魔法の力
さらに何日かほどが過ぎた。
まだ自分では何もできない。寝返りも打てないし、首もすわっていない。けれど、不思議と意識は明晰だった。
ただの赤子とは思えないほど、思考ははっきりしていて、視線を定める力も少しずつ強まっている。
ある朝、クラウドは母の裁縫の様子をじっと見つめていた。母の名前はミリィ、ときおり近所の女性がうちを訪ねてやってくる。ミリィの刺繍を褒めては布や衣服を預けていく。どうやら母は裁縫の仕事をしているらしい。
今朝も朝食の後片付けを終えると小さな作業机の前で、色とりどりの糸を広げ、細やかに指を動かしていた。
ミリィの指先は、糸を通した針と共に滑るように布を走り、まるで歌うように一定のリズムで縫い目を重ねていく。
そのたびに、糸の根元がふわりと輝く。
青や黄色の光。それは決して強い光ではない。ごく淡く、揺れるように、まるで感情の気配のような存在だった。
(やっぱり……これは、魔法だ)
確信に近い直感。
だが、それは言葉では表せない種類の感覚だった。
色、温度、振動、空気の密度——そうしたものが一つに溶け合い、「魔法」としか呼べないものとして認識されているのを、彼は感じていた。
クーファンに寝かされながら、ここ数日まわりを見ていたら家の造作も、だんだんと分かってきた。
石と木でできた頑丈な建物。一階の半分は父の鍛冶場。もう半分はキッチンとダイニングに母の小さな作業スペース。二階は大きな主寝室や書斎、家族の生活空間、になっている。
石壁に窓は木枠に色ガラス。大きめで頑丈そうな扉が開かれると、外の風が入り、鳥のさえずりと馬車の音が届く。
人の声も時折聞こえてくるが、どこか癖のある音。まるで古語のような響きが混じっていて、完全には理解できない。
(言葉も、違う……この世界の言語?)
ただ不思議なことに、完全に理解はできなくとも、意味の“気配”は伝わってくる。まるで、頭のどこかで翻訳が始まりかけているような、不思議な浮遊感。
母の言葉、父の呟き、町の雑踏。
それらが少しずつ、自分の中に溶け込んでくるのを感じる。
(言葉と、魔力……この世界は、どうやら「感覚」に依存しているのかもしれない)
見えないはずのものを「見る」、聞こえないものを「感じ取る」。
蔵田一人だった頃には持ち得なかった、現代人が失ってしまった感覚器のようなもの。人間の原始的な「感受性」が、この世界では当たり前のように備わっているのかもしれない。
ある夕方、鍛冶場から火花が上がった。
父のガランドが作業をしているのだ。
カン、カン、と重く乾いた金属音が、クラウドの眠気を追い払った。
窓から覗くと、炎の中で薄っすらと揺れるように、脈打つような緑色の光が立ちのぼっていた。
父は、金属を打ちながら何かを呟いていた。
呪文のような、祈りのような言葉。
そのたびに、ハンマーの先から力強い光が生まれ、金属が柔らかく形を変えていく。
(言葉が……金属の形を導いている? 違う、精神と自然現象が繋がっている……?)
クラウドの胸にざわりと波紋が走る。
それは直感だが既知の感覚だった。
(もしかすると……この世界では、サウナで感じた“ととのい”の感覚と、魔力が同じ源なのかもしれない)
根拠のない思考は続く。だが身体はまだ赤子。
できることは、ただ感じ、記憶し、静かに観察することだけ。
それでも、確かにクラウドはこの世界で、「生きはじめていた」。