ファーラント伯爵邸
夕暮れ時。ファーラント伯爵邸の高窓に、赤みを帯びた陽が斜めに差し込んでいた。
練習を終えて屋敷に戻ったケイトは、ほんのり汗ばんだ頬のまま、兄の部屋へと駆け急いだ。控えめなノックのあと、すぐにドアを開く。
「ケイト?」
振り向いたのは、9歳になる兄カイルだ。整えられた髪に淡い緑色の上衣。書架の前で本を開いていたようだ。
「カイル兄さま、聞いてくださいまし! わたくし……火が出せましたの!」
ぱっと両手を掲げ、声を弾ませるケイト。驚きのあまり、カイルは本を持ったまままばたきを繰り返す。
「えっ……火? その、火魔法の?」
「はい! ちゃんと、指先から光が灯ったんですの。クラウドさまが教えてくださって!」
「クラウド……くんが……?」
カイルは本を机に置きながら、ケイトの話に耳を傾ける。ケイトは、今日あったこと――クラウドやフィーネと一緒に魔法の練習をしたこと、水の球がふわふわと宙に浮かんだこと、クラウドの水球がとても大きくて、綺麗で、静かに回っていたこと。そして、自分にも火の気配が現れた瞬間のことを、夢のように語った。
「クラウドさまの言葉がね、とっても優しかったの。魔力は、あたたかいものを包むように……って」
うっとりとしたケイトの声に、カイルは静かに頷きながら、小さく笑った。
「なるほど。そういう子なんだね、クラウドくんは。――やっぱり、ただ者じゃないな」
「そうですの! それに、フィーネさんもとっても上手で……氷とか、霧とか、いろんな水魔法を見せてくれて……本当に、すごかったですの」
「ふふ、いい刺激をもらえたんだね。よかったよ、ケイト」
カイルは妹の頭にそっと手を置いた。その手のぬくもりに、ケイトの心がふわりとほどけていく。
「兄さま、また行っても……魔法の練習に行ってもいいですの?」
「もちろん。――でも、無理はしないでね。火の魔法は、感情と繋がりやすいから」
ケイトは真剣に頷いた。部屋の窓の向こうには、赤く染まった空が広がっていた。
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その頃、伯爵執務室の奥では、もう一つの報告が始まっていた。
椅子に腰掛ける伯爵サリウと、その隣に控える夫人のマリシア。年若い伯爵夫妻はサリウが28歳、マリシアは27歳だ。その前には、静かに立つルディウスの姿がある。彼は道中の埃を払っただけで、練習を終えた服のままだった。
「……では、詳細をお願いします。娘を任せている以上、何があったのか把握しておきたい」
サリウは、家中でも先代から仕え重鎮でもあるルディウスに対し、丁寧に静かな声で問いかけた。それに、ルディウスは一礼し、低く、確かな声で語り始めた。
「……まず、申し上げます。ケイト様の火魔法は、確かに存在しておりました。本人の意思によって、初めて火の気配を顕現されました」
マリシアが目を見開く。
「火の気配が……?」
「はい。これは……クラウド殿の指導によるものです。恐れを取り除き、魔力の流れを自然に導くという、年齢に似合わぬ精妙な教えでした。……まるで、熟練の指導者のような」
サリウは指を組んだまま、じっとルディウスを見つめた。
「クラウド……北通りの子どもではないな?単なる市井の子とも思えんが…」
「はい。まさしく……失礼ながら、その器はとても町の子どもとは思えません」
ルディウスの語気には、戸惑いと確信が混じっていた。
「今日見た魔法……水を空中で複数制御し、質量変化、温度変化を自在に操る技術。そして、多大な魔力」
「多大な……?」
マリシアが小さく首を傾げた。
「一流の魔法士が時間を練って作るような大きさの水球を、僅かの間に軽々と何度もです。あの年齢で水球を複数操作していること自体が異常なのにです。しかも、それを見て学び、応じるように動ける少女――フィーネ嬢もまた、尋常ではない適応力と集中力を持っていました」
「……フィーネとは。……名前に聞き覚えがあるな」
「土と水、二つの属性に適性を持っているようです。魔力量はクラウド殿には劣りますが、精度と感性において非常に優れています。クラウド殿との相互作用で、さらなる成長が見込まれるでしょう」
サリウとマリシアは目を見合わせた。ルディウスは続ける。
「これは私の見立てですが……クラウド殿の指導の端々に、成熟した論理と直感の融合を見ました。これは……恐らく、誰かから継承されたものです。自己流ではない。あの少年には優秀な師がある。そうでなければ、あの域には至れない」
しばし沈黙が落ちた。
やがてサリウが口を開く。
「……調べるべきだな。クラウドとフィーネ。彼らの背景に、何があるのか。育てた者は誰なのか。――そして、クラウドの力の本質を」
夫人がそれに対して言う。
「力あるものはそれに相応しい力の使い方をしなければいけないわ。ファーラント伯領のため、領民のために」
「承知いたしました。明日以降、正式に身辺の調査に入ります」
ルディウスはそう言って一礼し、静かに部屋を辞した。
残された夫妻は、沈黙の中で、窓の外の赤く染まる空を見つめていた。長い夏の終わり、まだ見ぬ未来の気配が、そこに仄かに揺れていた。




