彼女が、噓をついた
「聞いたよ。お前、ずいぶん若い子と付き合ってるんだって?」
久しぶりに飲むことになった大学の友人が、ビールを手に肩をすくめた。
「仕事で昼夜逆転してるって聞いてたし、もう恋愛なんて興味ないのかと思ってたのに」
彼は3年前に同級生と結婚して、つい先日子どもも生まれた。ほかの仲間たちからも、最近は結婚の話がいくつか届いている。
「楽しそうだな。まあ、今度は逃げられないようにちゃんと大事にしろよ」
学生の頃に付き合っていた彼女は、気づくとほかの男のところへ行っていた。「あなたは何を考えているかわからない。一緒にいても楽しくないの」仕方ないと思った。こんな自分といてもきっと楽しくはないだろう。悲しいというより、どこか冷めた気持ちだった。
いまの彼女は、雑誌の記事の取材相手だった。忘れ物を取りに来て、たまたま食事をすることになり、一緒に過ごすようになった。元気いっぱいで、明るい。よくおしゃべりをして、よく笑う。彼女といると、自然と気持ちが明るくなった。
――でも。ふと思うことがある。彼女のほうは、自分といて楽しいんだろうか。
クライアントとの打ち合わせのあと、たまたま彼女の会社の近くまで来た。ちょうど昼時で、通りにはスーツ姿の会社員の姿も多い。すると、反対側の歩道を歩く彼女の姿が見えた。昼休みだろうか。声をかけるか迷っていると、彼女の後ろから背の高い若い男性が駆け寄ってきた。彼女の肩を軽くたたく。
彼女は振り返ると、嬉しそうに笑顔を見せた。そのまま、二人で歩きだす。数軒先の店の前で立ち止まると、外に置かれたメニューを並んで見ている。彼が何か話しかけると、彼女は笑いながら彼の背中を軽くたたいた。彼も笑顔で答える。しばらくすると、彼が彼女の背中に手を添えて、二人は楽しそうに店のなかへ消えていった。
思わず早足で、その場を後にする。
いつものように夕食の支度をして待っていると、彼女が仕事から帰ってきた。
向かい合って食事をしながら、さりげなく問いかける。
「そういえば、お昼はいつもどうしてるの?」
「外に食べに行くこともあるし、買ってきて会社の休憩室で食べることもあるかな」
「そうなんだ。……じゃあ、今日は?」
「……えっと、休憩室でひとりで食べた。あんまり時間がなくて」
――え?
昼間、彼女は外で食事をしていたはずだ。あの背の高い男性と、二人で。
「今日はちょっと疲れたから、先に寝るね」
寝室の扉の向こうに、彼女の姿が消える。
――彼女は、僕に噓をついた。
「今週の金曜日、会社の飲み会なの。たぶん遅くなるから、先に寝てて」
「そう。あんまり飲み過ぎないようにね」
彼女は酒が好きで、いつも楽しそうに飲む。そして、ちょっと飲み過ぎるとすぐに寝てしまう。ソファで寝てしまった彼女を、僕は何度もベッドへ運んでいる。
「大丈夫。ちゃんと気をつけるから」
――先に寝てて。
12時を過ぎた。
酒を飲みながら、ソファで本を読んでいた。別に、彼女の帰りを待っているわけではない。何となく眠る気になれず、時間をやり過ごしていた。部屋はしんと静まり返っている。
1時を過ぎた。彼女はまだ帰ってこない。
こんな時間まで飲んでいて大丈夫だろうか。また酔って寝てしまっているのではないか。
――あの、背の高い男も一緒なんだろうか。
会社の飲み会の席に誰がいたって関係ない。明日は休みだし、少しくらい帰りが遅くなったからといって、別に気にすることもない。彼女が楽しく過ごせているならそれでいい。
――それにしても……あんなに、楽しそうに笑うんだな。
あの昼間の彼女の姿が浮かんだ。嬉しそうな笑顔。自分といるとき、彼女はあんな笑顔を見せていただろうか。いま自分と一緒にいることを、彼女はどう思っているのか。
――あなたは何を考えているかわからない。一緒にいても楽しくないの。
もう、寝よう。
本を閉じて立ち上がったとき、外から話し声が聞こえた。窓のほうへ近づく。
「上まで連れて行くから。おとなしくして」
「大丈夫。もう歩けるから。ここで降ろして」
