地の境目
未明のメッツァ村は、まだ眠りの底にあった。
家々の窓は固く閉ざされ、家畜小屋から聞こえるのは、藁を踏み鳴らす小さな音だけ。空気は冷たく澄み、吐く息が白くほどける。
一宿の家では、すでに全員が起き出していた。
灯された小さな明かりの下、鎧の革紐が締め直され、剣帯が腰に戻されていく。金属が触れ合う音も抑えられ、動きは静かで、無駄がない。
昨晩は、村長が気を利かせて用意してくれた早い夕餉を囲み、深く語らうこともなく床に就いた。
言葉を重ねるより、休息が必要だと誰もが理解していたからだ。
目的はただ一つ。
夜が完全に明ける前に、マハザールの洞穴へ辿り着くこと。
滅多にいないとはいえ、命知らずの冒険者が後から入り込めば、事は複雑になる。
洞穴は狭く、逃げ場も限られる。余計な遭遇は、ただの危険でしかない。
外へ出ると、東の空がわずかに白み始めていた。
星はまだ消えきらず、地平線の向こうに淡い光が滲んでいる。
馬は置いて行く。ここから洞穴までは、歩いてもそう遠くはない。
日が昇る頃には、あの黒い口を前にしているはずだ。
一行は言葉を交わさず、村を後にした。
朝ぼらけの中、家並みの影が静かに後ろへ流れていく。
メッツァ村がいまだ眠るなか、その背後で、彼らは闇の奥へと足を運び始めていた。
ジルは先頭に立ち、歩調を落としながら進んでいく。
指先で小さく印を結ぶと、火魔法が応じ、淡い炎がひとつ生まれた。
消費魔力を抑えたそれは、松明のように激しく燃え上がるものではなく、鬼火めいた静かな灯りだった。ゆらり、ゆらりと揺れながら、ジルの数歩先を漂い、闇の縁をなぞるように道を照らしている。
その光は控えめで、周囲に溶け込む。
見通しは不十分だが、敵に位置を悟らせにくい――まさに斥候の火だった。
だが、クラウドはその様子を見ながら、ふと立ち止まった。
「……もう少し、光量が欲しいですね。別に、明るくしてもいいんですよね?」
そう呟くと、彼は地面に手を伸ばす。
土が盛り上がり、金属光沢を帯びながら形を変え、丸く、浅い器が生まれた。すり鉢状の皿。その底に、今度は透明度の高いガラス球が生成され、正確に嵌め込まれる。
一行が息を呑む間もなく、クラウドはガラス球の内側に、指先ほどの火を灯した。
次の瞬間――
皿が、光を受け止め、前方へと反射させた。
闇が押し退けられる。
道の先が、はっきりと浮かび上がった。
「……明るいな」
レオニダスが低く唸る。
それは松明や魔光灯とは質が違う。眩しさは抑えられているのに、照らされる範囲は広く、影の輪郭がくっきりと立つ。
クラウドは念動力で、その即席の照明を前方へと浮かせた。
静かに、一定の高さを保ったまま進むそれは、闇の中にぽっかりと“昼”を切り取ったかのようだった。
「……急拵えとは思えんな」
「構造が、妙に理にかなっている」
バルグとソリスが、感嘆を隠さずに呟く。
ジルもまた、鬼火を揺らしたまま一瞬だけ振り返り、その光源を見つめた。
「クラウドくんの灯りがあれば、これはいりませんね」
自分の小さな炎を消して、ジルが苦笑する。
「……灯りを制御する発想が、まるで……工房の設計図のようです」
「思いついただけですよ」
クラウドはそう言って、浮かぶ照明を見上げる。
丸い金属皿に、中心の光。静かに宙を進むその姿に、彼は内心で苦笑した。
(……完全に、アダムスキー型だな)
前世の記憶にある、どこかで見た“ステレオタイプな円盤UFO”を思い出し、誰にも気づかれぬよう、ひとりほくそ笑む。
煌々と輝く白い照明。
光に照らされ、一行は未明の山道を切り拓いていく。
こうして、闇に溶けることも、闇に呑まれることもなく、静かに、確実に――その歩みを進める。
————
しばらくして山道は、いつの間にか色を失っていた。
背丈ほどあった草木は姿を消し、低木すら点在するのみ。
足元を覆っていた土は薄くなり、代わりに露出した岩肌が、鈍い灰色の光を返している。
踏みしめるたび、砂礫がザリ、と乾いた音を立てた。
岩と岩の間に刻まれた道は細く、ところどころ崩れかけており、わずかな踏み外しがそのまま滑落に繋がりかねない。
「……足元、気を抜くな」
低く告げるレオニダスの声が、風に溶ける。
見晴らしだけは異様なほど良かった。
遮るものがなく、振り返れば、朝ぼらけの光に沈むメッツァ村の屋根が、遠くに小さく見える。
だが、その開けた視界が、かえってここが“境界”であることを思い知らせていた。
人の営みが届く場所と、届かぬ場所。
その境目。
やがて、道の先がふっと途切れた。
「……あれだ」
前方に現れたのは、大きな崖だった。
切り立った岩壁が、まるで大地を断ち割ったかのように口を開け、その奥へと影を落としている。
崖の縁から吹き上げてくる風は冷たく、どこか湿り気を帯びていた。
底知れぬ空洞から、空気そのものが吐き出されているかのようだ。
クラウドは、その縁に立ち、下を覗き込む。
崖下へと続くのは、岩肌に刻まれた細い下り道。
人工とも自然ともつかぬ、無理やり削り出されたような段差が連なっている。
「……この下です」
サリウの声は、いつもより少し低かった。
崖の陰は、朝の光を拒み、黒々と沈んでいる。
そこから先は、もはや山ではない。
地の奥。
魔と地脈が絡み合う、マハザールの洞穴。
一行は、無言で視線を交わした。
誰も引き返すとは言わない。
風が、崖の縁を舐めるように吹き抜ける。
こうして彼らは――
人の道が終わる場所から、世界の深部へと、足を踏み出した。




