水は流れ雲は行く
陽が西の端に傾き、北通りの商店はまた活気づいた気配が漂ってきていた。
伯爵邸の奥、貴賓室では、カイルとケイトがレオニダスとの歓談を終えて席を立つところだった。
「では閣下、また晩餐の席で」
思いのほか、二人は楽しくレオニダスとの時間を過ごした。自分たちの近況や些細な身の回りの話に、レオニダスも楽しそうに相槌を打ち耳を傾けくれた。カイルが恭しく一礼し、ケイトもその後に続く。二人の足音が廊下の奥に消えると、室内は一瞬だけ静まり返った。
その沈黙を破るように、どこに潜んでいたのか壁際から男が一歩進み出る。
レオニダスの諜報員であるその男は、周囲に聞こえぬ低声で報告を始めた。
「閣下のご命により診療所を調査いたしました。……例の少年の痕跡、確かにございます」
レオニダスの眉が僅かに上がる。
「話せ」
「はい。魔瘴熱患者の複数が“銀髪の少年に治療を受けた”と証言しております。患者たちは、彼の治療によって回復したと口を揃えて言っておりました」
「…治療も少年の功だったということか……」
唸るようにレオニダスは頷いた。
「さらに――先ほど、マリシア伯爵夫人がリリア医師を直接訪ね、銀髪の少年については一切口外しないよう口裏合わせを依頼しておりました」
報告の一言一句を、レオニダスは深く胸に刻み込む。
――やはりいたか。しかも伯爵家総出で隠そうとしている。
窓外から差し込む夕陽が、金の刺繍を施された軍衣の肩章を淡く染めた。
男爵領の黒樹の森で見た、機械の暴発を押しとどめる小さな背中――あの影が、輪郭を伴って蘇る。
魔瘴熱の沈静化もかの少年の功績だとすれば、もはやただの偶然や幸運ではない。
しかし、諜報員の報告を聞き終えたレオニダスの胸中には、奇妙な静けさが広がっていた。
――この町に根付き、家族や仲間に囲まれて生きている少年。
“身元不明の、危険なまでに強力な魔法を使う子ども”という不気味さは、次第に色を変えていく。
サリウ伯爵家――愛すべき旧友クカイの血を引く一族だ。
その彼らが必死に守ろうとする子どもなら、その理由を踏みにじるべきではないのではないか……。
そして何より、自分自身も、クラウドと会って何を為そうとしているのか、答えを持ってはいなかった。
例えば、再び捕らえ、力を量り、王都へ送るべきなのか――。
壊れた魔法拘束具を思い返し、心がざらつくものがあった。
「……わかった。よい働きをしてくれたな」
諜報員を下がらせると、レオニダスは軽く息を吐いた。低く抑えた声に、部下は深く一礼して部屋を去った。
⸻
やがて晩餐の刻となり、執事が迎えに来た。
伯爵家の食堂は、長いテーブルの上に燭台の灯が整然と並び、白磁の皿には前菜が美しく盛られている。
窓の外では群青の空に星が瞬き始め、ワインの紅が蝋燭の炎を受けて柔らかく輝いていた。
「閣下、本日はようこそお越しくださいました」
サリウの声は努めて平静だったが、奥底には警戒の色が消えてはいない。
マリシアも微笑みを浮かべながら隣に座り、さりげなくカイルとケイトの間に視線を送っている。
晩餐は思いがけず終始和やかに進んだ。
レオニダスは旅先の珍しい出来事や東の城塞都市の市井の話を語り、カイルやケイトは時折笑いを漏らす。
緊張の糸が少しずつ緩む中で、サリウ夫妻は“あの話”が出ることを構えていたが、レオニダスの口からは終ぞ少年の名が出ることはなかった。
肉料理が運ばれ、赤ワインが注がれる。
レオニダスは杯を傾けながら、ふと静かに言った。
「ファーラントのワインは、やはり旨いな」
その声音には、戦場での鋭さはなく、古き友を懐かしむかのような柔らかさがあった。
サリウはわずかに目を見開き、マリシアと短く視線を交わす。
――取り越し苦労だったか。
だが同時に、これが嵐の前の静けさである可能性も捨てきれなかった。
安心しきるわけにはいかない。
それでも晩餐は滞りなく進み、最後にはレオニダスの上機嫌な笑い声さえ響いた。
食後のワインを飲み干す彼の横顔は穏やかで、サリウ一家もようやく心の底から息をつけた。
「サリウよ、久々に快いひと時だった。今夜は良い夢が見られそうだ」
そう言って席を立ったレオニダスの姿に、警戒と安堵がないまぜになった思いが残る。
⸻
翌朝。
伯爵邸の馬車が邸前に一台止まった。
澄んだ冷気の中、淡い緑の外套を羽織ったリリア医師が降り立つ。
白い吐息を漏らしながら、歩くその表情は、緊張と覚悟を帯びていた。
――魔瘴熱から人々を救った奇跡の医師として、公爵の前に立たなければいけない。
公爵のさまざまな問いに、どう言い繕おうかを考えながら、応接間に彼女が参内すると、すでにレオニダス公爵とサリウ伯爵が待ち受けていた。
「お待たせしてしまい申し訳ございません。北通りの診療所の、代表医師を務めるリリア・カストゥールと申します。拝謁の御沙汰に参内して参りました」
リリアは御前に深く拝礼しながら言う。その頰は白く、見るからに血の気が引いていた。
「良いのだリリア殿。連日、魔瘴熱患者のため、身を惜しまず医に尽くされていたこと、聞き及んでいる」
レオニダスは、ゆったりとした所作で席を勧めた。
その眼差しは柔らかく、けれども底知れぬ深さを湛えている。まるでリリアの、本質を覗き込もうとするかのように。
「……恐れ入ります」
リリアは腰を下ろし、膝の上で両手をきゅっと組む。背筋を伸ばしながらも、その緊張は僅かな指先の震えに現れていた。
「魔瘴熱は厄介な病だ。私も北方で流行した際、何人もの死を見た。――それを、あの短期間で沈静化させたというのは、並大抵のことではない」
レオニダスは感嘆の息を吐き、静かに首を振った。
「患者たちは、よくぞ持ち堪えたものだ」
リリアは、あえて事実だけを述べた。
「はい……町の医師や薬師、避難民の方々までもが力を尽くしてくださいました。私はその一端を担ったにすぎません」
サリウが穏やかに口を添える。
「閣下、町の人々が一丸となって立ち向かった結果です。まさに幸運と努力の結実でありましょう」
「うむ」
レオニダスは短く頷いた。それ以上、病の経緯や詳細を問いただすことはしない。代わりに、杯に注がれた温かな茶をひと口含み、ゆっくりとリリアを見やった。
「民を救う者には、相応の敬意を払わねばならぬ。リリア殿、その献身は大いなる誇りだ」
その言葉は真摯な響きを帯び、リリアの胸に静かに沁みた。
「もったいないお言葉です」
短い謁見は、拍子抜けするほど穏やかに終わった。
リリアが部屋を辞したあとも、公爵はその背を見送るようにしばらく扉の方を眺めていたが、やがてゆっくりと立ち上がった。
「さて、そろそろ私も帰り支度を整えねばなるまい」
その声は軽く、温かさを纏っていた。だがその瞳には、ファーラントの町に生きる、全ての人々を測るように、強い光が宿るのだった。




