洞穴の先行き
会話の頃合いを見て、ジルは黙って荷を解いた。
その動きは手慣れていて迷いがない。こういう場面で“段取り”を知っている者の手だ。
腰の小袋から布を取り出し、手早く岩肌の上の湿りを拭う。
次に、小さな金属の杯を人数分――無駄なく並べる。
最後に、革の水筒を傾けた。
とぷん、と静かな音。
金属の器に液体を注ぎ終えると、その上で手のひらを回すようにかざす。
杯を満たしている液体が、ジルの火魔法で温められ、淡く湯気を立てる。色は薄い琥珀。香りは乾いた草木と、わずかな柑橘の皮。
「どうぞ……喉を潤してください」
そう言って皆の前にカップを置き、最後に自分の杯を手に取った。
レオニダスが受け取り、口をつける。
熱が喉を通った瞬間、顔に浮かぶ緊張がわずかにほどけた。
バルグは「お」と短く声を漏らし、勢いよく飲み干しかけて、喉を焼きかけた。
「熱っ……!くそっ、洞穴で飲む茶ってのは、反則だな……!」
ソリスはその様子を見て笑い、軽く肩を揺らす。
「クック、落ち着け。喉を火傷したら、文句も言えなくなるぞ」
サリウは杯を両手で包み、静かに香りを確かめるように目を伏せた。
湿った冷気に支配された洞穴の中で、この場だけが“生きた温度”だった。
ルディウスも一口含み、目を細める。
「……助かる。身体が冷えると、判断まで固くなる」
最後にクラウドが杯を受け取り、ちび、と少しだけ飲んだ。
温かさに頬がふわりと緩む。だが、本人はその“ありがたさ”よりも、ただ素直に感想が出ただけだった。
「おいしい……」
その一言が、妙に場を和ませた。
誰もが、無意識に息を吐く。
湯気と一緒に、胸の奥のざわつきまで少しだけ外に逃がすみたいに。
ほんの短い休息。
だが、洞穴の闇に飲まれかけた心を、いったん人間の形に戻すには――十分だった。
レオニダスは一度、短く息を吐いてから、指揮官の顔に戻った。
冗談と驚愕の余韻を断ち切るように、低く告げる。
「――さて。本題に戻そう」
岩のテーブルに置いた拳が、とん、と静かに鳴る。
「神の御使いの如き力を持つクラウド少年は、これだけの魔法を使っても全く意に介していない。……全快だそうだ」
視線が、自然とクラウドに集まる。
当の本人は、きょとんとしていた。
“全快”という言葉の重さも、そこに含まれた諦観も、彼にはまだ半分しか分かっていない顔だ。
ソリスが、鼻で笑うように肩を竦めた。
自嘲の色が濃い。
「……我々の出る幕が無いですがね」
ジルが喉を鳴らし、何か言いたげに口を開くが、結局黙った。
魔力探知の限界も、戦術の常識も、ここでは無意味に見えすぎていた。
バルグが腕を組んだまま、ぶっきらぼうに吐き捨てる。
「少年におんぶに抱っこで進むってのも、どうかと思うがな」
言葉だけなら反発。
だがその瞳は、真剣だった。
“正しさ”ではなく、“軍の矜持”の問題として呻いている。
レオニダスは、即座に切り返す。
怒鳴らない。だが、刃のように鋭い。
「バルグ。言っておく」
その一言で、場の空気が締まった。
「目的を忘れてはいかん」
レオニダスは、洞穴の暗闇の奥を見た。
そこに何が潜んでいようと、彼は“見ないふり”をしない男だった。
「目的を果たすためなら、どんな手段であっても良い」
そして、クラウドへ視線を戻す。
「それが……少年ひとりの力に頼ることでも、だ」
重い沈黙が落ちる。
その言葉は、甘えではない。
撤退でもない。
“勝つための冷徹な選択”だった。
サリウが、ゆっくり頷く。
「……レオニダス様の言う通りです。ここで二の足を踏めば、次に苦しむのは民です」
