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短編集

『異変だと思うなら階段を上れ。それが真実と思うなら階段を下れ』

作者: Mel

 冷たい石の感触に目を覚ました。

 

 重たい頭を持ち上げて見渡せば、周囲は石造りの壁に覆われていた。天井は高く、窓もない。

 ここがどこなのか、自分が何者なのかもすぐには思い出せなかったが――今日は……そうだ。楽しみにしていた狩猟祭で、王太子として生を受けた自分が廷臣らに威光を示す日だった、はず。

 そんな断片だけが、ふっと脳裏に甦る。

 

 万全を期すために昨夜も早く床に就いたはずなのに。なぜ自分はこんなところで横たわっていたのだろうか。

 しばらく呆然と立ち尽くしていたが、壁に一枚だけ紙が貼られているのが目に入り、恐る恐る近づいた。

 

『異変だと思うなら階段を上れ。それが真実と思うなら階段を下れ』

 

 ……何だこれは。夢か、冗談か。弟を擁する政敵に攫われ、囚われでもしたというのか。

 紙に書かれた矢印の方角へと目を向けると、下へ続く螺旋階段がひとつ、ぽっかりと口を開けていた。

 

「……下りろ、ということか」

 

 ぽつりとこぼれた言葉が螺旋状の闇へと吸い込まれていく。

 ただ従うのも癪だったが、ここに留まったところで事態が好転する気配はない。壁に手をつき、階段を下りると、こつ、こつ、と靴音が規則正しく響いた。

 

 三十段を超えたあたりで数えるのはやめたが、やがて視界がふっと開ける。

 そこにも石造りの広間が広がっているのだろうと。もしくは地上に出るための扉があるのだろうと。

 そう見当をつけていたのに、階段を下りきった先で目の前に広がっていたのは――鬱蒼とした森だった。

 

「建物の中に森だと?」

 

 もはやそれ自体が異変と言えるのではないだろうか?

 青い梢が天井のように重なり、姿は見えないが小鳥のさえずりが木立の間に響く。苔むした岩、清らかな湧水のせせらぎ。どう見ても自然の森だ。――ただ、草陰に覗く鉄の罠だけが異様だった。血で濡れ、赤錆の匂いが鼻を刺す。

 

 記憶の底に、かすかな波紋が広がった。どこかでこの光景を目にした覚えがある。

 

「……狩猟祭の会場か?」

 

 脳裏に浮かぶのは、先ほど目にした張り紙の文章。

 

『異変だと思うなら階段を上れ。それが真実と思うなら階段を下れ』

 

 森の広がり、鳥の声、揺れる枝葉。あまりに鮮やかで現実味はあったが、建物の中に森があるはずもない。何よりも、私の足元にはいつの間にか熊の死骸が転がっていた。これなら十分な褒賞は得られるだろうが……こんなもの、私の手に追えるような獲物ではない。

 

「なるほど。これが、異変というやつか」

 

 指示に従い、来た道を戻る。下りてきた階段をくるくると上る。

 自分の身体はこんなにも軽やかだったろうか。手の甲に視線を落とせば、まだ張りのある肌に汗の粒が浮かんでいた。


 

 上りきった先、本来であれば先ほど横たわっていた石床に戻るはずだ。

 だがそこに広がっていたのは、まるで別世界のような光景だった。


 深紅の絨毯が足元に延び、壁には金糸の刺繍が施されたビロードの幕。

 香の煙がゆるやかに立ちのぼり、燭台が炎を揺らめかせ、空間を妖しく染めている。

 どう見ても、王城内の部屋ではない。

 城下にある高級娼館の――あの夜の部屋だった。


「まあ! ようやくお越しくださいましたのね、殿下!」


 甲高い声に思わず眉をひそめる。

 幕の向こうから現れたのは、香水を振り撒きながら駆け寄ってくる女だった。

 髪はきらきらと飾り立てられ、化粧の濃い顔に笑みを貼り付けている。だが、その目だけがぎらぎらと光り、必死に私の動きを追っていた。


 確かにこの女のことは知っている。

 だが、こんな表情や仕草は知らない。私の知る彼女とは似ても似つかぬ何か()()()()だ。


「まさか、お前がこのわけの分からん空間の主だというのか?」

「嫌ですわ。昨日もあんなに愛し合ったのに。私をお忘れですか?」


 女は私の腕にぴったりと体を寄せ、肌をさらした胸元を押しつけてくる。

 

