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マハザールの洞穴

 マハザールの洞穴は、封神暦以前の太古から存在する自然洞穴である。


 人の歴史が始まる遥か以前、そこはただ山腹に口を開けた、大きく、深いだけの洞穴にすぎなかった。


 転機は、大いなる背骨(エルデン・ブランド)に原初の存在「エルデン」が封じられた後に訪れる。

 エルデンとその封印は、大地そのものの均衡を変え、地脈の流れをわずかに、しかし決定的に歪めた。


 それまで独立していた洞穴の深奥は、いつしか地脈の主流と接続し、魔力の奔流を受け入れる器となった。


 地脈は血潮のように流れ込み、洞穴はそれを吐き、また受け止める――まるで呼吸を始めたかのように。


 長い年月のうちに、洞穴の底は掘り下げられることなく、それでいて誰も測れぬ深さへと変じていった。

 崩落でも侵食でもない、魔力そのものによる深化である。


 やがて、雄渾な魔力の流れは淀みを生み、淀みは歪みを生み、歪みは――歪な生命のかたちを取る。


 エルデンが封じられて数百年ののち、洞穴は魔窟となった。


 だがそれは、洞穴が“魔を孕んだ”のではない。世界の深部と繋がってしまった――ただ、それだけのことだった。


 そして、ライフストリームの汲み上げが行われた隣地男爵領「黒樹の森」のホットスポットの現出は、地脈の魔力溜まりであるマハザールの洞穴に起因していたのである。


 溜まった魔力は、地層のヒビ、圧力の弱い部分に流れ込み、地表近くに集まった。それが黒樹の森のホットスポットであった。


 マハザールの洞穴の成り立ちについて、レオニダスもサリウ達も全く知る由もないことだったが、その直感は奇妙なほど的を射ていたのだった。


————


「……ここが、マハザールの洞穴…」


 巨大な怪物が、その口唇を薄く開いたような岩の裂け目を前にして、クラウドはただ立ち尽くし、その暗い深淵を覗き込む。


 曙光届かぬ、深い谷底に降り立った一行は、マハザールの洞穴の入り口を前にしていた。


 ——夜の闇とは違う、魔が作る闇。


 奥が全く見通せないにも関わらず、禍々しい気配がはっきりと蠢いている。


「…いますね。ちょっと任せてもらってもいいですか」


 紐帯を締め直していたレオニダスは、クラウドの言葉に頷く。


「ああ、何が出てきても大丈夫だ。少年の好きにするといい。一人で踏み込み過ぎるなよ」


 レオニダスの信頼と気遣いの言葉を受けて、クラウドはUFO照明を洞穴の入り口内部に向かって浮遊させる。


 闇夜の街灯のように地面を照らすスポットライトが、さらに洞穴の中に入っていく。クラウドはUFOの傾きを変え垂直に立て、洞穴奥に向かって照射させた。


 その瞬間、バタバタバタッ!と重く大きな羽音がして、照らされた光を嫌がるように黒い生き物が群れをなして洞穴から飛び出した。


 蝙蝠猿(こうもりざる)。体長50〜60㎝ほどの猿だが、両の腕から脚にかけてうすい飛膜が張っており、翼手を形成している。後脚にある5本の指の鋭いかぎ状の爪で、木や岩などにぶら下がる。

 発達した大きなかぎ爪は獲物の肉に食い込み離さず、皺くちゃの顔に潰れた鼻の下、大きな口に並ぶ鋭利な牙は簡単に獲物の命を切り裂く。

 その大きな口の奥、声帯から超音波を発して、これまた顔の大きさに見合わない大きな耳で、その反響を聞きとりながら対象物との距離をはかり、鳥のように飛び回り獲物に襲いかかるのだ。


 蝙蝠猿を見て、フィーネとケイトから贈られた、手綴じの本「王国の魔物」の一頁を思い起こすクラウドだった。


 本にはファーラント州を中心に、地図と魔物の情報が、驚くほど詳細にまとめられていた。

 フィーネが描いた挿絵は幼い線ながらも魔物の特徴を的確に捉え、ケイトが集めた情報は読みやすく整理されていた。


 誕生日に贈られてから、何度も読み返したクラウドの宝物だ。


 実際に蝙蝠猿を見たのは初めてだったが、フィーネとケイトの情報があったおかげで、すぐに同定できたし対処法も頭に浮かんだ。


「凍らせます!前に出ないでください!」


 クラウドが叫ぶように言い放つ。


 洞穴の口から、黒い奔流が溢れ出す。

 蝙蝠猿の群れ――五十を優に超える影が、羽音とともに一斉に飛び出した。


――その瞬間だった。


凍結領域(フリーズドミニオン)!」


 洞穴に反響するように、クラウドの声が低く響いた。詠唱というより、宣告に近い。


 刹那、空気が悲鳴を上げた。


 見えないはずの大気が、きしりと軋む音を立てて硬化していく。湿り気を帯びた洞穴の空間は、一瞬で白く曇り、吐息が霧になる暇すらなく凍り付いた。


 全てが、止まった。


 羽ばたきの途中で。

 牙を剥いたまま。

 超音波を放とうと口を開いた、その瞬間の姿勢のまま。

 蝙蝠猿たちは、白い空中に縫い留められた彫像と化していた。


 彼らは魔物として極めて厄介な存在だった。


 放たれる超音波を反射させ、周囲の空間そのものを“知覚”することで、矢も剣も、魔法すらも避ける。

 物理的な攻撃は、ほとんど意味を成さない――そう恐れられてきた。


 だが。


 回避するための“空間”そのものが、凍結されてしまえば話は別だった。


 超音波は伝わらない。

 羽ばたきも起こせない。

 筋肉を動かす余地すらない。


 空気ごと、世界ごと、停止している。


 氷結は魔物の体表だけではない。

 蝙蝠猿を取り巻く半径数十メートルの空間が、透明な氷の檻となっていた。


 洞穴の前には、ただ冷たい静寂だけが残った。


 クラウドは、凍り付いた群れを見て静かに息を吐く。世界は、彼の宣告通り――完全に凍結していた。


「……これで、終わりだよ」


 その言葉に応える者はいない。


 遅れて、ぱきり、と微かな音が走る。


 凍り付いた空気の中で、蝙蝠猿の一体が、耐えきれずにひび割れた。


 それを合図に、次々と細かな亀裂が走り、白い霜が舞う。ひび割れた音とともに、蝙蝠猿達は地面にガラガラと崩れ落ちた。


 クラウドの後ろに控えていた他の皆が、何も言えずただ呆然と立ち尽くしその光景を眺めていた。

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