天災の力
凍結した洞穴の前で、誰一人として言葉を発せずにいた。
クラウドの背後に控えるレオニダス、バルグ、ソリス、ジル、サリウ、ルディウス――いずれも戦場と魔法の現実を知り尽くした者たちだ。
だがその誰もが、いま目の前の光景を“理解”する段階にすら辿り着けていなかった。
氷の檻に封じ込められた蝙蝠猿の群れ。
数十体を一度に。
しかも個体だけでなく、空間そのものを。
最初に、息を吐いたのはレオニダスだった。
「……凍らせたのか……?この広さを……?」
声は低く、だがわずかに震えていた。
疑問というより、確認に近い。
それに答えられる者はいない。
誰もが“否定したい”のに、否定する根拠を持っていなかった。
レオニダスは、ゆっくりと視線を横に向けた。
「……ジル」
名を呼ばれたジルは、喉を鳴らし、短く息を吸ってから答える。
「……無理です」
一言。
即答だった。
「……この十分の一すら、無理です。どんな魔道士にも――」
言い切る。
「――無理です」
その断言に、場の空気がさらに沈んだ。
バルグが、信じられないものを見るように氷結空間を睨みつける。
「……馬鹿な。氷結魔法は範囲が広がるほど、指数的に魔力を食うはずだ……」
「それ以前の問題だ」
低く言ったのはソリスだった。
「空気を凍らせるという発想自体が、常軌を逸している。水分だけを狙うならともかく……これは、相転移そのものだ」
ルディウスは、ただ黙っていた。
両手を握り締め、魔力の残滓を感じ取ろうとして――そして、気づく。
(……残っている)
凍結の痕跡が、なお空間に“安定して存在”している。
暴走も、崩壊もしていない。
サリウが、かすれた声で呟いた。
「……魔法ではない……これは、領域だ……」
その言葉に、ジルの肩がわずかに跳ねた。
“領域”。
それは、魔道士が一生かけても到達できるかどうか分からない、魔法の最果て。
術者の意志が、一定空間の法則を上書きする状態。
そして今――
全員の視線が、自然とクラウドへと向かう。
少年は、凍り付いた洞穴を見つめながら、静かに呼吸を整えていた。
肩で息をするでもなく、誇るでもなく、ただ“終わった”という顔で。
その背中を見て、レオニダスは理解する。
(……違う)
これは、偶然でも、暴発でもない。
理解した上で、やった。
レオニダスは、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……少年よ。お前は一体、何者だ……」
その問いに答える者は、誰もいなかった。
ただ、凍結した世界だけが、沈黙のまま答えを保留していた。
はたと気づいて、サリウが声を掛ける。
「クラウド!大丈夫なのか?こんな大規模な魔法を行使して、魔力は?」
「はい、大丈夫です。…そうですね、全体の3%くらい魔力を使った感じですかね」
「3…%だと。信じられん!」
「これだけ魔力に溢れた場所なら、すぐ回復しますよ」
「……!!」
バルグが思わず一歩、前に出た。
「待て……待て待て待て。お前……今のを“全力”でやったんじゃないのか?」
クラウドは少し考えるように首を傾げ、正直に答えた。
「全く、全力ではないですね。制御を崩すと危ないので、ちゃんと余裕は残しています」
「……余裕……」
ジルが、乾いた笑いを漏らす。
「……私なら、今の十分の一の範囲でも……詠唱を完遂した瞬間に倒れています」
クラウドはその言葉に、少し困ったような顔をした。
「えっと……ここ、魔力がすごく濃いので。いま使った分も、もう戻ってきてます」
何気ない調子で言われたその一言が、追い打ちをかける。
「戻って……きている……?」
ルディウスが、思わず魔力感知を広げた。
そして、背筋を凍らせる。
(……本当だ)
クラウドの周囲――いや、洞穴そのものから、魔力が“流れ込んでいる”。
消費した魔力を、地脈から補給しているのではない。
地脈の流れに、最初から組み込まれていたかのように。
「……なるほど」
低く、重い声でレオニダスが言った。
「お前は、魔力を“使っている”のではない。魔力の流れの中で、必要な形を切り出しているだけだ」
クラウドは、その言葉を聞いて目を瞬かせた。
「……ああ。はい、たぶんそんな感じです」
さらりと肯定され、誰もが言葉を失う。
サリウは、額に滲んだ汗を指で拭いながら、深く息を吐いた。
「……つまりだ」
一度、言葉を区切り、覚悟を決めるように続ける。
「ここが“魔力に満ちた場所”である限り、クラウドは今の魔法を――何度でも使える、ということか?」
クラウドは一瞬だけ考え、正確に答えた。
「回数は……たぶん制限ないと思います。もっと連続で使っても」
――完全に、理解を超えた。
ソリスが、呆然としたまま呟く。
「……これは、戦術でも兵器でもない。天災の制御だ……」
誰も反論しなかった。
沈黙の中、洞穴に残る氷結の残響だけが、微かに軋む音を立てている。
その中心に立つクラウドは、周囲の視線にようやく気づいたのか、少しだけ居心地悪そうに肩をすくめた。
「あの……とりあえず、入り口周辺の危ない魔物はいなくなりましたし。先、進みますか?」
その言葉に、誰もすぐには答えられなかった。
レオニダスは、深く、深く息を吸い――そして、静かに頷いた。
「……ああ」
視線は、もはや“少年”を見るものではない。
「進もう。この洞穴の奥が、世界の歪みの核心だ」
誰もが同じことを思っていた。
――この先、彼らが目にするものが何であれ。
クラウドという存在そのものが、すでに常識の外側にいるという事実だけは、覆しようがなかった。
クラウドの魔力は、もはや人の技ではなかった。剣や呪文の延長でも、鍛錬の果てに辿り着く境地でもない。
それは――嵐が吹き荒れ、氷河が大地を削り、洪水が谷を満たすのと同じ。
自然そのものが、意思を持って振る舞っているかのような力。
恐れるべき災厄でありながら、同時に、世界を守る盾にもなり得るもの。
人はそれを制御することはできない。
ただ、進む先を誤らぬことを祈り、寄り添うことしかできない。
その中心に立つ少年は、まだ自覚していなかった。
自分がすでに、世界の均衡そのものに数えられる存在になりつつあるということを。




