの魔族が進軍中ですな」
「……舞台は整いましたか。ならば手駒がそろうのは時間の問題でしょう。とりあず、当面の用は済みました。地下帝国へと帰還いたしましょう」
ロイルドがそう言うと、彼の足もとに突如空間転移の魔方陣が浮かび上がった。
そして、その魔方陣に包まれていたロイルド・スペルダ・ライエット・テオローグを飲み込んだ。