「意地悪を言わずに思い出してくださいませ。私こそが、殿下の妻となる女なのでしょう?」


 ……なんなのだ、この著しく品位に欠けた女は。媚びた声も、過剰な仕草も、鼻を突く香水も、全部が不快で仕方ない。


「それ以上私に近寄るな。私はお前のような女は知らぬ!」


 私が吐き捨てるように言った瞬間、女の笑みがぴたりと固まった。

 

「酷いです、殿下。確かに私は卑しい身の女ですが、そんなことは関係ないと仰って下さったではないですか。王妃にだってしてくれるって。私、嬉しかったのに!」


 確かに言った。――我が妻になって欲しいと。

 けれど、それは今のこの女に向けた言葉ではない。

 脳裏に過ぎるのは、困ったように笑う女の姿。媚びた瞳を向けてくる目の前の女とは、とても重ならない。


 女はなおも必死に縋りついてきた。腕を掴まれ、爪が肌に食い込む。香水の匂いが鼻を刺し、耳元でがなり立てる声が不気味なほど大きく響いた。


「待って、殿下! 今度こそ私と添い遂げてくださいませ!」

「しつこいぞ、離せ!」


 乱暴に振り払うと女は床に崩れ落ち、わあわあとみっともなく泣き声を上げた。その声を背に、私は迷わず階段へ向かう。異変を感じ取ったなら元の階段を上る。それがこの空間でのルールだったはずだ。


 あんな女は知らない。

 あんな女に心を許すはずがない。

 私が妻に迎え入れようとしたのは、顔こそ同じでも決してこんな卑しい性根の女ではなかった――。


 

 一段、また一段と逃げるように駆け上がる。

 未だ耳にこびり付く泣き声を振り払い、息を切らして上りきると、また別の光景が広がっていた。


「……殿下。また立場を弁えずに城下に行きましたね?」


 懐かしい声に、思わず目を見張る。

 そこは見慣れた執政室。磨き込まれた机、整然と並ぶ書簡、窓から差し込む陽光。その整いようはこの部屋の主の几帳面さをよく表している。


「今は大事なときなのです。護衛は必ずつけるようにと、いつも申し上げているでしょう」


 小言を漏らすのは、幼い頃から苦楽を共にした乳兄弟。今は侍従として付き従い、いつもこうしてくどくどと文句を垂れてくる。私が何かをしでかすたびに、物怖じすることなく真正面から非難してくる男だった。

 

 それは昔から変わらぬ光景。異常な状況に身を置いているにもかかわらず、彼を目にした瞬間にどこか安堵している自分がいた。あんなにも、煩わしいと思っていたはずなのに。


「……お前は、本当に変わらんな」

「なんですか、しみじみと。貴方に言われたくありませんよ。王となる御方なのですから、自重という言葉を覚えてください」

「分かった分かった。だが、なんでだろうな。お前にこうしてネチネチと言われるのも、ひどく久しい気がする」

「昨夜もかの娼婦との付き合いについて苦言を呈したはずですが……お忘れのようなので、また最初から説明いたしましょうか?」


 彼の説教は始まると長い。それに、すべてが正論であるから耳が痛くて仕方ない。

 ――これは異変なんかではない。彼は変わらず、彼のままだ。


 私は螺旋階段を下りた。「どこへ行くのですか、殿下」という声に、少しの名残惜しさを覚えながら。


 

 階段を下りた先。地上に続く出口に至るのではと期待したが、今度は静かな寝室だった。白いカーテンが柔らかく風に揺れ、窓から差す光が床に淡い模様を描いている。

 その光の中で、ひとりの女が寝台に腰掛けていた。


 女は私に気がつくと、ゆるやかに歩み寄ってきた。面差しは柔らかく、皺の刻まれた目元には深い慈しみが宿っている。

 そして私を抱きとめるようにしなやかに両腕を広げた。


「おかえりなさい。そんなに慌ててどうしたの?」


 その柔らかな声に胸の奥が熱くなる。長く張り詰めていた心の糸がするすると解けていく。

 永く焦がれてきた優しい瞳が、いま確かに私ひとりを見つめている。


「……母上……?」


 口からこぼれ落ちた声は、自分でも驚くほど幼かった。


「ええ、貴方の母ですよ。ふふふ、おかしな子ね。今日は何をして過ごしたのかしら。私に教えて頂戴な」


 手を引かれるがままに長椅子に誘われ、母の隣に腰掛けてしまっていた。


「本当に母上なのですか……?」

「あら、母の顔を忘れてしまったのですか? ずっと、傍にいたではありませんか」


 愛情を滲ませた声音に胸がじんと熱を帯びる。幼子のころから夢見た光景に心が甘く溶けていく。


「貴方には厳しく接してしまいましたが、それも全て貴方を想ってのこと。……立派な王になりましたね」


 ――これは異変なんかではない。

 やはり母は私を愛してくれていたのだ。

 