男女の言い争うような声。カーテンのすき間からそっと下をみると、そこには背の高い若い男性に背負われた彼女の姿があった。
すぐに迎えに――そう思いかけて、足がとまる。彼女を背負っているのはおそらくこの間昼食で一緒だった男だ。彼に会って、いったいどんな顔をすればいいのか。
動きだせずに、部屋のなかで立ちつくしていた。そして、玄関の鍵の開く音。
おぼつかない足取りで、彼女が入ってくる。その後ろには、あの男。
「……あの、ごめんね。私、少し飲みすぎちゃって、その……」
「――彼女のことで、話があります。入ってもいいですか?」
彼は僕をまっすぐに見た。
「……どうぞ」
ダイニングの椅子を勧めると、彼は躊躇なく座った。彼女は一瞬とまどったあと、ゆっくりとソファへ腰を下ろした。その背中はいつもより小さく見える。
「彼女のこと、もう解放してあげてくれませんか」
彼女と同じ年くらいだろうか。声に力強さを感じる。
「僕は、彼女のことが好きです。彼女にもそう伝えました。そうしたら、付き合ってる人がいるって……。彼女が幸せなら、それでいいと思いました。でも、彼女は悩んでいて……あなたは、本当に彼女のことを想っていますか?」
問いかけているようで、答えは求めていない。僕の反応を待たず、彼は続ける。
「こんな中途半端な状態じゃ、彼女がかわいそうです。楽しそうじゃない。……そう、思いませんか?」
彼女のほうを見る。黙ったまま、うつむいている。
――何も言わないことが、彼女の答えなのかもしれない。
「……彼女が、そうしたいというなら、別に無理に引き止めたりはしない。好きにすればいい。君と一緒にいるほうが楽しいというなら、それで……」
「……どうして、そんなこと言うの?」
彼女が顔を上げて僕を見た。強い口調だった。
「最近、コウちゃんは何だか冷たくて……私が、迷惑ばっかりかけてるから嫌われちゃったんじゃないかって……。本当に、もう私のこと、好きじゃないの?」
あの日、彼女は僕に噓をついた。それ以来、彼女との間に何となく距離を感じていた。――いや。本当はただ、彼女のあの楽しそうな姿にずっともやもやしていた。
「瀬川くんに、無理して一緒にいるくらいなら別れたほうがいいって言われて……そのほうが、相手のためだって。……コウちゃん、本当は無理してるの?」
「好きにすればいいって……あなたの気持ちは、その程度なんですよね。それなら……」
「……そうじゃない」
大切に思っている。でも、そのほうが彼女のためになるなら、自分が身を引いてもいい。自分といるより、彼女が笑顔になれるなら。そして、以前のような生活に戻ればいい。
――彼女のいない生活に?
彼女は、不安そうな目で僕を見ている。
「……ちがう。本当は……」
「ありがとう。話してくれて」
自分でも不思議なほど、自然に言葉が出ていた。いつもなら決して口に出せないこと。彼女のいない生活なんてもう考えられない。そばにいてほしい。
――全部に納得したわけじゃないですけど。今日は帰ります。
彼が出ていったあと、彼女は僕の手を引いてソファへ座った。僕の顔を覗き込む。
「コウちゃんはいつも冷静で何も言わないから、ちょっと不安になっちゃって……でも、もう大丈夫。ごめんね、こんな話させちゃって」
「いや……」
「瀬川くんに一緒にお昼食べようって言われて、それから、好きって言われちゃって……だから言えなかったの。嘘ついて、ごめんなさい」
彼女はいつも噓なんてつかない。誠実に自分と向き合ってくれている。
「でもね、ちょっと意外だった。まさかコウちゃんが……ヤキモチ、やくなんて」
思わず顔が熱くなる。「……もう、その話はいいよ」すると彼女は首を傾げ、いたずらっぽい目で僕を見る。
「コウちゃん、赤くなってる……かわいい」
嬉しそうな笑顔。こんな笑顔、久しぶりに見たような気がする。
そっと抱き寄せた。じっと顔を見られていることに耐えられなかった。
「ねえ、もっと顔、見たいのに」
「だめ」
まったく。これから先、どれだけ振り回されるのか。まあ、それも悪くないか。




