蟻の一山
蒸気が引いていくにつれ、洞穴の空気は――妙に乾いていった。
岩肌は濡れていたはずなのに、今は灰色の粉を吹いたようにざらつき、照明の光を鈍く返している。
そして、その先。
黒々と光る甲殻が、折り重なるように積み上がっていた。
メイソンアント――石工蟻。
小型犬ほどの蟻にしては巨大な身体が、累々と。
脚を折り畳み、顎を半開きにしたまま、今にも動き出しそうな姿勢で固まっている。
数十。
いや、そんな数ではない。
見渡せない奥まで、黒い波の“名残”が続いている。
それはまるで、洞穴そのものが黒い鱗を生やしたようだった。
後ろに控える者たちは、誰も一歩を踏み出せない。
踏み進めば、きっと――音が鳴る。
硬い甲殻がぶつかり合う音が。
その瞬間に、まだ生きている何かが跳ね起きるのではないかという錯覚が、背筋を縛った。
だが。
クラウドだけは平然としていた。
彼は軽く息を吐き、肩を回し、――ふと、後ろを振り返る。
その瞳は落ち着き切っている。
まるで、草むしりを終えた後の顔みたいに。
「……蟻は、熱に弱いですからね」
淡々と、当たり前の事実を口にするようにクラウドは言った。
「体の中が熱に耐えられない。だから、火で焼けば勝てます」
そして、ほんの少しだけ視線を洞穴の天井へ向ける。
「でも、ここは洞穴です。閉ざされた空間で大規模な火魔法を使うと、酸素が減って、煙が溜まって、味方も危なくなる」
言葉の端々が、幼い声のはずなのに――
判断の質だけが、妙に大人だった。
「だから、蒸気にしました。水と火で熱を作って、風で押し出す。蒸し焼きにするだけなら、炎そのものは要らないでしょう」
説明が終わる。
――終わってしまう。
まるで「だから右に曲がったんだよ」と言うような温度で。
その場の空気が、さらに凍りついた。
威力?
そんなものはもう、見ればわかる。
問題はそこじゃない。
水・火・風。
三属性を――同時に、ほとんど“作業”のように扱ったこと。
しかもこの少年は、目の前の死骸の山を前にしても、声が震えない。
呼吸も乱れない。
誇るでもない。怯えるでもない。
ただ、最適解を選んだだけだと言わんばかりだ。
ジルは、微笑みかけようとしたが強張った目尻に涙が滲む。
バルグが、喉の奥で短く呻いた。
ソリスが、眉をひくつかせたまま硬直している。
サリウは、何か言葉を探して口を開けかけ――結局、閉じるしかなかった。
ルディウスは戦場の経験が豊富なはずなのに、ただ己の常識が折れていく音を聞いている顔をしていた。
そして。
レオニダス・アークイン公爵が、ゆっくりとクラウドへ歩み寄る。
その表情は、驚きと警戒と――わずかな畏れが入り混じったものだった。
「……少年」
低い声が洞穴に響く。
「お前は、ただ魔物を倒したのではないな」
レオニダスは、重ねられた死骸の山を一瞥し、続ける。
「“戦場の形そのもの”を選んだ。最初から最後まで、迷いがない……」
その目が、クラウドの小さな背中を、まるで巨大な嵐を見るように捉えていた。
「……その冷静さは、どこで学んだ?」
クラウドは少しだけ首を傾げた。
質問の意味がわからない、というより――
答えるほどのことでもない、という顔だった。
「……学んだ、というより。この方法が一番安全だと思っただけです」
さらり、と言い切る。
その瞬間、レオニダスの喉がわずかに鳴る。
理解したのだ。
この少年の魔力は、武器ではない。
兵器ですらない。
自然災害に近い。
思考する、天災。
そしてその天災が――
味方の顔をして、静かにこちらを振り返っている。
洞穴の奥へ続く闇が、いっそう深く見えた。