 母の手をやんわりと振りほどき、迷わず下へ続く階段へ向かう。

 けれど……下りきった先に広がっていたのは、また同じ寝室。

 白いカーテン。光の粒。慈愛に満ちた女がそこにいる。


「どうしたの? どこへ行くつもりなの? 貴方の居場所はここでしょう?」


 再び差し伸べられる腕に、足がすくむ。

 異変ではない。そのはずだ。それなのに、どうしてまたここに戻る?


 三度目も同じだった。四度目も。

 そのたびに「私の自慢の子ども」と語り掛けてくる言葉はひどく甘美で、頭を撫でる手は暖かく、どこか歪んで響いた。

 

 それでも信じていたかった。

 ずっとここに留まってもいいとすら思った。

 

 だが母は、私を抱きしめながらなんてことはないように耳元で囁いた。


「貴方は本当に立派ですよ。……弟では成し得なかった偉業なのですから。母は心から誇らしく思います」


 ――ああ、違う。

 この人は母なんかではない。

 だってあの人は……弟だけを可愛がり、私を顧みることなどなかったではないか。


 あの母が弟を差し置いて私を愛おしむはずもない。

 王位争いの果てに弟に自害を命じたあの日。

 母は私に憎しみの目を向け、「お前を産んだのは間違いだった」と喚き散らしていたのだから。


「……まさしく異変、か」


 認めた瞬間に涙がぼろぼろと零れ落ちる。

 母に認められたい一心で、もがいた日々が通り過ぎていく。


 私を抱きしめる母の腕から逃れ、覚束ない足取りで螺旋階段へと向かう。


「どこへ行くのですか、ウィンター」


 ハハ、と乾いた笑いが漏れる。

 あの人は、私の名を呼んだことなど一度もなかった。


 

 鉛のような足を引きずって階段を上った先。

 嫌味のように広がる景色は、国民総出で行われた王位継承パレードの風景だった。


「新国王陛下、万歳!」


 喜びに満ちた顔で私を迎え入れる人々。

 陽光はまぶしいほどで、紙吹雪が宙を舞い、胸を打つ太鼓の響きが地を震わせる。


 そうだ。私は民草に愛される王であったはずだ。

 なにせ善政を布くと誓ったのだから。旧来のしきたりを断ち切る努力を重ねたのだから。讃えられて然るべき存在だった。


「……」


 それなのに。足は自然と下りてきたばかりの階段へと向き、来た道を踏みしめるように一歩ずつ上り始めた。

 これは異変などではないはずなのに。

 私は王としての責務を果たしたはずなのに。


 

 階段を上りきった先では、今度はひどく静かな光景が待っていた。

 ベッドの傍では一人の男が佇んでいる。


「……父上。私は賢王と称された貴方に倣い、民を導いてまいりましょう」


 私によく似た青年が声を震わせながら誓いを立てている。その眼下には――すっかり老いさらばえた私がベッドに横たわっていた。

 死に顔は安らかだ。なんの悔いもないと、そう言いたげなまでに。

 どこからか啜り泣く声が響く。惜しまれて逝ったのだと、それがよくわかる美しい光景であった。


 ……なんと皮肉めいた夢物語であることか。

 私はこれで終わりだろうという確信を抱いて、もと来た階段へと引き返した。


 だって、これを異変と言わずして何と呼べばいいのだ。

 道を違え続けた結果を、私は知っているというのに。


 

 ――狩猟祭のあった日。

 思うように獲物が得られず焦っていた私は、森の奥から小さな悲鳴を聞いた。

 茂みをかき分けると、足を血に染めた子狐が罠から逃れようともがいていた。咄嗟に手を伸ばした刹那、錆びた鉄の歯が指先を裂いた。

 ほんの擦り傷のはずだったのに。私は何の成果も得られなかったばかりか高熱にうなされ、王宮には十日間、祈祷の香が満ちた。


『次代は弟殿下に』


 朦朧とした意識の中。寝所の戸口の陰からそんな囁きを聞いた。


 幸いにして一命は取り留めたものの、体調のすぐれぬ日々が続いた。胸の奥に靄がかかったようで、何をしても満たされぬ虚無感に苛まれた。

 母が一度も見舞いに来なかったせいかもしれない。

 私の婚約者としてあてがわれた娘が、弟の腕に絡みつく姿を目にしたからかも。

 