ルディウスも表情を引き締め、短く言った。
「手段や矜持は、目的を果たしてから語ればよろしい」
ソリスが苦笑しながら、クラウドを見る。
「……少年。我らと国の命運は、いま君に委ねられた」
クラウドは、ほんの少しだけ目を丸くした。
そして――困ったように笑う。
「えっと……何度も言いますが、ぼくは今できることをやるだけです」
まるで、村の手伝いを引き受けるみたいに。
まるで、家の掃除を引き受けるみたいに。
それがまた――恐ろしいほど頼もしかった。
レオニダスは立ち上がった。
留金がベンチを叩く音すら、よく響く。
「よし。休憩は終わりだ」
剣の柄に手を添え、部下たちを見渡す。
「クラウド少年。先導を任せる、我らは補助に全力を注ぐ」
「はい」
答えが早すぎた。
「ジル。風の探知を続けろ。ただし少年が見ていない方向だ。範囲が狭くても構わん、周囲の異変の兆しを拾え」
「……了解です」
「ソリス、バルグ。左右の警戒。狭所戦闘になればお前たちの出番だ」
「お任せを」
「……はい」
そして最後に、レオニダスは静かに言った。
「――忘れるな。少年が前にいるからこそ、我々は“後ろ”を守れる」
その言葉に、バルグが小さく鼻で笑う。
「……まあ。抱っこされるのも悪くねぇか」
わずかな笑いが落ちる。
だが、すぐに消えた。
そして一行は、再び立ち上がる。
常識の外側を歩む少年を、真ん中に置いたまま。
「行きましょう。……まだまだ、奥は深いです」
その背に導かれるように、一行は歩き出した。
UFO型の照明が静かに先導し、湿った岩肌が白い光を鈍く返す。冷気は相変わらず骨に沁み、足音だけが淡く反響した。
しばらく進むと、洞穴の壁に――不自然な“裂け目”が現れた。
最初はただの亀裂に見える。
だが近づくほどに、それが“削られた穴”だとわかってくる。岩が砕かれ、磨かれ、通路として整えられていた。
横穴。
人が一人入れる程度の大きさだが、あの石工蟻なら容易に出入りできる大きさだ。
穴の縁は、奇妙に滑らかだった。
硬い顎で何度も齧られ、削り尽くされた岩の表情。
「……巣か」
レオニダスが低く呟く。
クラウドは横穴に視線を向けたまま、小さく首を傾げるように耳を澄ませた。
目ではない。肌でもない。もっと深いところで、“流れ”を読んでいる。
「……奥に、大きいのがいますね」
淡々とした声。
けれど、その言葉が落ちた瞬間、空気がほんの少し固くなる。
ルディウスが息を吸い、頷いた。
「大きい蟻……となれば、女王蟻だろう。巣の中心にいるはずだ」
「そうかもしれません」
クラウドは肯定も否定もしないまま、さらに続けた。
「それと――もっと奥に……無数の小さな気配があります。……卵、かもしれません」
卵。
その響きは、単なる情報以上の意味を持った。
この先は“群れ”ではない。巣そのものだ。
巣が生きている限り、倒しても倒しても、いずれまた湧いてくる。
バルグが喉を鳴らす。
「……なるほどな。根を断たねぇと終わらねぇってわけか」
ソリスは横穴を見下ろし、唇を引き結ぶ。
「厄介だな。辿り着くには、狭い巣穴の中を進む他ないな」
レオニダスは黙ったまま、クラウドを横目で見た。
“少年がいる”という現実が、戦術の常識を溶かしてしまう。クラウドなら簡単に、蟻の巣穴ごと駆逐するだろう。皆に頼るなとは言えない。だが頼り切るのも怖い。
「…我らの目的は魔物の殲滅ではない。洞穴と地脈の関係を探ることだ。先へ進もう」
改めて目的を確認して、レオニダスは前を向いた。




