メッツァ村の息吹
ハイドウルフの群れを退けた後、一行は再び緩やかに馬を進めた。
先ほどまでの緊張が嘘のように、道は静かだ。
だが、誰一人として気を抜いてはいない。
モンスターの気配を、それぞれが探りながら警戒を続けている。
そして、先刻の戦闘を顧みながら各々――自分の内側の変化を、確かに感じ取っていた。
サリウ伯爵は、手綱を握る指先に、わずかな感覚の違いを覚えていた。
水を呼ぶ際の“距離”が、以前より自然に測れる。
無理に魔力を集めずとも、流れが向こうから寄ってくる。
(……やはり、サウナの効果は重ねれば重ねるほど深まっていく…)
ルディウス・ノルトもまた、馬上で小さく息を整えていた。
土の感触が、足裏を通してはっきりと伝わってくる。
硬さ、湿り、密度――それらが言葉を介さず理解できる。
(……サウナの効能は凄まじいな。制御ではなく、自然との同調……か)
バルグもソリスも、ジルも、それぞれに先程の自分の魔法について考えている様子だ。
クラウドは、少し後方から一行を見渡しながら、ほっと胸を撫で下ろしていた。
誰も怪我をしていない。
魔力の乱れも、ない。
そして――。
「……先ほどの群れだが」
低く響く声が、空気を切り替えた。
レオニダス公爵だった。
「数が多すぎる」
誰もすぐには答えなかった。
だが、それは否定ではない。
「ハイドウルフは、ボスを中心として一家族単位で行動するモンスターだ。子は成長するとすぐ群れから離れる。あれほど密集して行動しない。多くて五、六頭だ……そうだな?」
「……ええ」
サリウが静かに頷く。
「治安部隊、冒険者ギルド、いずれからも、あの規模の報告は上がっていません」
「私も確認しています」
ルディウスが言葉を継いだ。
「個体数が増えている兆候も、縄張り争いの痕跡もない。……異常です」
レオニダスは、馬の歩調を落とし、遠くの山裾へと目を向けた。
「異常は、いつも理由を伴って現れる。理由が無いように見える場合は、ただの前触れだ」
その言葉に、誰も反論しなかった。
春の道は穏やかだ。
だが、その陰でその下で、何かが動いている。
それぞれがレオニダスの言葉を考えながら、無言で歩みを進める。
「……見えてきましたな」
サリウの声に、自然と視線が集まる。
丘を下り、道が緩やかに拓けた先に、メッツァ村はあった。
つい半年前、魔瘴熱という災禍に蝕まれ、一度は人影もなくなった村。土色に沈み、息を潜めるようだった集落は、いまは違う顔を見せている。
家々の煙突からは薄い煙が立ち、畑には人の姿があり、村道には子どもの笑い声が微かに届いてくる。
冬を越えた大地に、生活が戻っていた。
「……活気が戻ったな」
サリウ伯爵が、安堵を滲ませて呟く。
領主として、胸の奥で重くのしかかっていたものが、少しだけ軽くなるのを感じた。
「ええ……本当に良かった」
ルディウスが感慨深く、サリウの言葉に応える。
クラウドも、知らず知らずのうちに、息を吐いていた。
自分が関わったことで、守れた場所がある。
それは、幼い彼にとっても確かな支えだった。
村道を進むと、畑仕事をする人々の姿が目に入る。
鍬を振るう手つきは軽く、互いに声を掛け合いながら、芽吹いたばかりの畝を確かめている。
「もう霜は来ねえだろ」
「ああ、今年は春が早いからな」
交わされる言葉は、他愛ない。
だが、それこそが――平穏の証だった。
家々の軒先では、干された洗濯物が風に揺れ、薪割りの音が、規則正しく響く。
小さな広場では、子どもたちが石を蹴り、木の枝を振り回して遊んでいた。
その笑い声は、どこか控えめだが、確かに弾んでいる。
「サリウ、この光景は……奇跡だぞ」
レオニダスが、低く呟く。
その言葉に、サリウは小さく頷いた。
魔瘴熱の流行が去った後、村に残ったのは空き家と不安だった。それを、時間と人の手が、少しずつ埋めてきたのだ。
道の端に立つ老女が、一行に気づいて頭を下げる。
「あぁ…領主様ありがたや、もったいないことです」
その声に、怯えはない。
ただ、慎ましい礼節があるだけだ。
気づいた村人たちが皆々、頭を下げて笑顔を見せる。
クラウドは、その様子を胸に刻むように見つめていた。
ここには、もう“死の気配”はない。
村の中心に近づくにつれ、建物は少しずつ大きくなり、人の往来も増える。
倉の前では、若い男たちが荷を運び、炊事場からは、煮炊きの匂いが漂ってきた。
生活が、巡っている。
やがて、ひときわ古く、だが手入れの行き届いた家屋の前で、一行は足を止めた。
扉の前には、すでに一人の老人が立っている。
背は高くないが、背筋は伸び、眼差しは澄んでいた。
――メッツァ村の村長だった。
サリウが馬から降り、静かに一礼する。
「村長、待たせた」
村は、迎える準備ができていた。
「遠路はるばる、ようこそおいでくださいました。領主様、ご一行のお方々。お泊まりいただく家は、こちらで用意しております」
村長に案内されたのは、村外れの空き家だった。
古いが丁寧に手入れされている。
床に埃はなく、窓も拭かれ、寝具も整えられていた。
「……心遣いが行き届いているな」
レオニダスが、珍しく柔らかく言った。
この村は、しっかりと生きている。
そして――守られている。
深く安堵する。
だが同時に、誰の胸にも、消えない疑念が残っていた。
あの狼達は、なぜ現れたのか。
春の村に足を踏み入れながら、一行は、次に向かうべき“闇”の存在を、はっきりと意識していた。
この静けさは、嵐の前のものではないと――誰が、言い切れるだろうか。
一行はそれぞれ旅装を解き、壁際に荷を寄せた。鎧の留め金が外され、剣帯が静かに床へ置かれる音が屋内に溶けていく。
薪の匂いがほのかに残る囲炉裏、磨き込まれた床板、窓から差し込む淡い橙色の光。
旅の疲れを拒まず、優しく包み込む――そんな、村の気質が滲む空間だった。
レオニダスは腰を下ろし、深く息を吐いた。
バルグとソリスもそれぞれ静かに身体を休め、ジルは窓辺で外を眺めている。
サリウとルディウスは椅子に背を預け、目を閉じたまま、ゆっくりと呼吸を整えていた。
クラウドもまた、壁に凭れながら、無意識に指先を握りしめる。
今日の道中、確かに“何か”が動いていた。
ハイドウルフの異常な群れ、森に滲む違和感。
それらは、明日向かう場所へと、確かに繋がっている。
マハザールの洞穴。
地脈が歪み、命と魔力が澱む場所。
誰もが危険を承知している。
それでも、行かねばならない理由がある。
外では、村の灯りがひとつ、またひとつと点り始めていた。
炊事の煙が細く立ち昇り、夕餉の気配が村を包む。
平穏な夕暮れだった。
夜が更ければ、覚悟はさらに深まるだろう。
そして夜明けとともに、一行は再び歩き出す。
――闇の奥へ向かって。