 

 図ったように差し向けられた娼婦に、私は安らぎを求めた。

 香水の匂いに孤独を覆い隠し、束の間の夢に身を沈める。――そんな私の脆さに愛想を尽かし、忠臣らの心が離れたのも無理からぬことだろう。


『私の妻となれ。お前には、女としての最高の栄誉をくれてやろう』

『お戯れはおやめください、殿下。私は今のままで十分でございます。……貴方様がいてくだされば、それだけで』


 私に心を傾けてくれた彼女は王妃の座など望んでいなかった。

 金のために雇われたことも、政敵の差し金であることも、包み隠さず明かしてくれたのだ。

 

 彼女が無惨な遺体で見つかったとき――私はもう二度と、誰も愛すまいと誓った。

 

 

 乳兄弟であり、私の唯一の友でもあった男はいつも私を諫めてくれた。

 宴での振る舞いも、政での驕りも。

 愛する女を失って腑抜けていた時だって、あの男だけが真正面から意見した。


『殿下、感傷に浸っている暇はございません。貴方を利用しようとする者どもが、すでに動いております』

『お前もその一人ではないと、どうして言い切れる?』

『……殿下。私が今の貴方を利用する利など、どこにもないと分からないのですか』


 連日続く問答が煩わしくなり、私は自ら彼を遠ざけた。

 しばらくして、彼の謀殺の報せを受けたとき、胸を占めたのは己の判断の甘さへの悲嘆などではない。

『ああ、もう叱ってくれる者もいないのだな』という、ひどく乾いた実感だけだった。


 

 王位争いが佳境を迎えた頃、母が初めて私を夕餉の席に招いた。


『ようやく母上が私を』


 そんな愚かな期待を嘲笑うように、杯を重ねるたび舌の奥が痺れていく。

 すべてを悟った私は、薄ら笑いを浮かべる母を前に笑顔で飲み下した。

 ……毒など、幼いころからこの身に馴染ませてきたというのに。そんなことすら、母は知らなかったのだ。


 弟に罪を被せ自害を命じることで母の所業は不問とした。

 それが、私なりの復讐だった。


 

 民は、最初から私を受け入れようとしなかった。

 即位のパレードで返されたのは、歓声ではなく冷ややかな視線だけ。

 民心を得ていた弟を死なせたことで私は冷酷な王と呼ばれるようになった。


 それならば、それでいい。

 もはやこの国に未練などなく、王位に就いたのも意地でしかない。

 奸臣どもに政を委ね、享楽に身を沈めるうちに、"次代の賢王"という呼び名も遠い昔となった。


 

 最後に私を待っていたのは、人生の幕を下ろすのに相応しい――処刑台だ。

 乾いた風が吹き抜け、石畳の上に影が伸びる。

 遠くで民衆のざわめきが潮騒のように寄せては返す。

 その中心で縛られた私は、静かに刃の光を見上げていた。


 剣を振りかぶるのは、かつて禅譲を迫ってきた息子。

 いや、弟の特徴を宿したあれと血が繋がっていたのかすら、今となっては定かではない。

 ……どうでもいい。もはや意味をなさぬことだ。

 

 風が止む。

 鐘の音が響く。

 刃が振り下ろされ、紅い飛沫が視界を染めた。

 

 

 記憶に残るこれらこそが真実なのだというのなら――。

 この塔で目にした"異変"の数々は、私の人生に決して存在しえなかった理想や欺瞞でしかない。

 

 我ながらずいぶん青臭い夢を抱いていたものだ。

 そんなことを考えながら階段を上っているうちに、やわらかな光が視界を満たし、景色はいつの間にか最初に戻っていた。

 

