闇の奥
氷の静寂が砕け、霜が舞うなか。
崩れ落ちた蝙蝠猿の群れを横目に、クラウドは一度だけ深く息を吸い直した。吐き出す息は白く、しかし胸の内は不思議なほど落ち着いている。
「では、行きましょう」
そう言って、クラウドは指先を軽く弾いた。
ふわり、と。
UFO型の照明が、洞穴の闇に吸い込まれるように先導していく。
その光を追うように、一行――レオニダス、バルグ、ソリス、ジル、サリウ、ルディウスが、慎重に足を踏み入れた。
洞穴の入り口は、最も高いところで高さ十メートルほど。左右は、五十メートルほどの幅にまで開いていて、端に寄るほどゆっくりと狭まり、やがて闇へ溶け込むように形を失う。
まるで巨大な生き物の口だ。
床は湿り気を帯びた岩肌で、照明の光を鈍く反射してぬらりと光った。
歩くたびに靴底が、じっとりとした水膜を踏む音を立てる。
奥はなだらかな下り傾斜になっていて、照明を強く向けても、深部はまるで呑み込むように黒い。
光が届いているのに、見通せない。
その不自然さが、洞穴が“ただの穴”ではないことを主張していた。
「……クラウド君。私が前を行くよ」
ジルが緊張を伴った低い声で言ったが、クラウドは首を振る。
「いえ。ぼくが先頭を行きます。ジルさんはあとをついてきてください」
「……クラウド君が先を?」
ジルが一瞬、目を丸くする。
影の者としては当然、伯爵や公爵の露払いをするのが役目だ。だがこの場では、その役目の前提が揺らぎ続けている。
少年が前に出ることそのものが、異常なのだ。
「斥候役です。ジルさんは危ないと思ったら、すぐ下がってください」
クラウドの声音は淡々としていて、命令でも強がりでもない。
ただ――当然の作戦を口にしているだけだった。
ジルは微かに苦笑し、剣の柄に手を添える。
「……承知しました。ですが、クラウド君も無理はしないように」
「はい」
そのやり取りを背後で聞きながら、レオニダスは何も言わなかった。
言えなかった、と言う方が正しい。
圧倒的なクラウドの能力を目にしたばかりだ。少年の背にあるのは、守られるべき弱さではなく、抑えがたい“前へ進む力”だったからだ。
⸻
ジルは足を止め、目を閉じた。
魔力探知。
平原でハイドウルフを追ったときのように、魔物の輪郭を捉える――はずだった。
だが、その感覚は洞穴の中で、まるで指先から滑り落ちていく。
(……わからない)
気配が多すぎる。
そして何より、洞穴全体に満ちる魔力が濃すぎた。
魔力が空気に溶けている――そういうレベルではない。
壁も床も、闇も湿り気も、すべてが魔力を含んでいる。
その濃密な魔力が、探知の網を乱し、撥ね返し、歪める。
まるで、外界と感覚を遮断する分厚い膜――フィルターのようだった。
ジルは短く息を吐き、探知の術式を切り替える。
風の魔力を使い、前方へ細い糸を伸ばすように空間をなぞる。
空気の流れ、空間のざわめき、そこに生じる“違和感”を拾う探索だ。
だが――
(狭い……!)
届く範囲が限られる。
深く潜れば潜るほど、風すら重くなる。
ジルの探知の射程は、前方五十メートルほど。
その先は、黒い海のように何も掴めない。
「……くっ」
悔しそうに眉を寄せた瞬間だった。
クラウドが、何でもないことのように言う。
「……二百メートルくらい先に、小さい魔物がたくさんいますね」
ジルの目が、はっきりと見開かれた。
「……に、二百……?」
風探知が届く距離の、四倍。
いや、それどころじゃない。
洞穴内の魔力が“濃すぎて”視えないはずなのに、この少年は、それを“越えて”視ている。
ジルは喉の奥で、乾いた笑いを漏らした。
「……あなたは、本当に……」
言葉が続かない。
クラウドは振り返りもしない。
ただ、UFO照明が照らす濡れた岩肌を見つめている。
「ジルさんの探知は、ちゃんと働いてます。ここが普通じゃないだけです」
慰めの言葉。
だが、それが余計に胸を刺した。
ジルは舌を巻くように、低く呟く。
「……洞穴に溢れる魔力が、探知を遮る壁になるとは……」
クラウドは小さく頷き、足を止める。
「だからこそ、危ないんです。見えない敵は、厄介ですから」
言いながら、少年は軽く指先を動かす。照明がふわりと浮き、光の角度が変わる。
闇の奥に向かって、一条の光が伸びた。
洞穴の空気が、冷たく粘つき、重く沈む。
その時――
遠く、二百メートル先の闇の中で。
“何か”が、こちらの光に反応した気配が走った。
ジルは背筋を震わせながら剣を抜き、静かに構える。
「……気づいたようです!音がします!」
「うん、そうですね」
クラウドは短く答えた。
その声には、恐れはない。
ただ――確信だけがあった。
洞穴の奥――照明が届かぬ闇の向こうから、異質な気配が押し寄せてきた。
かさ、かさ、かさ……。
湿った岩肌を擦るような、無数の小さな音。
水音ではない。足音だ。それも、数が多すぎる。
クラウドの足が、すっと止まった。
UFO型照明は前方を照らし続けている。その光の縁が、闇に溶ける少し手前で、不自然に揺れた。
——迫ってきている。
クラウドは息を吸い、振り返らずに後ろへ声を送った。
「前方100mほどです。……注意してください」
その一言で、隊列が即座に引き締まる。
バルグが盾を構え直し、ソリスが半身で槍を前に出す。
ルディウスが魔力を巡らせ、ジルは反射的に探知を広げた。
サリウは息を呑み、レオニダスは剣の柄に手をかけたまま、無言で前を見据える。
照明の光が、さらに奥を照らした瞬間――
それは、見えた。
岩肌を覆うように、黒い波がうごめいている。
甲殻が光を弾き、節足の脚が岩を叩く。
小型の魔物が、折り重なるように蠢き、洞穴を埋め尽くしていた。
「……昆虫系ですね」
クラウドの声は、驚くほど落ち着いていた。
「動きと、温度でわかります。硬質甲殻、集団行動型。蟻のようです。体長は30〜40㎝」
ジルが歯を食いしばる。
「……この数、探知が追いつかない……!」
確かに、前方の魔力は濃すぎた。
洞穴そのものが、魔力の奔流で満たされ、個々の気配を塗り潰している。
だが。
「数は……百以上いますね」
クラウドは、まるで事実を読み上げるように言った。
空気が凍りつく。
「……百、だと?」
レオニダスが低く声を漏らす。
この狭い洞穴で、百を超える魔物の群れ。正面からぶつかれば、消耗戦は避けられない。
クラウドは、後ろを振り返らずに言った。
「先制攻撃を行います。前に出ないでください」
その声に、迷いはない。
洞穴はまだ、入口に過ぎない。
ここから先こそが、マハザールの本体。そして、世界の深部と繋がる闇そのものなのだ。




