蟻の群れ
闇が波打つように蠢き、UFO照明の円錐の中へ流れ込んできた。
クラウドは迫り来る敵を引きつける。
(まだだ…もう少し……見えた!)
最初はただの“黒い群れ”にしか見えなかったものが、距離が近づくにつれて輪郭を得る。脚の節。揺れる触角。ぎらりと光を反射する複眼。
灯りに照らされた蟻がいま、ハッキリと見えた。
フィーネとケイトから贈られた本「王国の魔物」。指でなぞった折り目の感触までやけに鮮明に、頁数まで脳裏に浮かぶ。あれは、街から離れた地域の項目、荒野や岩山で偶に見られる魔物。
洞穴の湿った空気の中、クラウドの声が低く落ちる。
「……石工蟻」
ジルが小さく息を吸った。
バルグが盾を構え直し、ソリスの槍先が僅かに下がる。後ろに控える面々が、緊張したように沈黙した。
だがクラウドには、もう疑う余地がなかった。
特徴は、まず大きさ。UFO照明に照らされた先頭の個体は、小型犬ほどの体躯をしている。蟻のはずの腹は岩の塊のように重々しく、脚は太く、一本一本が武器のようにがっしりしていた。
次に、顎。遠く見える一匹の蟻が、岩肌に頭を寄せ、ぎり、と顎を噛み合わせた。耳に届くのは、土でも木でもない。石が齧られる乾いた音。
岩石が――砕け散った。
冗談みたいな光景だった。
だが粉塵が舞い、岩肌が確かに削れていく。
「石工蟻は、岩を易々と齧り壊して巣穴を作る」
クラウドが淡々と続けると、ルディウスが喉を鳴らした。
そして、力。体躯だけなら小型犬。だが、その動きは犬の可愛げとは無縁で、純粋な“作業機械”のそれだった。
「自重の何十倍もの重い岩を運ぶくらい……強靭な身体」
足音が増える。
硬い岩を踏むはずなのに、湿った洞穴の床がぬちりと沈み、そこに無数の脚が規則的なリズムを刻む。
さらに、甲殻。光を受けた背中が鈍く光った。まるで黒い鎧。剣の刃を弾く――そう書かれていた。いや、実際に弾くだろうと確信できる艶と厚みだった。
「石に棲むから……甲殻も硬く傷が付きにくい。剣を弾くほど」
バルグが無意識に舌打ちする。
レオニダスの眼差しが冷え、ジルは眉間に皺を寄せたまま前方を睨む。
そして最後に。
もっとも厄介な“蟻らしさ”。
クラウドは光の中で増え続ける黒を見て、背筋がじわりと冷たくなるのを感じた。
一体、二体ではない。
十や二十でもない。
群れが、面として押し寄せてくる。
「……集団で行動する。そこだけは、普通の蟻と同じだ」
その言葉が落ちた瞬間、空気が重く沈んだ。
剣で斬れない。
力で押し返せない。
数で押し潰される。
いまや目前に迫っているものは、洞穴の闇から現れたものは、猛獣の群れではなかった。猛獣の群れならば可愛いものだ。
岩を喰らい、道を削り、数で押し潰す――
“石工蟻”の軍勢。
クラウドは一歩前に出る。足元の岩肌は湿り、洞穴の空気は冷たく重い。吐く息が少し白くなるほどなのに――その先から迫ってくる黒い波は、そんな寒さなど気にせず、規則的に脚を刻みながら増殖していく。
UFO照明の揺らめく光が、黒い波の先端を照らす。勢いを増す波は、いまにも一行を呑みこみそうだ。
「ク、クラウド!」
「いきます」
静かな声は、妙に確信に満ちていた。
背後の誰もが息を止めていた。
クラウドだけが、落ち着いていた。
瞬間――クラウドの魔力が、静かに、しかし確実に形を持ち始めた。
彼は両手を胸の前に揃え、ゆっくりと前へ突き出す。
掌の間で、魔力が“絡み合う”感覚が生まれる。
水。
火。
別々の属性を同時に扱うのは、本来なら難しい。
だがクラウドは、それを「混ぜる」のではなく、「一つの魔法」のように扱った。
「蒸熱領域」
次の瞬間――
ぼうっ、と低い音とともに、前面に熱の膜が広がった。
熱い水蒸気の波。
洞穴の冷えきった空気に触れた瞬間、白い霧が爆発したように膨れ上がり、視界を覆う。
ただの湯気ではない。密度が違う。圧が違う。
もはや“熱い空気の壁”だった。
「――押し出せ」
クラウドの声に応じて、さらに風の魔力が重なった。
蒸気は前へ、前へと押し進められる。
洞穴の天井に沿って渦を巻き、壁にぶつかり、床を這い、黒い軍勢へ叩きつけられた。
ジュワァァ……ッ!
湿った岩肌が一瞬で乾き、白い霧が洞穴を支配する。
そして――先頭の蟻たちが、ぴたりと止まった。
いや、止まったのではない。
止められた。
熱にさらされた甲殻の隙間から、細い脚が震え、顎がぎちぎちと噛み合う。
まるで目に見えない鉄板の上に落とされた虫のように、動きが狂っていく。
クラウドは理解していた。
(蟻は熱に弱い)
理由は単純で残酷だ。
彼らの身体は、タンパク質でできている。
熱湯に触れれば、卵が固まるように体内が変性し、固まって、壊れる。
しかも蟻は“変温動物”だ。
周囲の温度が、そのまま彼らの体温になる。
だから四十度を超えると動きが鈍り、五十度に近づけば――もう耐えられない。
まして、これは洞穴の冷気の中で油断していたところへ、いきなり浴びせられる蒸気の奔流。
逃げる暇など、与えない。
蒸気の壁に包まれた蟻たちは、次々と膝を折るように崩れた。
硬い甲殻の内側で、彼らの“中身”が熱で変わっていく。
その様子は見えない。けれど確かに起きている。
黒い軍勢の前列が止まり、詰まって、押し合い、そして――混乱が群れ全体に伝染する。
だが石工蟻は、本能で前に押す。
後ろから、さらに後ろから、次の個体が押し寄せる。
詰まった列へ、熱い蒸気がさらに叩き込まれた。
蒸気は慈悲なく、均等に、広範囲に行き渡る。
クラウドは腕を少し持ち上げ、掌を握り込む。
蒸気の密度がさらに上がり圧が増す。
「……よし」
その一言とともに、前方の黒い塊が、目に見えて“沈んだ”。
倒れた。
ひっくり返った。
足をばたつかせる力すら失った。
百を超えていた蟻が、蒸気の中で“ただの黒い山”へ変わっていく。
背後で、誰かが喉を鳴らした。
バルグか、ソリスか。
あるいはルディウスか。
誰も言葉にできなかった。
剣でも槍でもない。
雷でも氷でもない。
水と火を混ぜ、風で押し出す――
ただそれだけで、凶悪な蟻の群れが一瞬で料理されてしまった。
クラウドは蒸気の向こうを見据えたまま、静かに息を吐く。
「群れの後ろまで到達したようです……これで蟻は全て殲滅しました」
蒸気がゆっくりと薄れ、照明の光が戻り始める。
そこに残っていたのは、硬い甲殻のまま動かない蟻の群れと、蒸気で濡れた岩肌だけだった。
そしてクラウドの背後には、言葉にならない沈黙が落ちたまま、凍りついていた。




