産声のあとで
眠って、起きて、泣いて、抱かれて。
ごく当たり前の営みなのに、それがこんなにも不自由で、同時に満たされているという感覚を、彼は生まれて初めて味わっていた。
いや、「生まれて初めて」ではない。彼は知っている。
かつて自分が大人だったこと、東京で働いていたこと。玲という人を愛し、そして失ったことも。
そのすべてが夢でなければ、今この小さな身体で体験している現実もまた、夢ではないのだ。
泣くたびに、優しい腕が彼を抱き上げる。
母親の香り。暖かな乳の匂い。すこし甘く、草花を乾かしたような香りが混じっている。
父の腕もまた、荒れていて硬いのに、不思議と安心できた。
大きな手のひらに触れられるたび、心の奥底がほぐれる。
赤子としての本能なのか、それとも、この世界の彼らが持つ不思議な温かさのせいか——。
数日が過ぎた。
ぼんやりとした視界も、徐々に輪郭を持ちはじめる。
石造りの天井。太い木の梁。蝋燭の灯り。
布団ではなく、藁を詰めたベッド。窓の外には、尖塔を持つ建物と、赤茶けた瓦の屋根が連なる町並み。
まぎれもなく、これは中世ヨーロッパ風の異世界。
彼はそれを静かに、だが確かに、理解し始めていた。
ある日、母が窓辺で何かを縫っていた。
細い針を巧みに動かし、鮮やかな糸が布の上で模様を描いていく。
その指先を見ているうちに、クラウドははっと息を呑んだ。
布に刺された針先から、淡い光が揺れていた。
それは決して火の粉ではない。明らかに、布と針が、呼吸するように輝きを放っていた。
(……今、光った……?)
目の錯覚だろうか? でも、母はそれをまるで当然のように続けている。
指先から生まれる光が、糸と布を柔らかくつなぎ、模様を滑らかに整えていく。
(まさか……魔法?)
彼の心に、疑念が芽生える。
しかしそれは、否応なく現実味を帯びていた。
次の日、父が鍛冶場から帰ってきた。煤と汗にまみれたその腕は、まさに職人のそれ。
彼の手には、打ち上がったばかりの剣が一本ぶら下がっていた。美しい銀の刀身に、柄の部分には親指大の丸い窪みがある。
懐から丸い形をした青い石を取り出すと、父はそれを柄の窪みに押し付ける。
(父よ、見るからに大きさが合っていないぞ‥‥)
と、思ったその時剣の柄が淡く光り、カチリと小気味良い音とともに寸毫の狂いもなく青い石が柄に嵌まった。
ポカンとしたクラウドを見やると、ぽんぽんと父は頭を撫でた。
「おまえが大きくなったら、これくらいは作れるようになるかな……いや、ならなくていいか。おまえの道は、おまえが選べばいいさ」
穏やかな声。その裏には、職人としての誇りと、息子への慈しみが滲んでいた。
クラウドは小さな手をじっと見つめた。
動かそうとしても、うまくいかない。だが、指先の感覚だけは確かにあった。
(この手で……今度は、ちゃんと守れるだろうか)
赤子の身体では、できることは限られている。
だが心だけは、確かに目覚めていた。
魔力? 精霊? あるいは、もっと深い何か——。何でもいい、大事な人を守る力が手に入るならば。
(まずは、この世界を、しっかり知ろう)
そう心に誓うと、クラウドは静かに目を閉じた。
まだ歩くことすらできない赤子。
けれど、彼の再生の旅は、すでに始まっていた。