 狩猟祭の森。

 ただ一つ違うのは、罠に銀色の毛並みを持つ子狐がかかっていることだけだった。


 痛みにきゅうきゅうと鳴きながら縋るその瞳の先には、二匹の狐がいる。

 母狐と、兄弟の子狐だろうか。

 二匹はしばらく罠にかかった子を見つめていたが、やがて諦めたように身を翻した。


 その背を見送るうちに、胸の奥が鈍く疼いた。何を思ってあの子狐を助けたか、今になってようやく思い出す。

 ――母に振り向いてもらえなかった自分と、重なって見えたのだ。


 もしも転落の始まりがこの森であるというのならば。この子狐を見捨てれば、私は傷を負うことも、病に倒れることもなかっただろう。

 王宮での立場も揺らがず、あらゆる過ちを避けられたかもしれない。

 そうすれば、この塔では異変とされたことを真実に置き換えることだって――。


「……まさかこの茶番は、お前からの()()()だとでもいうつもりか」


 罠から逃れるのを止めた子狐を見下ろし、問いかける。

 子狐は金色の瞳をこちらに向けたが、返事代わりに一声かすかに鳴いただけだった。


 それならば為すべきことは明確だ。

 私は、いつかのように――罠を外すべくしゃがみ込んだ。


『――どうして』


 聞きなれぬ子どもの声が、頭の内側に響く。

 顔を上げると、子狐はどこか戸惑ったような眼差しで私を見つめていた。


「……お前の仕業だったのなら生憎だったな。私は、同じ過ちを繰り返すほど愚かではない」

『だったら、どうして』


 罠の歯が子狐の足に食い込み、その痛みが私の指先にも伝わる。

 それでも構わずに罠を外すと、子狐はよろよろと立ち上がり、数歩進んでから私へと振り返った。


「私の過ちは、ここではない。……なに、確かに病には倒れるだろうが、お前のおかげで先を知っている。大事には至らぬさ」


 子狐はしばらく私の顔を見つめていたが、やがて静かに踵を返し、森の奥へと消えていった。

 あの日は二匹の後を追ったように思えたが。今度は、別の道を選んだようだ。


 その背を見送ると、静謐だった世界が途端に色を取り戻し、森のざわめきが甦る。

 はるか後方から「殿下!」と叫ぶ友の声が聞こえてきた。


 ――さて、何から手をつけるべきか。

 血の滴る指を軽く握りしめながら、私は考える。


 そうだな。まずは、ゆっくりと静養することだ。

 かつては弟の台頭に怯え、無理を押して病を悪化させてしまったから。


 それから……彼女には、密かに金を届けさせよう。

 雇われた理由は、病の家族を養うためだと言っていた。たとえそれが偽りであったとしても、金さえあれば政略に巻き込まれることもあるまい。


 婚約者とも、早々に関係を解いておくべきだ。

 あれは弟と心を通わせていたのだから。

 

「殿下! また護衛もつけずに一人で……! ……その傷はいかがされたのですか。早く治療をしなくては」

「構わん、かすり傷だ。それよりも、だ。私は王位継承権を放棄する。そう皆に申し伝えてくれ」

「……は? なにを、仰っているのですか? ちょ、お待ちください、殿下!」

 

 ……これでいい。これで母は満足することだろう。

 どうせさしたる器も持ち合わせていなかった。母の寵愛を得ようと足掻いたことこそが、そもそもの間違いだったのだ。


 あとは隠居してもいいし、目につかぬ形で国事に専念してもいい。

 いずれにせよ、もう同じ光景を見ることはないはずだ。


 

 ゆっくりと空を仰ぐ。

 そこにあるのは、長く閉ざされていた石の天井ではなく――透き通る青だった。


 ああ、私はこんなにも広い空を、いつから見ていなかったのだろう。


 まるで初めて世界というものを知った子どものように、私はただ見上げていた。


 


 旅人を惑わす銀狐の伝承が語り継がれる国に、賢王と称された国王がいた。

 その国王には兄がいたそうだが、公式の記録には、その名も功績についても多くは語られていない。


 ただ――晩年、彼は家族と友人に看取られ、穏やかな生涯を終えたという。



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― 新着の感想 ―
>鉛のような足を引きずって階段を上った先。 >それなのに。足は自然と下りてきたばかりの階段へと向き、来た道を踏みしめるように一歩ずつ上り始めた。 ここで階段の昇り降りの向きがズレてしまっているようです…
からっぽな心を抱いて雲ひとつない澄んだ空を見上げているような、さみしいような、清々しいような読後感でした。 慕う母には殺されかけ、婚約者には裏切られ、他人からの批判はどうあれそれでも必死に生き抜いて…
 彼にとっての一番の失敗は、慕うことも愛情を求めることもしてはならない相手を、慕って愛を求めてしまったことだったのですね。何とも言えないやるせなさと、繰り返しの向こうに見出し、掴んだ穏やかな幸せが尊い…
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