狼の一団
「普通であれば……な」
丘の上で、レオニダス公爵は確かに笑っていた。
その笑みは、油断でも虚勢でもない。彼を知り己を知る、戦場を知り尽くした者が、勝ち筋を見つけた時の顔だった。
「聞いただろう、諸君。敵は十五。こちらは七……だが」
そう言って、ちらりとクラウドへ視線を送る。
「今日の我らは、昨日までの我らではない」
バルグが、低く喉を鳴らす。
「……確かに。土が、近い。狼達の土を踏み締める感触が、手に取るように分かる」
ソリスは無言のまま、指先に小さな火を灯した。
揺らめく炎は荒れず、呼吸と同じ周期で静かに脈打っている。
「火が、暴れない……命じなくとも、応じている」
ジル――ジュリアは、フードの奥から草原を見据えていた。
風が流れる。
その流れの“歪み”が、はっきりと分かる。
「……回り込みの三頭。もうすぐ丘の木陰に入ります」
「よく見えておるな」
レオニダスは頷き、短く指示を飛ばす。
「バルグ、正面に立ち、地面を殺せ。ソリスはその後ろ、最初の群れを削ぐ。ジルは右。回り込みを許すな」
「了解」
「応」
「……承知」
次にサリウとルディウス、二人の面持ちを確かめるように向き直り言った。
「二人は遊撃だ。出過ぎるなよ、流れ弾には気をつけろ」
「ハッ!」
「後方支援に徹しましょう」
最後に、クラウドを見る。
「少年は――」
「後ろから全体を見ます。必要なら、地形を変えます」
その一言で十分だった。
ハイドウルフの群れが、動いた。
先頭の一頭が草を割り、低く唸り声を上げる。
それを合図に、群れ全体が一斉に駆け出した。
速い。
だが――
「任せろ!」
バルグが、地面に足を踏み込む。
ずん、と低い衝撃が丘全体を震わせた。
次の瞬間、狼たちの足元の地面が、まるで生き物のように盛り上がった。
柔らかかった土が、一瞬で締まり、硬化し、膝丈程の高さに波打つ。土の波は鋭角に尖って狼の先制攻撃を殺した。
「――ギャンッ!」
脚を刺し、腹を刺し、先頭の4〜5頭が体勢を崩し、転倒した。
そこへ、ソリスの火が走る。
爆ぜるような炎ではない。
切り裂くような、細く鋭い火線。
転んだ狼の首筋を、正確に焼き切った。
「数を減らす。焦るな」
レオニダスは動かない。
丘の頂で、全体を見渡している。
その背後、右側。
回り込んでいた三頭が、ついに姿を現した。
「――そこ」
ジュリアの声は、驚くほど静かだった。
次の瞬間、空気が凍る。
彼女の掌から放たれたのは、水ではない。
透明な刃のような氷。
風に乗って滑るように走り、狼の脚を切り飛ばす。
「グルァッ――!」
三頭が、同時に転倒した。
ジルの氷魔法はただ鋭利な刃物ではない。狼に纏わせた氷が熱を奪い、動きを止める、完璧な制御だった。
「……ジュリア」
レオニダスが、思わず名を呼ぶ。
「見事だ」
正面ではバルグの作った土の波が、柔らかく解けた。
先制攻撃は挫かれたものの、狼達はまだ戦意を失ってはいない。丘を駆け上がろうとするハイドウルフの残頭は、なおも勢いを失わず迫っていた。
レオニダスが、追撃の風魔法の手を上げようとした———
その時だった。
サリウ伯爵が、一歩前へ出る。
その動きは決して派手ではない。
だが、空気が変わった。
彼は両手を広げ、深く息を吸い込む。
春の風とともに、周囲の水分が、静かに応え始めた。
「――留まれ」
短い言葉と同時に、地面から淡く光る水の帯が立ち上がる。
それは奔流ではない。
滝でも、波でもない。
厚みのある水の壁だった。
草を濡らし、土を含み、しかし一滴も無駄に飛び散らない。
ハイドウルフの突進を、柔らかく、しかし確実に受け止める。
「グルルッ……!」
その背後で、ルディウス・ノルトが動いた。騎士の重心を低く落とし、地面に片膝をつく。土に触れた瞬間、彼の魔力が流れ込む。
「…沈め」
サリウの水魔法を含んだ土を、ルディウスが泥沼に変える。
泥に脚を取られた狼が、もがく。
泥は手応えなく押し返さない。
狼達を絡め取り、動きを奪うだけ。
その身を半ばまで沈めた狼達を見て、さらにルディウスは土に魔力を加える。サリウも、それに連携して泥に手を翳す。
「……支えるぞ」
泥に含まれた水が、一斉に応答した。
ぐ、と鈍い音がして、ぬかるんでいた地面が、瞬時に締まる。
魔法を含んだ土は、ただの泥ではない。
拘束の床だ。
狼達の体が沈み、引き抜こうとするほど絡め取られる。
「――いまです」
サリウの声は、静かだが迷いがない。
その合図を、ソリスの火が、バルグの土が、正確に拾った。
水が動きを止め、土が逃げ道を奪い、火が仕留める。
無駄がない。
恐怖も、焦りもない。
ただ、機能している。
レオニダス公爵は振り上げかけた腕を下ろし、その光景を見て目を細めた。
「……見事だ」
サリウ伯の水は、癒しのためだけのものではない。
敵を壊さず、制し、場を整える水。
ルディウスの土は、力任せではない。
流れを読み、形を与える土。
「百の軍を率いるより……こうして六人が噛み合う方が、よほど強いな」
呟きに、誰も応えなかった。
応える必要がなかった。
狼の群れは、すでに崩壊していた。
息があるのは数頭。
丘の上に立つ一行は、戦ったというより、ただ火の粉を振り払っただけに過ぎなかった。
春の風が、再び草原を渡る。
血の匂いは薄く、代わりに、湿った土と水の匂いが、静かに残っていた。
残る狼に戦意は残っていない。
数で押すはずの狩りが、完全に崩されたのだ。風向き、地形、魔力の流れ――すべてが、人間に支配されていた。
そして。
「――終わりです」
クラウドが、静かに言った。
斜面の縁が、わずかに持ち上がる。
生き残った狼の退路が、完全に塞がれた。
逃げ場を失った狼は、混乱し、吠え、レオニダスが手首を一振りした風に散った。
小さな風の刃はその大きさに見合わず、驚くほどの速さと切れ味で狼の体を二つに分けた。
戦いは、それで終わった。
丘の上に、再び静寂が戻る。
誰も息を切らしていない。
誰も、血に塗れていない。
「……フフッ」
レオニダスが、小さく笑った。
「なるほどな。これは確かに……サウナの効果だ」
草原を渡る春風が、血の匂いを運ぶことはなかった。
ただ、新芽を揺らし、一行の周りを静かに流れていくだけだった。
――メッツァ村は、もう遠くない。