だがその闇よりも、誰よりも、今ここにいる少年のほうが――底知れなかった。
折り重なった黒い死骸の山は、洞穴の奥へ奥へと続いていた。
クラウドは、そんな光景を見下ろすように眺めてから、肩をすくめた。
「……蟻が多すぎて、足の踏み場がないですね」
そして、まるで床に散らかった木屑を片付けるみたいな気軽さで、言う。
「片付けちゃいましょう」
「――なっ」
誰かが止める間もなかった。
クラウドは一歩進み、最前列のメイソンアントの死骸に、指先をそっと触れた。
その瞬間。
黒い甲殻の表面に、淡い光が走る。
いや、光が“染み込む”ように広がった。
次いで、蟻の死骸が――崩れた。
ただ崩れたのではない。
砕けたのでもない。
分解された。
外骨格が、節足が、顎が、硬い甲殻が、粒子にほどけて、空気へ帰っていく。
キラキラと、銀砂のような微光をまといながら。
洞穴の暗闇に、瞬きのような煌めきが散り、それは一瞬、粉雪が舞っているようにも見えた。
――だが雪ではない。
魔法だ。
しかも、“破壊”ではなく“分解”。
その光景に、後ろの面々が息を飲む。
バルグは理解できないものを見る顔になり、ソリスは武器を握る手に力が入ったまま固まった。
ルディウスは唇を引き結び、何か恐ろしい結論に辿り着きそうで、視線を逸らした。
ジルは――ただ、呆然としていた。
クラウドの指先が動くたび、死骸が一つ、また一つと“消えていく”。
風で飛ばしているわけでもない。
火で焼いているわけでもない。
存在の繋がりをほどき、物質の形を“ほどいて”空気へ返している。
クラウドの頭の中では、もっと単純だった。
(昆虫は、主にタンパク質……)
体の内側はタンパク質が大半。
そして外骨格は、キチン。
炭素、酸素、水素、窒素――
そういう“いつもの素材”だ。
だから、ほどいて戻すだけ。
それだけのはずだった。
だが。
クラウドがひとつ、死骸の外殻を分解しながら“触れて”――眉をわずかに動かした。
(……ん?)
外骨格の中に“異物”がある。
硬い。
そして、密度が違う。
彼はその部分だけ、分解の速度を落とし、慎重に意識を凝らした。
(炭酸カルシウム……?)
一瞬、クラウドの中で線が繋がった。
(だから硬いのか……この石工蟻。キチンだけじゃなくて、鎧の一部が“石”で補強されてる)
ただの昆虫の外殻じゃない。
石灰質の装甲。
だから剣が弾かれ、岩のように硬い。
――納得した瞬間。
「クラウド!」
鋭い声が洞穴に響いた。
はっとしてクラウドが振り返ると、サリウ伯爵が青ざめた顔で立っていた。
彼の声には焦りがあった。
叱責というより――損失を恐れる悲鳴に近い。
「そのまま分解するな! 石工蟻の鎧は……高級素材だ!」
クラウドはきょとんとした。
「……素材?」
「そうだ……!」
サリウは一歩踏み出し、死骸の山を睨む。呆気にとられる面々のなか、この場の誰よりもいち早く“現実の価値”に気づいた。
「硬い外殻は防具の材料になる。軽く、剣を弾く。騎士団でも冒険者でも、引く手数多だ…!」
ルディウスが、遅れて頷く。
「その通りです。しかもこの数……回収できれば、武具職人が泣いて喜びます」
バルグは鼻を鳴らした。
「……さっきまで“化け物の群れ”だったのに、死んだ瞬間“金塊”になるのかよ」
ソリスが笑い、小さく息を吐く。
「戦場とは……そういうものだ」
クラウドは蟻の死骸を見下ろし、そして、自分が今まさに元素の粒に変えて消し飛ばしかけた“素材の山”を見回した。
クラウドは口を開け、少しだけ言いづらそうに呟く。
「……すみません。もう……けっこう分解しちゃいました」
一瞬の沈黙。
緊張から一転、洞穴の中は笑いに包まれた。




